第40話 (4)自分とは何か

文字数 2,373文字

 他人(ひと)のふり見て、わがふりなおせという言葉があることは、みなさんのとっくにご存じの言葉である。また私たちは、人間がうけるいろんな感化のなかで、母親から受ける感化がいちばん大きいとも教えられている。
 というのは、子どもというものは、母親の世界にいちばん多く住んでおり、だから自分というものを感じるのは、母親もついて感じる分量が多いからである。
 私の母親はヒステリーだった。むろん父が原因だった。私は、その母の狂態を見て、自分というものに恐怖を感じた。母のようになりたいと思っていたからである。母は、勉強ずきだったからだ。小学校へも行っていないのに、ローマ字を勉強したり英語の初歩を独学したり、そのころさかんに運動をはじめていた修養団から出されている「のぞみ」* だとか、それより程度の高い「きぼう」* だとかの雑誌を読んでいた。私は、その母から、とにかく勉強をなまけている自分を感じて、母のようになろうと思っていたからである。
 ( *「のぞみ」「きぼう」… 当時の新興宗教団体が発刊していた雑誌。)

 肯定的にしろ批判的にしろ、当時私の自分を知る基準というものが、母であったことにまちがいない。母が、私の自分というものを知る

だったのだ。
 そのものさしなるものは、その後いろいろに変わって行った。ということは、いろいろ自分というものに対する見方が変わったということであるし、そのたびに自分についてその知識をひろげていったということでもある。あの家出後 * は不良少年が自分のものさしになっていたことさえあった。
 だから私は、いろんな自分というものは知ったけれども、あまりものさしが多すぎて自分というものは、ほんとうにどんな自分であるのか、さっぱりわからなくなっていたという滑稽な

もあったようである。
 ( * 椎名さんが15歳の中学三年時、別居中の父の送金が途絶え、家は生活難に陥った。解決をはかるために、椎名さんは大阪の父の所に出かけたが、相手にされず、そのまま家出した。その後、果物屋の丁稚小僧、飲食店の出前持ち、見習いコック等、職を転々とした。)

 自分というものに対して、どんなものさしを持っているかということで、つまりものさしの種類によって自分というものがきまるといっていい。だから毛虫を自分のものさしにしているひとは、毛虫に似てくるのである。たしかにそういうひともいるのだ。私の知っているひとのなかに、孤独な不幸な女のひとがいた。そのひとは、犬をかわいがっていて、犬の何の心配もなく遊びたわむれている様子をいつもうらやましげに口にしていた。そしてその犬のようになりたい、ということがそのひとの口ぐせだった。するとその女のひとは、犬に似てきたのである。むろん顔でもなければ、動作でもない。しだいに何も考えないようになってきたのである。その犬のようにだ。だから、ある金持ちを自分のものさしにしているひとは、その金持ちの考え方や生き方に似てくるからふしぎである。

 社会的な自己をもて、と新聞や雑誌でえらい人々がさかんにいっている。たしかにそうであるだろうが、その自分はどんなであるかとなると、はなはだ漠然としていて、わからないひとが多いであろう。その言葉には、社会の何についての自分であるかというものさしが与えられていないからである。
 社会的な名誉をものさしにしているひとは、いい意味においても悪い意味においても虚栄家にならずにはおられないだろうし、社会的な矛盾からの解放を自分のものさしにしているひとは、その程度の差はあっても、革命家であるほかはないだろう。
 そして社会的な自己といっても、社会の何かについてでなく、社会全体を自分のものさしにしているひともあるのである。そのひとは孤独なひとであるか、本質的な意味では同じなのだが、独裁者であるだろう。

 だから、自分というものは、その自分というものをはかるものさしが大きければ大きいほどいいということは考えるまでもない。
 私は、いろんな自分がありすぎ、そのことでなやんだ。刑務所の未決を出てからである。*
 ほんとうの自分とは、いったいなんだろうと思った。
 ほんとうの自分を知るのには、そのものさしは、ほんとうだと思われるものでなければならなかった。
 だが、そのようなものはないではなかった。むしろありすぎたのである。
 人生の真の目的だとか、われわれの真の生き甲斐だといわれるものは、街にははんらんしていたからだ。
 しかしそれは、前にも述べたように、真といい、ホントウという根拠を死から得ていることを知ったのでる。
 愛国者でも真の愛国者となることは、天皇のために死ぬことであったからである。
 ( * 椎名さんは20歳の時、日本共産党の一斉検挙に遭い、逮捕されている。控訴し、未決囚として留置所をたらい回しにされている際、差し入れ本として読んだニーチェの「この人を見よ」に衝撃を受けている)

 武士道とは死ぬことと見つけたり、ではないが、ホントウとは死ぬことだと見つけたのである。
 そして、たしかにそうだった。
 どんな目的にしたがって生きているにしろ、けっきょく、人間は死ぬのであり、否定するにせよ肯定するにせよ、それが人生の最終の、そして唯一の目的であるにちがいなかったからである。
 私は、このものさしの前に立ちすくんでしまった。
 私の自分というものは、たしかに無限に拡大された。しかし同時に自分自身は、身動きもできない石のようになってしまっていたのである。石は、愛することができない。
 自分というものを多く持つのはいいが、持ちすぎると、だんだん愛から遠ざかってゆくことは、このことから考えてもわかるのである。
 死とは、いつも人間にとって

という過度という性格をもっているものなのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み