第30話 この愛は恋愛に至らず ii

文字数 3,827文字

「もし、ここにどんな男のひとに対してもいつも自分を、あのひとは好きだという領域にとめておいて、なんらかの理由で、本当に好きだと思わないひとがいたとしたら、そのひとはどうであろう。そのひとは男のひとに対して、いつもある自由さというものを保っているにちがいないことは明らかである。
 ある議員さんの秘書をしているK子さんがそのようなひとであった。
 K子さんは、三十をすぎたばかりであるが、ものにこだわらない闊達(かったつ)なひとで、それがいかにもひとに好かれそうな女らしい魅力をつくり出している。ものにこだわらないから、心がやわらかく生々とよく動くからだ。秘書のほかにジャーナリズムに関する仕事も引きうけているので、毎日が忙しい身体なのだが、そのなかでたくさんのひとにも会い、またたくさんのひとと一緒に仕事もする。彼女は、それらの人々に愛され、そして彼女も愛しているのである。」

「たしかにK子さんは、多くのひとに愛されている。だがそれらのひとびとは、単なる愛の領域にとどまっているひとばかりではない。彼女をほんとうに愛したいと思い、だから彼女からほんとうに愛されたいと思う男のひとの出てくるのは当然である。
 そのときそのときその男のひとの突きあたるのが、ほんとうには愛さないという彼女の自由さなのだ。だから彼の彼女に対する求愛というものが、どんなまがりくねった悲惨な形をとらざるを得ないか、想像するのに難しくないのである。
 彼は、その彼女の自由さを手さぐりしながら、おずおずと遠廻しにいう。
『K子さん、結婚というもの、どう考える?』
 K子さんはにこにこしながら答える。
『さあ、案外くだらないものじゃないかしら』
『そうかな、しかし一概にそうはいえないんじゃないかな。結婚にだっていい面もあるんだぜ』と彼は力説する。
『いままで、人類は、何百億、何千億いたか知れないけど、たいていは結婚してきてるんだ、もし結婚というものがくだらないものだったら、そんな馬鹿なことはして来なかったと思うんだ。バートランド・ラッセルは、その結婚と道徳という本のなかで…』」

「そして彼は、東西の結婚観について述べ立てる。彼女は、彼の学殖に感嘆しながら彼からさまざまの結婚観を学ぶ。それらの結婚観は、彼の意図から、当然すべて人間は結婚しなければならないというものであるにしろ、しかし彼女はそれにこだわらない。そして彼は、彼の知っているすべての結婚観を論じつくし、突然空虚になって、別れなければならなくなってしまう。
 彼は自分は何を話していたんだろうと自分に絶望しながら帰って行き、彼女は、自分は結婚についてあまり知らないので彼は教えてくれようとしたんだ、何という親切なひとなんだろうと思っていそいで去っていく。次の忙しい仕事が待ち構えているからだ。そして忙しい日が毎日つづく。彼女は生々と活動し、テキパキと自分の仕事をやってのける。
 だが、ある日、とつぜん彼女は、先日の彼を思いだして、いくぶん自分に対して残念な気もし、しかし彼に対しては気の毒な気もする微笑をうかべながら考えるのだ。
『ひょっとしたら、あのひと、わたしに求愛していたのかもしれないわねえ』
 しかし彼女はそれにこだわらない。仕事が待ち受けているからだ。」

「ある男のひとは、もっと直接な形で彼女へいう。しかしやはり遠まわしなのである。
『K子さんなんか、おれみたいな者のお嫁さんにはなってくれないだろうなあ』
 K子さんは、彼の心に気付く。だが、気付くと同時に、そのような遠まわしのひねくれたいい方が気に入らないのである。だが、彼は、K子さんが恋愛不感症なのだと思って、自分がかつてひとりの女をどんなに愛し、だからどんなに手痛い失恋におち入ったかを話し、K子さんに恋愛の心を目ざませようとして手をつくす。
 しかしその彼は、K子さんに対して見当ちがいのことをしているのである。K子さんは、恋愛不感症なのではなく、ただ男に対してある自由さをもっているだけなのだ。何故ならK子さんは恋愛に対しても結婚に対しても特別な拒否はもっていないからだ。皮肉でなく素直に、
『みんながしているんだもの、わたしだって、恋愛だって結婚だってしてもいいと思ってるのよ』
 といっているからである。そしてK子さんは、長い忙しい仕事から解放されたようなとき、自分の好きだと思うひとへ電話をかけて、いっしょに楽しく遊びまわる。
 もちろんただそれだけなのだが、少なくとも彼女にはそれだけで十分なのである。彼女には、最近結婚した弟さんがいるが、そのような自由な彼女は、その弟さんが冗談まじりに、
『姉さん、もういい加減に博愛主義をやめて結婚したらどうなんだい?』
 というほどである。むろんこの博愛主義は男にだらしがないという意味ではない。彼女のすべてのひとを愛するが、しかしどの愛もほんとうの愛だと思い込まない彼女の生き方をさしているのである。」

「K子さんにこのような生き方ができるのは、家庭的な条件も考えられる。彼女の一家は、樺太からの引揚者だが、お父さんもお母さんも健在で、生活にもある程度のゆとりがあるし、彼女の収入も多い方だし両親の方も、娘を結婚させなければならないと考えてはいるが、しかしひとり娘なので、手もとにおいて自由にさせておいてやりたいという気もしているからだ。つまりあらゆる意味で、追いつめられていないからだ。
 だからK子さんも、やがて追いつめられて、結婚をえらばなければならない日の来ることを、十分予感している。いったい、そのときどんな結婚をするだろうか。恋愛からだろうか、それとも他からもって来られた縁談によってであろうか。
 ただ、私にいえることは、K子さんは、結婚してもいいおくさまになるだろうということだ。しかし彼女は、それまでは、いまの通りに生きつづけるにちがいない。
 たしかに社会的に活動している女のひとのなかには、K子さんのようなひとが多く生まれていると思う。むずかしくいうならば、いつも男に対する自分の愛を、相対的な愛にきっぱりとどめておくことのできるひとだ。
 だが、そのためには、K子さんのように社会的な自己というものを確立していなければならないということはいうまでもない。
 だからその結婚もおそらく恋愛というものからではなく、選択という理性的な判断が大きく働くにちがいないことは、容易に想像されることである。たとえ恋愛の神様が淋しがろうともだ。」

 ── さて、今、こうして椎名さんのエッセイをPCに打ち込んでいて、時代を感じざるをえない。
 今、女性が社会に出て働くことに何の違和感もないし、その地位に伴い、社会的な自己というものを確立することも、当然だろうと思われる。
 それによって、男女関係にも微妙な、しかし大きな影響が及ぼされることは、今まで見てきた通りだ。
 愛、と一口に言っても、ほんとうの愛と、そうでない愛とがある。そうでない愛が、だからといって、ほんとうでないとは言えない。本人にしてみれば、愛していないわけではないからだ。十分、愛しているだろう。
 が、どうも、「ほんとう」というのは、このエッセイを読む限り、その相手と自己の「一致点」にあるように思う。赤ん坊と母親の関係は、そのいい例だった。だが今回は、そのようなものではなくて、同じ景色を見る、そこに一緒に行く、その景色の中に二人で入り込む、そんな「景色」をともに見ない限り、ほんとうに恋愛し合うことはできないかのようだ。

 赤ん坊と母親は、いわば本能的に愛し合っているかのようだ。少なくとも赤ん坊にとっては、母乳が必要だった。で、母は、それを与える。夜中でも、遠慮なく泣く赤ん坊に、殺したいと思う母親もあるだろうが、一般に、母は子を殺さない。理性とか忍耐も働くだろうが、このエッセイに登場した母親(18話、恋愛のユートピア」)からは、それ以上の本能のような愛が感じられた。
 だが、今回の「この愛は恋愛に至らず」では、大人どうしの男と女のスレ違い、自由な女と、そうでない男の、どうにもならない一致の出来なさが、ある悲哀をもって、でもK子さんの闊達さをもって、男である僕にはどこか滑稽に感じられた。

「ほんとう」というものは、おそらく、それを見る、それと接する自己の中にうまれる。
 その「ほんとう」は、「ほんとう」であるがために、同時に絶対化される。絶対というのは絶対であるから、他の追随を許さない。
 が、もちろん他(人)にも自己があるから、両者のあいだに絶対の一致点はあまり見い出せない。
 よしあったとしても、それは何に対する自己であるかによっての自己であるのだから、それに関しての一致はあれど、全的な一致にはなり得ない。
 こんなところに、愛したがゆえの孤独、こんなはずじゃなかったという失望、これ以上相手に望むべくもないといった早合点にも似た絶望、不平といったものがうまれるように思われる。それこそ、絶対的に。
 誰かの歌にあったように、同じ花を見て、きれいだと感じた「ふたりの時間」が終わり、ひとりへ帰った時、ひとりからしか生まれない「ほんとう」が、ふたりを別離に導いたりする。
 残念なことだ、残念なことだ。
 生け花のお師匠さんも、K子さんも、きっと、とても魅力的な女性であることが想像される。すばらしい男性も、きっといただろう。
 恋愛とは、意志なのだろうか、と思わずにいられない。
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