第21話 仕事と恋愛 ii

文字数 2,328文字

「私は、未亡人の姪に対する嘆きを聞きながら、彼女の姪が女らしくないとする根拠をさぐった。
 そしてその根拠がやはり、姪が仕事というものをもっていて、男に対する関係が姪にとって第一義のものではないという点にあることを知ることができたのである。
 私は、姪を知っていた。彼女は、新劇新進の女優さんで、一時恋愛にからんだスキャンダルが新聞に報道されたことがあるが、それにもめげず意欲的に自分の仕事に精進している有能なひとである。
 実名は伏せて、ここでは彼女を単にS嬢としておこう。そして私は、F誌の編集部を介して、ある日そのS嬢と新宿で会ったのだった。
 S嬢は、紀伊国屋書店で二、三冊の本を買って私の待っている喫茶店へ入って来た。
『勉強家だね』と私はいった。
 彼女は、ううん、といって笑った。私は今日の自分の意図を彼女に話した。すると彼女は、いかにも覚悟をきめている感じで答えた。
『覚悟しているわ。今日は何でも話すわ』
 するとこの二十七、八の若い女優さんの心のなかにある強いものが、ぐっと私にせまって来たのである。私は、情けなくもたじろぎながら、彼女もいろいろ苦労して来たんだな、と思った。
 S嬢は、一時宝塚にいたことがある。だがその学校の思いがけない封建的なあり方に反撥を感じて、東京の両親のところへ帰って来た。敗戦まもなくだった。両親は、家に帰って来た娘を喜んだ。両親は、彼女に幸福な結婚を思いえがいていたからである。
 ところが、ある日、地下鉄のなかで、新劇の俳優養成所の募集広告を見たとき、彼女の心のなかに演劇への強い情熱がふたたび燃え上がった。もちろん両親は反対だった。で、彼女は、ふだん着に下駄ばきという恰好だったが、思い切ってなにひとつもたずに家をとび出してしまったのである。」

「『養成所へ通いながら、いろんなアルバイトをやったわ』と彼女はいった。『一番勉強できたときは、ダンスホールのクローク(携帯品預り所)にいたとき。あのときうんと本が読めたわ。でも、生活はひどく三百円のヤカン一つ買うのに何ヵ月もかかっちゃった』
 新聞種となった恋愛が起こったのは、彼女が養成所を出てその劇団に属し、世間に名が知られるようになってからである。相手はやはり有名な俳優だったが、残念なことに彼に妻のあったことが、その恋愛に新聞種になるような紛糾をもたらしたのである。
 私は、その経緯をあまり彼女に追求しなかった。彼女はいまもその男を愛しているらしいので、彼女の傷つくのを恐れたからだ。私がそれをいうと、彼女はきっぱりいった。『いいのよ、聞いても』
 だが、私はやはりたずねなかった。普通なら、その恋愛の紛糾にまき込まれて自分を失ってしまうところだが、彼女はそうでなかったことで十分だったからである。
『仕事がいつも自分をすくったんだわ』と彼女はいった。『どんなにその人を愛していても、わたし、稽古の時間に遅れたことがなかったのよ。そして稽古場へ入ると、さっきまでその人と会っていても、ふしぎなほどきれいさっぱり忘れてしまっているの。一つは私たちの仕事、仲間と一緒でなければやれない仕事のせいかもしれないわ。そう、ほんとね。仲間がいるから、そんな自分なんか忘れられるのかもしれないわね』」

「『今までもそんな破目に始終ぶつかったろうけれど』と私は烏山の未亡人のやさしい顔を思いうかべながらいった。『恋愛か仕事かというような破目におち入ったら、どちらをえらぶ?』
 すると彼女は、私のおろかさを笑うように、にべもなく叫んだ。
『むろん、仕事よ!』
『そうだな』と私は、情けなくも思わず感嘆した声を出していた。『そうだろうな』
 すると彼女はふたたび私をあわれむように繰りかえした。『そうよ』」

 ── 僕は、この女優さんに取材する椎名さんの姿を思い浮かべる。誠実そのもの、といった椎名さんの顔とその態度を。
 椎名さんの、こういったインタビュー的なもので一番印象に残っているのは、自殺未遂者へのそれだ。
 おそらく精神病院の院長からの伝手(つて)で、自ら命を断とうとした人、数人へ、夫々の家へ訪ね、その死にたくなった時の気持ち、その瞬間の気持ちを、椎名さんは聞き出そうとしていた。
 椎名さん自身、「絶望の名人」であったし、自殺を考えるベテラン、達人、手練の人、というイメージが僕にはある。だからこそ、この作家を好きになったのだが…。

 その自殺未遂者への取材は、あまりにも残酷だ、と、同行した編集者は言っていたが、椎名さんは「残酷なほど平気だった」と自身のことを書いていた。
 まったく、自殺未遂者と椎名さんの間には、少なくとも椎名さんの中では、およそ「他人」ではなかったのだろうと想像する。
 それが、椎名さんのやさしさであり、人望であり、このエッセイの文体にも現れる誠実さ、こまやかさ、おおきさのように僕には思える。
 この女優さんも、知り合いとはいえ、椎名さんとほんとにインタビュー ── inter-view とは二人の間にあるものを二人で見るということだ ── し合え、その時間が終わっても、のちのち忘れられぬ存在になったのではないか、と思われる。
 偽善的なところが、椎名さんの書く文から、毛の先ほども感じられない。僕は椎名さんのファンであり、信者とも言い換えられそうだ。ホントウのホントウか、と問われれば、「ホントウのホントウのホントウです」と、ほんとうに神を信じているのかという質問にユーモアをもって答えていた椎名さんを思い浮かべるほどに。
 そして、なぜ自分がそうなったのか、椎名さんがクリスチャンになった理由を自分で考え、自分の言葉で語れるように、僕も考え、この連載の中で書いて行ければと思う。
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