第22話    〃    iii 

文字数 2,652文字

「だが私は、彼女に申し訳ないが、あの未亡人の彼女を非難して言った言葉を思い出していたのである。あの未亡人は、いまの若いひとたちの恋愛の女らしくない証拠として、割り切っているという言葉をつかっていた。そしておそらく彼女が姪にそう感じたのは、姪のこのような生き方や考え方に対してであろうと思われた。
 明らかに、戦後においては、若い女のひとたちは、男に対する自分だけではないことをはっきり自覚しはじめたといっていい。というよりも、自分は女である前に人間であり、だから自分というものは社会に対する自分であるとはっきりとらえている。彼女らに、あなたの自分とは何か、とたずねれば、社会的な自分である、と答えるにちがいないのである。」

「戦前もそうであったが、戦後においても自己確立という言葉が、とくに学生の間に好んで口にされた。だが、自己とは何かということをたずねると、あいまいな答しか得られない場合が多かった。もちろん、自己とはちょっと考えると、何が自己やらさっぱりわからなくなってしまうものだ。だが、自己とは何に対して自己であるかによってきまるのである。
 私の知っているある女のひとは、家庭的に非常な不幸なひとであった。そのひとは、犬を飼っていたが、不幸にしずんでいるとき、その犬が、垣根にたわむれたり、蝶を追いまわしたりして何の心配もなく遊んでいるのを見ると、あるうらやましさを感じ、犬のようになることができたらどんなに幸福だろうと始終考えていたのである。
 だが、その女のひとはだんだん犬に似てきたようなのである。四つん這いになったり、顔が犬のようになって来たというのではない。犬のように何も考えない人間になってきたのである。彼女の自己とは、犬に対する自己であったのだ。」

「だから社会に対する自己といっても、仕事を通じてどんな社会的な目標を目ざしているかということによって、その自己はするどく決定されてくる。
 S嬢のばあいは、その自己とは、演劇に対する自己であり、演劇を通じての社会的な自己であるということができるであろう。だが、その彼女は仕事から解放され、恋愛も忘れているようなときがある、と、ふと()らした。
 私は、かすかなショックを感じて、思わずたずねた。
『そんなとき、何を考えているんだい?』
『それがね』と彼女は、どうしてか当惑したような顔をしながらいった。『人間て何のために生きているんだろう、という妙な気がするときがあるのよ、わたし。そのときは、ほんとに仕事も恋愛も、何かうとましい遠いもののように思えているの』
 私は、だまっていた。
 その私は、このようにしっかりした彼女をおびやかすものがあるということに、人間というものの深淵をのぞかされた気がしていたのであった。」

 ── (椎名さんの時代は、もちろんワープロもパソコンもない。自動変換する機能もなかったから、漢字が少ない。あえてひらがなを多用しているようにも思える。「彼女のばあい」とか「言う」を「いう」と書いている。でもこのあたりは、やはり椎名さんのやさしさのように感じられる。読者に対してでなく、取材した女優さんに対しての。何か論理的に分析するのでなく、寄り添い、というような心があった時、漢字はつめたく、ひらがなの方が自然に使われるような気がする)

 自己とは何か。
 これは、このためにぼくが生き、ここに何か書く、唯一の理由らしい理由だ。自己とは何か── 椎名さんは、このことで、「何に対する自己かによって、自己がきまる」と確言している。
 たしかにそうだろう。無人島にひとりでいれば、「食べること」のみに対する自己がうまれるだろう。見栄も体裁もなく、お金も何の価値もなく、生きること=食べることのみによって自己が確立し、存在することになるだろう。
 べつのエッセイで、椎名さんは洗濯物について、こんなふうに書いている。「庭に洗濯物を干していて、近所から、あの人は何という干し方をしているのだろう、という悪評にも似た評判がたつ。すると、その主婦は、まるでもう自分そのものに悪評がたったような気になるであろう。洗濯物を干すために生まれてきたわけでもないのに、自分はもうダメなのだ、というような気になるであろう」と。

 洗濯物を介し、自分がもうダメな人間であるかのように思ってしまうことは、何も洗濯物に関してだけでなく、仕事や、箸の持ち方や、レストランでのマナーなど、些細なことからそう思えることがよくある。その仕事のために、その箸のために、マナーのために生きているわけでないにも関わらずに。
 それは、それらに対する自己である、というだけであるはずなのに。

「女は女らしく」という恐ろしい固定観念が、社会通念のようにあった時代は、女は男に対してのみの自己であったのだろう。存在じたいが、そう「固定」されていたのだ。そして固定されたところの存在は、そこから外れると、自己そのものまで糸が切れた凧のように宙へ放り出されてしまったのだろうか。

「らしく」「こうであれ」という観念は、不自由で恐ろしいものだ。でも、そんな縁取られたフレームがあるからこそ、自己とは何か、を追求するとき、地に足を着けて考えられるのかもしれない。
 戦前戦後に、自己確立という言葉が流行っていたということは、それだけ頑強な枠に社会が覆われていたことを意味するのかもしれない。
 とすると、今はどうなのだろう?
 特に、一見、この国は軍国主義でもなさそうだし、宗教も何やら自由そうだし、社会的に強固な「縛り」は、とりたてて無さそうに見える。
 だが、ほんとうにそうなのだろうか。
 いくら世間、社会が男女平等を謳い、自由民主党などと聞こえのいい政党が幅を利かせたところで、何か上っ面だけのように思えてならない。
 

だけで、何も内実が伴っていないように見えるのは… 気のせいだろうか?
 何に対する自己であるのか。
 社会に対する自己とは何なのか。
 資本主義の国に生きていると、その主義が水のように感じられ、民衆はその水槽を泳ぐ金魚になるという。どんな国にいたところで、その国の「主義」からは逃げられぬものだろう。
 だが、どんな水槽にいようとも、自己というものを抱える人間であるということには変わらない。
 女とか男とか括りはあっても、その前に人間であり、人間である以上、まわりの何かに対する自己であるということ。
 それを、やはり基本としたい。生きる上での、おそらくいちばん大切な「自覚」であると思える。
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