第36話 (1)愛の郷愁

文字数 3,459文字

 私は、かつて、愛なんて知っているのかと思われる十六の少女から、誰かを愛したい、愛して愛して、きちがいみたいに愛したい、という激しい告白を聞いて驚いたことがある。
 その少女は、ほんとうに誰かを愛したいと言いたかったのであろう。
 しかしその少女から感じられたものは、何をもってしても埋めることのできない、暗い深淵から、その訴えが飛び出して来たように感じられたのだった。
 彼女のその訴えは、その暗い深淵を埋めようとする衝動から出たように思われた。その言葉が愛であり、ホントウの愛であったのは、私にはかえって人間の悲惨を感じさせられた。

 また、私は、あるとき男に裏切られた女のひとから、身の上相談を聞かされたことがある。その女のひとは、涙をながしながら、あのひとを死ぬほど愛していたのにと言った。その彼女は、その言葉で、その男をホントウに愛していたと言おうとしたのにちがいない。
 しかしいずれにしろ、愛がホントウの愛として表現されようとする時、救うことのできない虚無や死の影がさしはじめるということは、人間の避けることのできない不幸であるようである。
 だが、私は、このような不幸に抵抗を感じる。
 愛は愛であって、死や虚無の影をおとさせたくないからだ。そこで、人間は、誰かをホントウに愛することができるか、という問題に矛先を向けずにはおられないのである。

 私は、父と別居した母と田舎で暮らしていた。誰の少年時代でもそうであるだろうが、親に対して全く従順であることはできないものだ。
 私は、のべつまくなしに母親の小言の洪水をあびた。一度従順になって()められたいものだと思って、子どもとしてはあまり無邪気でないおべっかも使って、従順とはこういうことであろうかと思われるようなことをするのだが、母の小言の方がそんな苦心なんか、手もなく飲み込んでしまうのである。
 洗濯を手伝おうと思って、たらいに浸けてあった洗濯物に手をつけ、かえってこっぴどく叱られたことがある。その母の下着には血がついていたのだ。

 私にとって、その母は、理解することも避けることもできない大きな現実だった。彼女は、ともすれば竹箒(たけぼうき)を振り上げながら私を追っかけた。私は、村の中を逃げながら、追われている自分はもちろん追って来る母も恥ずかしかった。いい加減でやめてくれないかなあ、と思った。だが、私は逃げ続けるより仕方なかった。立ち止まって、母からぶん殴られる勇気がなかったのである。
 だが、こんな母であり、こんな子でありながら、私にとって効果的な一語があった。それは母の、
「おかあちゃんは、どっかへ行ってしまうさかいな」
 という言葉だった。むろん、母の状態もそんなこともやりかねない不幸なものであることを子ども心に感じていたせいもあったが、そう言われると、反抗的な小にくらしい少年も、一度にシュンとしてしまうようだった。
 そればかりか母のいなくなった世界は、夜の墓場のような、暗い、あやしげな(もの)()にみちた、たえられない、さびしい世界になってしまうように感じられたのである。
 だから私は母からそう言われると、めそめそ泣き出したものだ。だからその直後だけは、さすがの私も神妙な気持ちになっていた。母は失われてはならない大切なもののように思われたからだ。

 誰かに対する愛というものが何らかの意味において、別れるということによってしか自覚できないということは、愛に弁証法的な性質を与えるもののようだ。
 愛のもっている喜びや悲しみや、あのはてしない悔恨と熱狂などの性質は、ひとを愛したことのない人間には理解しがたいものであろう。
 言いかえれば、愛は気づかれる必要があるということだ。赤ん坊は、母の乳房を恋い、母から離れることをいやがる。その状態を見て、赤ん坊が、母親を愛していると思う者はないだろう。
 なぜなら赤ん坊は、自分が何をしているのか、さっぱり分からないのであるからだ。だが、私の妹は、夫と別れてやってきた時、彼女の赤ん坊をあやしながらこう言った。
「赤ちゃんだけね、わたしをほんとうに愛してくれているのは」

 だが、残念なことには、そのとき赤ん坊はむずかりながらワアワア泣き始めたのだった。その時の妹の、妙にひるんだような当惑した顔は、笑うに笑えないものとして私の心に残っている。
 だが妹は、どうして赤ん坊と自分との関係にホントウの愛を感じたのだろうか。
 それは二人のあいだは、いさかいも矛盾もなく直接的に結びついているからである。赤ん坊の要求と自分の要求とのあいだに根本的な矛盾がないからである。

 赤ん坊の要求は、泣くということによって表現される。
 私の子どもが赤ん坊の時だった。いくら乳を与えても泣きやまないので、よく調べてみたら、おむつに針がささっていたということがあった。とにかくその泣き声は、何かに対する要求なのだ。
 むろん、母親にとっては、その泣き声がうるさい時があるだろうし、いろんな事情からその要求をむやみに満たしてやれないということもあるだろう。「うるさいわね、この子は!」などと言って乳を与えている母親もいる。
 しかしその乳房を与えてやっている限りにおいて、泣いているのをしずまらせてやりたい、つまり要求をみたしてやりたいというのが、母親の根本的な要求にちがいないのである。

 この状態は、一つのユートピアである。これは、何に対しても言われることで、自分の要求と社会の要求とがいつもぴったり一致している時も、そう呼んで差しつかえないし、家族の要求と自分の要求とがいつもぴったり一致している時も、そう呼んで差しつかえないと思われるからだ。
 こうして赤ん坊の状態というものは、私たちの郷愁として、誰かへの愛に失望した瞬間に私たちの心におそいかかるのである。

 自然に対する愛も、この母と赤ん坊との愛の模型である。そそりたつ岩や山の道や、森の木々や清らかな谷川や、はてしなく波を打ちあげている海の風や光に対した時、乾物屋のおやじさんや髪結いのおばさんさえ、ふいに詩人になったように、その風物をたたえはじめるのである。
 まるでそれらの風物と愛しあっているもののようにだ。
 そして私は、リアリストをもって任じている小説家が、そのリアリスチックな小説の中で自然の風物を描写しはじめると、ふいにうたい出すのに何回も出会っているのである。

 林の梢や野に咲き乱れている花や、飛んでいる鳥などは、人間に対して直接には何も要求しないからだ。
 そしてそれをたたえているものは、直接には何の要求もなく見ているだけであるからである。
 そこには争いがおこらないのは当たり前であり、何の矛盾も感じられないのが当たり前である。
 そしてこのような自分と自然とのぴったり一致しているという感情の中に、あの愛の郷愁をさそい出されるのである。
 だから、自然が雨を降らせて、乾物屋のおやじさんや髪結いのおばさんなどに雨具を要求し始めてみたまえ。この自然の詩人たちは、たちまち呪いの声をあげ始める。
「ほんとに、いやな天気ねえ」
「そうだよ、これでは旅行は台なしだ」

 植木を愛する老人、猫をかわいがる孤独な女、小石を集める少年などは、私たちの日常生活によく見受けられるのである。だが、彼らは、それらの植木や猫や小石に、あの失われた愛のユートピアをとりもどそうとしているのである。
 彼らは、それらのものだけが、自分をホントウに愛してくれ、それらのものだけが、自分をホントウに生かしてくれているもののように感じる。

 だが、はなはだ残酷で申し訳ないが、それらの植木や猫や小石は、彼らをただの一度も愛したことはないのである。
 といって、彼らをとがめているのではない。愛というものを一度も考えたこともなく暮らしているので、外から見るとあたかもホントウに愛しあっているように見える人々がいるのである。
 夫だから共にいるという妻と、妻だから一緒に暮らしているという夫との作っている家庭の、あの平和さ。そこには、ホントウの愛の至純な姿があるように見える。

 だがそれは、残念なことだが愛というものではない。
 彼らのおのおのが相手を愛している気がしていても、またレマルクのいうように、追いつめられた人間にとっては、共に一緒に暮らすという愛しかないとしても、しかしそれらは確かに愛でありながらもホントウの愛ではないのである。
 愛の高さや強さは、その愛からどれだけ自分が引き離されているかという自覚によって、きまるものだからだ。
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