第41話 (5)人間はホントウにだれかを愛することができるか

文字数 3,116文字

 夫が妻に、ほんとうに愛しているとだしぬけに告白するとき、その背後に何かの不安があるのが常だということについては述べた。そのことを、もう一度、妻の側からくり返して考えてみよう。
 とにかくその家庭は、幸福だと思われる家庭である。夫は、つとめから解放されて、そこだけは安らかな場所である家へ急いで帰ってくる。妻のフライパンでいためるたまねぎのにおいや壁にぶらさがっている着物にも、いうにいわれぬくつろぎを感じる。
 だが、妻の様子は、どこか屈託ありげなのである。いぶかしく思ってたずねると、ガスの集金人がきたが、払えなかったからだという。
「今月は、はやいんだな」と、夫はびっくりしたようにいう。「いつも月給日から三日ぐらいたってからじゃないか」
 すると妻は夫へ同感しながら、腹立たしげにいう。
「そうよ。ほんとにあのガス屋、ばかにしてるわ」
 食事もつつがなくすみ、もうそろそろ寝る時間だ。だが、妻は、ぼんやり座りこんでいるだけなのである。
 どうしたんだ、と夫はいぶかしそうに寝床のなかから声をかける。すると妻は、夫の枕元へやって来て、きちんと座りながら思いつめたようにいう。
「あんた、わたしをほんとうに愛してるの?」
 夫は、とつぜん思いがけない問いに、うろたえながら答える。
「いま…いまさら何をいい出すんだい?」
 そして、それで足りないと思ったか、こう付け加える。「そんなこと、いわなくてもわかっているじゃないか」

 だが、妻は、今日は意外にも妙に真剣で、どうしても夫の口からその告白を聞こうとして問いつめる。
「あんたは、ほんとうにわたしを愛しているの?」
 夫は、情けない顔で仕方なさそうに答える。
「ほんとに愛しているよ」
「ほんとに? … ほんとに愛しているの?」と、妻は容赦なく問いつめる。
 すると夫は、何か空虚な感じにおそわれたように、だまってしまう。
 そのふたりのあいだには、無限の彼方から吹いてくる白けた冷たい風が通り抜けている。むろん、こうならない御夫婦は幸福である。
 そのとき、夫の心のなかを横切ったものは、不安であり、妻をしてそう問いつめさせたのも家計の不如意からおこった不安であることはくりかえすまでもないであろう。
 だが、家計の不如意からおこったものであるが、それを動機にして、彼女自身の生活全体が、だから彼女自身が失われてでもいるような不安が感じられて来たのである。
 その不安において、彼女は彼女自身へ投げかえされるのだ。言葉は性格ではないが、我に返るというやつだ。
 そのとき彼女は、夫からはなれ、家庭からはなれてひとりになったのであり、自分自身へかえったのである。
 ほんとうに愛しているかという問いは、また逆にそのような不安をもあらわしているのである。
 では、彼女は、ほんとうに自分というものを失っているのであろうか。そうではない。自分というものをほんとうに失っているということができるためには、死んでいなければならないからである。

 このことは実験できる。あなたがだれかを愛しているならば、夜、部屋にひとりこもって少なくとも三度、こう自分に問いつめてみられるとよい。あのひとを愛していることは事実である。だが、わたしはあのひとをほんとうに愛しているのだろうか。ほんとうに、ホントウに、わたしはあのひとを愛しているのだろうか。
 答えは、(ノウ)であるだろう。少なくともそのときあなたにかくれている何かが、いわば不安の影がちらっとあなたの心を横切るだろう。何か、ホントウには愛していないというような気持ちがするだろう。
 むろん私は、あなたがたをおどかすつもりはないのである。私は、このような愛を失わせるものとたたかうためにこそ、この文章を書いているのである。このホントウにというものこそ、私の忘れることのできない仇敵であるからだ。
 私が、未決の独房で出あったのも、その仇敵であった。私は、そのとき、ホントウに自分は同志や仲間や大衆を愛しているかという問いにおそわれたのであった。そしてその問いは、自分の同志や仲間や大衆をホントウに愛しているとすれば、彼らのために死ぬことができるかという問いとなってせまってきたのである。

 だが、私は死ぬことができなかった。そして今まで同志や仲間や大衆を愛していたと思っていた自分をすっかり失わされて、すくいがたい裏切りの感情のなかにおとしこまれてしまったのである。
 それでなくても、ホントウにだれかを愛しているかという問いは、人間の不安を引き出すのである。むろんそれは、わたしはあのひとからホントウに愛されているか、という問いであっても同じことである。
 それでは、その不安から逃げだすために、愛して愛してきちがいになるほど愛したい、また愛されたいと思ってやっきになる、しかしそうすればするほどホントウに愛してはいない自分、あるいはホントウに愛されていない自分をますます逃れがたく感じさせてくるのである。
 そのとき口走るのが死だ。まるで死が、最後のそして唯一のホントウの愛の証言であるかのようにだ。あの初恋の美しい瞬間においてもそうであったように夫婦の愛においても、死が、憎らしくも、誇らしげに愛の証言としてその顔をだしてくるのである。

 私の遠いむかし読んだ新聞記事で、妙に記憶に残っている話がある。それは「不如帰(ほととぎす)」などの作品を書いた福富蘆花が、病気になって一度医者から絶望を宣告されてからもちなおし、庭にでられるようになったときの写真が大きくのっていた。その写真のやみおとろえた老人は、庭へかがんで地面の上の何かを見ていた。その説明に、彼は、生きているものは、(あり)さえも愛さずにはおられなくなっていると書いてあったのである。それはまるで彼の死への自覚が、彼の愛を引き出したとでもいうようだった。そして彼は、まもなく死んだのである。
 だが、最近二十歳前後の若い女性にたいする調査を読んでいて興味ぶかく思ったことがあった。現代の若いひとにおけるほど、愛が手がるく考えられている時代はないと、えらい人々からなげかれている。だが、その調査では、最愛のひとに死なれて、その後を追って自殺したひとを、純粋で美しいと肯定したひとがかなり多かったのであった。私たちが、純粋で美しいと感じるときには、その感情のなかにはそれこそホントウのものだという認識がかくされている。言いかえればその彼女たちには、その死に、ホントウの愛の証言を見たような気がしたのである。

 全くえらいひとびとによって非難されているどんな手がるい愛においても、それが愛であるならば、接吻や抱擁の一瞬には、このホントウの愛への要求がとつぜん、すがたをあらわして来るのである。ただえらい方々は、それを知らないだけなのだ。
 いずれにしろ、ホントウの愛にとっては、この肉体をもって生きているこの自分というものが、最後の障壁なのである。愛のなかへほんとうに失うことができない自分であるということが、空虚な冷たい風をよびおこすのである。言いかえるならば、自分というものがあるということが、ほんとうの愛から自分を無限にきりはなしてゆくのである。
 このことは、あの神聖なものとされている母の子にたいする愛においても、事実である。子のために自分自身の全部をささげている母においても、自分に、わたしはあの子をホントウに愛しているか、三度たずねることによって、その真相をあらわすにちがいないからだ。
 人間は、だれかをホントウに愛することも、また、だれかからもホントウに愛されることもできない。この規定は、厳粛なものだ。だが、だから、私の反抗は、ここからはじまるのである。
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