第39話 (3)愛のなかで

文字数 3,047文字

 初恋の、それもはじめの期間というものは、美しいものだ、とキルケゴールもいっている。ことに、おたがいにやっと会うことができて、眼と眼とをあわした瞬間は、じつに感動的なものだ。おたがいに愛のさまざまな不安の暗い夜のなかを抜けてきたのであるから、その喜びの深さにはたとえようもないものがあるにちがいないのである。
 彼らは、自分の愛へ、だから自分の愛の対象へ全ての関心をそそいでいる。だから愛を失うということは、自分を失うということと同じなのだ。自分がその愛であり、その愛が自分であるからだ。そこには、愛と自分との分裂はなく、ぴったり一致している。だが、まさにその理由で、彼らは、愛の不安から逃れられないのである。そのほんとうに愛し、またほんとうに愛そうとして、ほんとうには愛しきれない思いをいだかす残酷なもの、それは人間の不安なのだ。

 美しい初恋のひとたちのために、その不安の正体をいそいで突きとめよう。つまりそれは、愛への関心のなかに自分の全部が生きていながら、同時にそれは、その関心のなかに自分の全部を失っていることでもあるという事実から生まれてくるのである。あの悲痛な、しかしどこか滑稽な、「もっともっと愛して! ほんとうに愛して!」という叫びを口走ったことも聞いたこともないひとは幸いである。それは、その不安さえ、愛のなかに失いたいという絶望的な叫び声であるからだ。

 だが、私のせいではないのだが、不安を愛のなかに失うことはできないのである。なぜなら自分の全部を愛のなかに失っているということが不安なのであるからである。その不安から逃れるためには、愛から逃れるより仕方がない。だが、その愛へ自分の全部が生きているのであるから、その愛から逃れる道には絶望か死かが待ちかまえているだけなのだ。
 そこでまた、あのいらだたしいいやな悪魔の無限運動がくりかえされるのだ。ほんとうに愛することはできないし、といって愛から逃れることもできないという二つの思いのあいだに、時計の振り子のように揺れているより仕方がなくなって来るからである。

 しかしこのような状態は、がまんのならないものである。自分をそのなかへうばわれている愛のなかへ、そのことによって生まれている不安もともに失うことができれば、最上の策である。しかしそれは実際には死より仕方ない。ほんとうに愛され、ほんとうに愛したい思いにかられて、思わず口をついて出てくる、死ぬほど愛してくれだとか、死ぬほど愛したいとかいう言葉は、それは恋に酔っているもののたわごとではない。ホントウの愛というもののなかには、ふしぎなほど死の予感がただよっているのである。
 死が愛の証言となるのはこの瞬間なのだ。
 だが私たちにとって問題なのは、今迄くり返して来たように、生きることであって死ぬことではない。ほんとうの愛の実現としてふたりの間に、結婚のことが口早やにささやかれる。若いふたりの結婚式が、ほんとうの愛の、ほんとうに実を結んだしるしとして、ひとびとのあいだに祝われる。
 アメリカ映画のあのハッピィ・エンドは、このことを示唆しているように思われる。結婚は、恋愛の墳墓だなんていわれているが、そのときは、遠い南洋諸島に低気圧が発生したらしいという予想以上には感じられないものなのだ。

 しかし結婚が、ほんとうの愛のしるしかどうかは、読者の方がご存じである。ただ結婚は、それがどんな愛であろうと、ときにはいつわりのそれであろうとも一つの、愛の社会的な実現だ、という点にかんしては、大した異議はあるまい。
 さて、夫婦である。それが勤人の家庭であるならば、夫は、毎日会社にでかけ、妻は毎日家にあって家事にいそしむ。給料が家計をみたすにたりないということが、少しばかり不幸な気にさせるが、しかしふたりの愛に大した問題ではない。それは社会的な問題であって社会的に解決されるべきものであるからだ。ふたりははじめてほんとうの愛らしいもののなかに住むことができた幸福と平安とを感じている。世間もそれを証言しているし、友人たちもそれを証言してくれる。

 「ほんとうの愛の味って、夫婦にならなければわからないかも知れないわね」と、妻の友人もそう証言する。
 そして世間も友人も、そして親兄弟もそういっているのであるから、ともに毎日大したいさかいもなく暮らしているので、夫も妻をほんとうに愛している気がしているし、妻もほんとうに夫を愛している気がしている。
 夫の願いはいつも妻の願いであるし、妻の願いはいつも夫の願いである。たとえ、つまらないことでおたがいの意見がくいちがい、ときにはそれが喧嘩になるときがあっても、根本的にふたりが一致しているという点については、なんの動揺もない。

 まったく、これこそほんとうの愛ではないか。ほんとの愛は、ここにあったのではないか。あの赤ん坊と母親とのあいだにあるあの古い愛の郷愁が、結婚において、ついに満たされるのではないか。
 といっても私は、彼等の幸福に腹を立てているのでもなければ彼らがおたがいに愛しあっていないというのではさらさらない。彼らは、愛しあっているということはたしかだからだ。だが、彼らがその自分たちの愛をホントウのものとして自覚したように思うのは、たかだか愛情にめぐまれないひとや愛の破綻にであっているというひととひきくらべてであることが多い。またあるいは、じっさいに愛を自覚したとしても、その動機をなしたものを考えようとしないか、あるいは気づかれないままに泡のように消え去ってしまって、そのときの感情だけが残っているにすぎないという場合もあるのである。

 寝床のなかでぼんやりしていた夫が、ふいに傍の妻にむかって、思いがけなく真剣すぎる声で、
「おれは、お前をほんとうに愛しているよ」
 といったとしたら、よほど鈍感な妻でないかぎり、夫に何かあったにちがいないぐらいは感じるだろう。そしてそれはたしかにそうなのである。彼は、会社でいやなことがあったか、それとも彼よりはるかに高給をとり贅沢な服装をしている同期生に出合って自分のみじめさを感じさせられたか、それとも毎日毎日かわりばえもしない紋切型の生活をしていることに疲れを感じたか、それとも自分の健康に自信を失うような肉体的な違和を感じているか、あるいは、電車のなかで自分の妻より美しいと思われる女と知りあいになったか、または自分の生活が無意味に見え、不安に感じられるような事件に出合ったかであるにちがいないのである。

 言いかえれば、夫が、妻にほんとうの愛という言葉をかたった瞬間だけは、この妻との生活から、そして妻から遠く引きはなされた自分を感じていたのだということができる。もし妻が、そのとき夫に聞きただして、
「どうしたの? 何かあったの?」
 とたずねても、だまっていて、どうしても答えないとしたら、その夫は、あまり遠くはなれすぎているので、打ちあけられない場所にいると思っていい。だが、遠くはなれたといっても、いったい、その夫は、どこへはなれて行ったのだろうか。
 ただ自分自身へかえって行っただけなのだ。そしてそのかえって行った自分がどんな自分であるかによって、その愛との距離がきまるのである。
 だが、自分とは何なのであろうか。若いひとびとのよく口にしていらっしゃる、あのむつかしげな「自己確立」という言葉の、自己というものであることはまちがいない。しかしそれはいったい何なのであろうか。
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