第14話 死と愛について( ii )

文字数 2,109文字

「僕は、彼を愛した。しかしただそれだけだったのである。この反省は、愛が僕にとって本質的な能力でありながら、絶対的に欠如している能力であることを示している。全く僕の愛は、インポテントの愛なのだ。そしてインポテントの愛ほど、この世の中で醜悪なものはないのである。たとえば、インポテントの恋愛を考えて見給え、それは、ドストエフスキーのフョードル・カラマーゾフのように薄汚く醜い。しかし誰が、フョードル・カラマーゾフを非難することができるであろうか。
 なるほどインポテントは、まだ習慣によって、或いは常識によって相手を愛しているといい得るかもしれない。しかし愛は、人間の肉体性において表現されないかぎり、情けない虚妄である。言い換えれば、愛は、いかなる愛も、肉体性において表現されないかぎり存在しないのだ。
 そしてそのことが、そのまま、人間の愛の悲劇でもあるのである。」

「肉体性が人間の愛の限界である。
 しかし愛は、限界を持たない故に愛ではなかったか。そして限界を持たない故に、愛はいっさいの可能なのであり、絶対の真理として世界をよらしめるものではなかったか。キリスト、あの死んだ女を立たせ、死んだラザロを歩ませたキリストさえも、遂にこの自己の肉体を超えることはできなかったのであった。死がやはり彼の愛の限定となった。全くあの十字架のキリストこそ、人間の愛の象徴である。あの十字架こそ人間の愛の負っている十字架なのであり、そしてそれは愛の限界として、そしてその故に根源として永久に人類の前に立ちつづけているのである。」

「愛における決定的な無能力、それは少なくとも僕の姿なのだった。だがこの僕は、友の死を前にして限りない罪の感じに襲われたのであった。全くどういうわけなのだろう。
 もちろん、僕は神を信じていない。それにもかかわらず、強い怒りと深い罪感を避けることができなかったのはどういうわけなのだろう。
 一体、僕にどんな罪があるというのだろう。もし僕の愛における無能力が罪であるとすれば、人間一般もそうではないか。罪はただひとりということなのである。だからそのような無能力が、人間一般であるとすれば、僕に罪がないということにひとしいのではないか。
 しかし僕は、やはり、彼に対して罪を感ぜずにはいられなかった。その罪感は、僕の存在の奥深いところから絶えず上って来た。まるで人間におけるこのような愛における無能力こそ、人間の原罪であるように。」

 椎名さんは、昭和二十五年(三十九歳の時)に、親交のあった赤岩栄牧師から洗礼を受けている。その頃、「思想的に行き詰まり、デカダンスな心境に陥る。太宰治の次に自殺するのは椎名麟三だろうと噂された」と現代作家入門叢書・椎名麟三(冬樹社)の年表は言う。
 この「死と愛について」の初出誌は昭和二十三年だから、まだ正式にキリスト者になっていない頃に書かれたものだ。

 ぼくに気になって仕方ないのは、ということ、その意識だ。
 罪。罪…。
 ぼくにも罪の意識がある。そのほとんどは過去のもので、過去におかした罪(の意識)が、何かの拍子にひょんとフラッシュバックするように蘇るときがある。
 そうしてジゴク、そんなもん知らないのだが、そんな業火に焼かれるような気持ちになる。それは、「ああすればよかった」「こうすればよかった、そうするべきだった」という、ひどい悔恨のような気持ちだ。
 もう、そのときに戻れないのだから、どんなに悔いても始まらない。それでも悔いる。「こうするべきだったこと」を、しなかったことに対して。

 それが罪、と呼べるほどのものであるか。少なくとも僕は、罪と

心地になる。罪だった、と言える。
 こんなときに友達を持ち出すのは卑怯な気もするが、ぼくの友達にも、「地獄に落ちるだろうな、オレ」と言ってる人がいる。かれは、ぼくから見れば全くそんな人ではない。予備校で講師をして、学生からも人気がある(と思う、もう何十年もやっているのだ)、繊細でよく気がつくし、ぼくにはもったいない友達なのだ。
 でも、「死んだらきっとジゴクに行くだろな」と自分のことをいう。その一言、ポツリといった一言を聞いた時、ぼくは微笑んでしまった。あ、大丈夫だ、と思えた。やっぱり、イイひとだ、と思った。

 罪。
 裁き、裁かれるところのもの。
 善/悪の、厳粛そうな顔つき。

 椎名さんは「肉体性が人間の愛の限界である」という。
 自分のことばかりで申し訳ないが、ぼくもこの頃、椎名さんほど大きくはないが、小さな自分として感じるところがある。たぶんぼくは肺をやられていると思う。死相がでている気もする。といって、元気である。だから何ということもないのだが、この肉体を超えていけないな、と、こんなところからばかみたいに感得する。自分の肉体にせいいっぱいみたいな気になって、家人につめたくあたったりしてしまう。いけないと思う。
 ついこないだ、おれが死んだら彼女ひとりになっちゃうな、長生きしなくちゃ、などと思ったのに。

 思い過ごしも恋のうち、病は気からと申します。とにかく元気です、だれにいっているのかね。

 まだまだ続きます。
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