第15話 死と愛について( iii )

文字数 1,775文字

「そうなのだ。愛における決定的な無能力、それが原罪である。言い換えれば、たしかに人間にとって、愛するということすらが罪なのである。
 何故なら、前にも述べたように、死という限界を、したがって肉体性という限界を持つ愛というものは、既に愛ではなく、ただの虚妄にすぎないのである。言い換えれば、愛が死という限定から自由にならない限り── それは偶像視されている母性愛にしろ人類愛にしろ── それはインポテントの愛であり、虚妄であることを脱れることはできないのである。しかしいかなる愛も、遂に虚妄であるとするならば、何が人間をこの地上に引きとめているのであろう。自殺こそ、人間にとって最善の道ではないであろうか。しかし自殺…。」

「自殺。それは一体何なのであろう。
 自殺は、常に何のためにという目的を拒否する。もし死ぬために自殺するというのならば、それは滑稽な自己矛盾ではないか。だから自殺者は、妥当な、人々を納得させるに足る理由を、少なくとも自分のために準備するのである。そして人々は、その自殺者の理由を信ずる。それより仕方がないからだ。たとえその理由に不思議を感じる時があっても。
 しかし自殺者の理由は、疑えば無限に疑い得る。というのは、そのとき人々は、その理由が彼の自殺の根拠を十分に満たし得ない空虚さを感ぜずにはいられないからである。
 人々は言う。どうしてそんなことで死ねるのか、と。全く自殺においては、いかなる理由であっても、理由とならないように見える。言い換えれば、自殺の理由は、いかに真実そうな理由であるとしても、自殺の瞬間に虚妄になるからである。」

「しかしドストエフスキーは、『白痴』の中で、自殺が人間の残された最後のそして唯一の自由であると言っている。何故そうであるのか。── 一般に人間は、虚妄を信じ得ない限り自殺できないのであるが、しかしそれにも関わらず自殺が決断であるということの中に、人間の自由が初めて全的に保有されるのである。
 というのは、自殺における理由は、いっさい虚妄になることによって、自殺は人間において理由なしに行われる唯一の行為であるからである。
 ある人は、小説が書けなくなったから自殺しただろう。しかしそれらの理由は、やはり虚妄なのである。」

「もし人間が、自殺においてこの理由の虚妄性を脱れ得る道があるとすれば、自殺において死んではならないのである。
 言い換えれば、死後の世界の実在性が証明され、しかも自殺した人間がその死後の世界においても生き続けていることの実証が、この世にもたらされなければならない。しかもこの世とあの世との断絶なしに。
 いえば幽霊だけが、自己の自殺の必然性を提示し得る可能性をもつのである。自殺者は、自ら死を選ぶことによって、生を自ら断絶する。彼は、その断絶によって自己の生の無意味を現実化するといってもいいのである。全く自殺者にとって生は徹底的に無意味である。そのとき自殺の理由だけが意味を持つということは、おかしいではないか。
 そうである。彼は、自殺の意志を抱いて生きているだけの間だけ、そしてまだとにかく生きているということによって、生の無意味も彼にとってある意味である。ただ、その無意味の意味が、自殺の実現によって(うしな)われてしまうのだ。」

 ── 愛することと死ぬということ。
 これは、ぼくには切っても切れない縁があるように思える。
 積極的な自殺。
 他者へ、死んでいくこと。
 誰かを愛していくことは、死んでいくことと、どこか似ています。吟遊詩人も唄っている。

 これは、「原発=危ない」と、理屈でなく直感するのと同じ類いのものかもしれない。自分の場合、よく思うのだけど、まず直感がある。そのあとで、理由がついてくる。つける。
 自分の中に、すでに、ある答がある。それに向かって、確証を得るように勉強していくこと── それが大袈裟にいえば、生きることのように思う。

 しかし「自殺においてこの理由の虚妄性を脱れ得る道があるとすれば、自殺において死んではならない」の一文には、笑ってしまった。でも、ほんとにそうだと思う。死んでしまっては、虚妄性から脱し得ず、無意味の意味さえ付けられない。
 とにかく生きること。
 とにかく生きること、意思をもって、意識をもって。
 それ以外に、特に肝心なことは、ない気がする。
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