第38話 (2)愛の選択

文字数 1,899文字

 だが、愛は自覚されるやいなや、あの愛のつらさという弁証法的な運動のなかに投げこまれる。だがここで、あまりにもわかりきっていて、考えるということさえふき出したくなるようなことを考えてみたい。つまり愛はどうしてつらいのか、考えてみたいと思うのだ。
 最初は、その愛の成就させることをさまたげる何かの条件についてのつらさとしてやってくる。恋人に配偶者がいたとか、自分の愛を成立させるには、給料が少なすぎるとか、彼らの愛にたいして周囲の反対があるとか、あるいは、自分の愛を相手が受けいれないだろうという不安などによって、夜ごと眠れなくなってしまうらしいのである。

 英国の王女の恋愛問題にたいして、日本の新聞や雑誌などが、何ヵ月にもわたってさわぎたてたことがあった。そのタイトルの多くは、「恋か、王冠か」というような、彼女の決断の方向に好奇心をもっているようなつけ方であった。彼女は、王冠の方をえらんだ。すると例によって、誉めるものとけなすものが出てきた。
 世間というやつは、よけいなことをいいたがるものだから、その賛否なんかどうでもいいとしても、当の彼女は、どちらをえらぶかということについて、なやんだにちがいないことは確実である。そしてなやめばなやむほど、自分というものがどんな自分であるか、ますます深く知るはめに追いこまれたにちがいないのである。

 愛をさまたげる条件が、月給が少ないということにあっても、事態は同じである。彼は、夜も眠られない。その彼は、彼女を愛そうとする心と、その愛から逃れようとする心との果てしない運動のなかで、しだいにみじめな自分を見出してゆくのである。
 愛へのさまざまな妄想が自分の思いを奪って行けば行くほど、寝床のなかの彼の身体は、腹でもいたむように転々と寝がえりをうち、彼の口からは、あわれな嘆息がもれて来るようなものなのだ。
 彼は世界じゅうで自分ほどみじめなものはないと考える。彼は、給料をあげてくれない上役の顔を思いうかべ、そしてこの資本主義の社会制度に腹立しさを感ずる。
 しかし革命を起こすにしても、明日はとにかく今日はまにあいそうもないのである。そして彼は、自分に兄弟があったことに気づき、学校の成績では、数学があまりよくなかったことに気づくだけでなく、自分の首筋にほんの小さな、しかしおかしなイボが一つあるという、自分についてのくだらないことことにまで気づくのである。そしてますますみじめになって来る。

 そして彼が、そんな自分に気づけば気づく度合だけ、愛の方はますます火の手をあげてくるという始末なのである。言いかえるならば、どれだけ自分というものが今の愛にふさわしくないか、どれだけ自分というものはこの愛から遠ざかっているかを知れば知るほど、愛の情熱がたかまって来るのである。
 彼はそんな自分がやり切れなくなってくる。そこでこのつらさから逃れるためにもあのマーガレット王女のように愛をえらぶか、それとも愛をあきらめて自分へかえるかが問題になってくる。そしてこの段階で、マーガレットのようにあきらめて自分へかえってしまう人びとが世間には多いようだ。

 私も、その御多分にもれないひとりである。私の心のなかに、そんな胎児のまま殺された愛の死骸がごろごろしているのである。世間にも表面そんなけぶりを見せていないが、心のなかには、私のような愛の死骸を数多くいだいているひとが多いのではないか。
 またふいに思いがけないひとから、こんな心のなかを私にさらけ出して見せるひとに会うこともある。そんなとき、たいていチャンスがなかったとか、条件が困難だったとかいう弁明付きであるにしてもだ。
 しかしそれは、チャンスや条件の問題ではなく、彼が愛をえらばなかっただけにすぎないのだ。もし彼が愛をえらんでいたとしたら、そのようなあきらめの物語ではなく、ほかの物語が、愛を成就させようとした苦しい戦いの物語か、幸せな結末をもったいわゆるハッピィ・エンドの物語が語られたにちがいない。

 そのことについて想像されるのは、昔のあの封建時代に、大名の娘にほれたまずしい町人の息子がいたら、その町人の愛は、どんなものであったろうということである。むろん、こんなことは想像で、実際はおこりえなかったにちがいない。なぜならその時代には、町人の息子にとってその愛の距離は無限のものと思われ、たとえほれたとしても、その瞬間にあっさり失恋してしまっていただろうからだ。その点、皇太子や内親王に対する浮浪者の恋の方が、まだ現実性があるだろう。

(※ えらぶ、なやむ、ちがいない等、原文のまま、ひらがなで記しました)
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