第37話 (椎名さんとキリスト教)

文字数 2,389文字

 さて、前記の「愛の郷愁」を「写経」したのが、二十日くらい前だった。
 この翌日、眼がおかしくなって、以来この連載が頓挫している。ついでに、キルケゴールについての連載も、頓挫している。いいかげんなものは書きたくないと、これでも思っているし、すると参考文献を読み、そこから正確に引用し、── 本とパソコン画面を、眼が行ったり来たりすることになる。老眼(近視?)なので、本を読む時はメガネを外し、PCに向かう時はメガネを掛け、この運動がけっこう眼の負担になる。今はなるべく眼に迷惑をかけたくないので、眼がよくなるまで、この連載とキルケゴールは、しばらく休止する。

 ただ画面に向かっているだけなら、長時間でなければ大丈夫そうなので、今はただ椎名さんのことを、椎名さんについての自分の頭の中のことを、書こうと思う。

 椎名さんとキリスト教。
 椎名さんがクリスチャンになった時、まわりの文学者は「もう椎名麟三は終わった」と言い、入信する前は「やめろやめろ」というような意見が多かったらしい。
 要するに、文学者たるもの、自分で真正面から物事を受けとめ、自分で考え、血を流して書く、そこに「キリスト」という救いのようなものが介在しては、それができなくなるだろう、ということで周りの人たちは批判的だったのだろう、と安直にぼくは想像する。

 ぼくも、椎名麟三の本を読み続けて、キリスト者になって以降の椎名さんの作品は、その先入観もあってか、馴染みにくかった。以前の、「である」「のだ」調の、重さがなくなって、軽くなってしまったように感じた。
 だが、それでも読み進めていくうちに、椎名さん、クリスチャンになってよかった、と感じられるようになった。
 稚拙な例でたとえれば、荒井由実が松任谷由美になったようなもので、クリスチャンにならなければ、ユーミンが正隆さんと結婚しなければああならなかったように、あれほど多くの作品を創り続けることはできなかったろうと思えるからだ。
 そして椎名さんがクリスチャンにならなければならなかった、自分からそうなった、そうした経緯、思考の流れもぼくにはよく解ったし、納得ができるものだった。

 椎名さんはマタイ伝からの引用文をよく採用し、そこから小物語をアレンジして書いたりする作品もあって、宗教アレルギーのぼくにも読めた。
 クリスチャン作家で有名なのは遠藤周作だが、遠藤さんは「椎名さんとは、キリスト者になるまでの経緯、成り立ち方が違うから」というニュアンスのことを言って、椎名さんの信仰について多くを語っているのを、ぼくは見たことがない。一言でクリスチャンといっても、いろいろあるようだ。

 ぼくの印象、キリスト者としての椎名さんの印象、イメージをそのまま書けば、椎名さんは「無信仰者・キリストを信じられない者の味方」という感じが強くある。ガチガチのキリスト者ではない。むしろ、そのガチガチさを厭う。「絶対」というものを嫌う、いい加減さ(良い加減さ)、といっては語弊があるが、それに似た、おおらかさのようなものが必ず感じられる。
 大江健三郎が「神を信じられない人間は、どうすればいいのか」といったテーマの作品を書いたように、椎名麟三も「神を信じられない人間」に、とても同意、好意的で、聖書に書かれていることなど信じられなくて当然だ、とエッセイで書かれていた。
 そんな柔らかさ、そして「自分はこうしてキリスト者になった」心的歴史が、椎名さんの書いた多くのものを読むにつけ、ぼくに理解された──よかった、よかったね、椎名さん、と同意をもって。

 しかし信心というもの、この内的な、あまりに内的なこと、一体何が決定的な契機となってクリスチャンになったのか、という具体的な記述については、読む側に決定権が委ねられるだろう。
 ぼくには、「一度死んだキリストが『自分は生きているのだ』と弟子たちに示すために、焼き魚か何かをむしゃむしゃ食べてみせた」ことに、何かを見た椎名さん、また、「突然」という椎名さんの記述、理解するとかしないとかではなく、聖書を読み返し続けて「突然(わかった)」とでもいう記述が印象的だ。
 ぼくにも、やはり救われたい、楽になりたい、とでもいう、切実そうな願いがある。だが、そのために、信じたい/救われたい、というような希望、願望をもって聖書を読むと、はじかれてしまう。
 海の上を歩いたとか、信じられないことが多く、とてもじゃないが、やはり信じられない。
 で、ここら辺りが微妙な心理のところと思うのだが、そのいっさいを(ぼくが椎名さんがクリスチャンになった理由が解るということ)ここに書くのは難しい。そのキーワードになるような文字を、羅列することぐらいが、せいぜいだ。
 ユーモア。
 微笑。
 余裕。
 絶対化しない。
 でも、信じている。
 ホントウに(ここはカタカナでなければならない)信じている。
「あなたは本当に信じているのですか」という問いに、「ホントウのホントウのホントウです」と答え、会場を笑わせた椎名さん。

 … 足りないが、そして書いているぼくもこんなんじゃワカランよな、と思うけれど、そんなユーモア、優柔さに、ぼくは椎名さんの信仰、その理由(理由は後から付けるものが多いが椎名さんは同時進行的に、理由をそのまま現在進行しながら、理由をそのまま今に生かしながら、信じる理由をそのままに生きていた、というか、これじゃよけい分かりにくいが)が、あるように感じられ、また思えてならない。
「受け入れられた」と書くべきだろうか。聖書に椎名さんは受け入れられ、椎名さんは聖書を受け入れ、これは同時的なもので、椎名さんはそれを生き続けた、と書くべきだろうか。
 いやいや、ほんとに理屈ではないのだが。
「仏教でも、何でもよかった」と書いていた椎名さん。
 うーん、だめだ、うまく言えない。
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