第42話 (6)死は愛の証言であるか

文字数 3,123文字

 愛は、愛をしてしか証言させないことだ。どんなことがあっても、死を、愛の証言とさせないことだ。それが私の反抗である。それはまた決意の問題であるだけでなく、ホントウの愛というものには避けがたい暗い影である不安と虚無にたいするたたかいの道なのである。
 私たちは、いつもあることについて不安になる。職場でソロバンをまちがったという小さな失敗や、近所のひとが何かいっていたというような取るに足らない他人の悪意や、タンスの引き出しから鍵がなくなっていたという出来事から不安になる。
 たとえば、会社でちょっとソロバンをまちがっただけなのに、上役や同僚に対してまるで自分が失われたような気になる。すると不意に、毎日会社でソロバンをはじいている自分がいやになり、会社全体が、そして勤めに出ていること自体がいやになって来る。彼は、退勤のタイムレコーダーを押して会社の門を出ながら、こんな無意味な生活なんて、もうぼつぼつやめていい頃だと考える。

 近所のひとが、自分について悪口をいっているのを聞く。あの奥さんは、お洗濯が下手だといったのである。むろん、そんなことは取るに足らないことだ。洗濯するために生まれてきたのではないのだから、そんな悪口は自分にとって致命傷ではない。それだのに彼女は、自分の結婚がまちがっていたような気がし、自分の一生はもう取り返しのつかないもののような感じにさえ襲われて来ることがある。
 タンスの引き出しにあった鍵がなくなっている。それがきっかけになって不安になって来る。もう説明はやめよう。不安は、いわばタンスの引き出しの中にまで潜んでいるということである。それは炊事場にも喫茶店のテーブルの灰皿の下にも潜んでいて、私たちを待ち構えているのである。
 炊事場の水道が出なくなったことから、喫茶店のテーブルの上にこぼしたコーヒーから、不安が襲いかかって来る。そしてそれは確かに、水道についての不安であり、コーヒーをこぼした粗忽(そこつ)についての不安であったのにも関わらず、ふいに自分の生活全体が、自分の生きているということ自体が不安になるのである。

 どうしてそんなことになるんだろうか。それは自分の中にある不安が、それらの小さなこと動機として引き出されてくるのである。言いかえるならば、自分が不安であるから、不安になるのである。そして人間が不安であるのは、いつかは自分というものが失われるのだという事実から来ているのだ。
 もし、私たちの愛を奪うものが、不安であるならば、この不安こそ、まずたたかわなくてはならない敵である。
 私は、いつも自分が不安だった。下駄の鼻緒が切れても不安になったからである。でがけに新しい下駄の鼻緒がぷっつり切れれば、何か不吉なことがあるしるしだという迷信がある。日本人にとってこの迷信はなかなか強固であるらしい。なぜなら、映画でも、芝居でも、強いサムライが履き物の鼻緒をぷっつり切らしたという描写があったら、必ずそのサムライは殺されることになってしまうのだが、履き物の鼻緒の切れたことが死に結びつけられても、日本人は何の不自然も感じないらしいからである。

 ある時は、彼の殺されるという理由があまり薄弱なので、鼻緒が切れたために殺される羽目になったという感じの映画さえあった。
 だが、私は迷信家ではない。下駄の鼻緒の切れることは不吉のしるしであり、死のしるしであるとは思わない。ただ、下駄の鼻緒が切れたという下らない事実によって、私が失われる人間であり、死ぬ人間であるという事実から来る不安が、引き出されただけであることを知っているからである。
 私は、この不安とたたかった。だが、そのたたかいは、私の不安を深めるだけであった。そしてある日、(たま)りかねた私は、もうどうしても不安から逃れられないならば、むしろホントウの不安そのものになってやろうとしたのである。

 さて、どういうことが起ったか。滑稽なことが起っただけであった。どうしても、ほんとうの不安に達することができなかったからである。それは、ホントウにだれかを愛することができるかという問いの時と同じように、ホントウに不安になることはできないからである。
 言いかえれば、ホントウに死んでみせるということに、ほかならなかったからだ。
 だから、ほんとうの不安になるということは、生きていて死んでいなければならないということになる。だが、残念なことには、人間というものは、生きている限り死んではいないのである。
 そして死ねば、まことに不安はない。なぜなら死体が不安を感じるなんて、まずありそうもないからである。人間は、現在二十四億人もいるのだから、たまに一つぐらいは、そんな不安を感じる死体があってもよさそうな気がするけれども、どうも一つもないということの方が確かなようなのである。
 そしてこの事実は、死が愛の証言とはなることができないということもあらわしているのだ。

 本所の空襲の時だった。私は、翌朝あの焼けただれた街を、親戚をたずねながら歩いた。作家の船山馨さんが同行してくれた。
 錦糸掘から神田への道を、罹災者がぞろぞろ歩いていた。火傷を負ったみじめなひとが、ひとの肩に助けられて歩いている姿も、次から次へと見受けられた。
 焼死体は、いたるところにごろごろしていた。その数があまりに多すぎるので、私はすぐ慣らされてしまっていた。その死体の数の多さが、その悲惨に目を背けずにはいられなかった私の感情を、たちまち殺してしまっていたと言えるだろう。
 私の一月ほどまえ住んでいた家は、妻の家族が残っていたのだが、その行方はついにわからなかった。あたりにころがっている死体を見て歩いても、それらしいものはなかったのである。
 川ぶちに、妻の妹のような焼死体が一つあった。しかしひどく焼けぶくれていて、ほんとに妻の妹であるかどうか決めかねた。

 翌日、もう一度たずねて行った時は、その死体は取り片づけられたらしく、もうそこにはなかった。錦糸公園へ運ばれて、死体の山の上へ投げあげられたのだろうと思われた。
 私のいいたいのはそれだけである。後日、その死体は近所の若い主婦であって、逃げられたのに、最後まで片輪の子どもを捨てては逃げられなくて死んだんだということは聞いたのだが、この話には何の関係もないのだ。その死体は、私に何も言わなかったからだ。私はホントウに子どもを愛していたのだ、そのために死んだほど、子どもを愛していたのだとは言わなかったからだ。そして他の何万という死体とともに、それらの死体と同じようにただの死体として積み上げられ、焼き捨てられただけなのである。
 その死体が、何ヵ月もたってやっと愛の証言として感じられるのは、他人としての私たち数人の者だけであって、その死体自身は、愛を証言しているとは微塵も思ってやしなかったにきまっている。その死体は、だれかを愛しているということもできないし、だれかから愛されていてもそれを知ることもできなかったからだ。

 私たちが、ホントウの愛を求めるのは、生々と愛に生きたいからであり、だからホントウに愛しているという愛の証言は、相手に対するだけでなく、自分自身に対して為されなければ意味がないのである。
 言いかえれば死体は、だれも愛してはいないし、また愛することもできないのであるから、それはほんとうにだれかを愛しているという証言であるどころか、だれも愛していないという証言なのである。
 だからホントウに愛しているという証言のために死ぬのだと本人が思って死んだとしても、事実はだれも愛さないために死んでいるのである。死は、愛の証言とはならないのだ。
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