第4話 愛について( i )

文字数 2,257文字

 次に収録されているのが、「文芸時代」昭和二十三年八月号に初出誌した、同じ「愛について」というタイトルのエッセイ。
「おのれの如くなんぢの隣りを愛すべし── マタイ伝三九」と、聖書の引用から、その文は始まっている。そう、椎名さんはクリスチャン作家だったのだ。

「この言葉によれば、おのれを愛することは、人間の疑うことのできない自然として措定(そてい)されている。人間は、おのれだけを愛することができる。だが隣人は愛することはできない。だから愛すべしという言葉が神の命令としてあるのである。しかし本当にそうであろうか。エゴイズムが人間の根源的な存在様式であり、しかもそれは隣人愛と深く断絶しているものであるのであろうか。
 野間宏氏の『肉体は濡れて』という作品は、この問題の究明に有力な手がかりを与える。その主人公と優子はただ一度接吻し合った。そしてその接吻によって逆に、彼らはお互いに愛していないだけでなく、愛することができないということを身をもって知ったのである。
 この接吻の場面の、異常なほど緊密な効果的な描写において、少なくとも主人公の側の肉体的な嫌悪と恐怖が確実にたしかめられている。
 主人公はもう一人の女、春子に対しては、恋情を抱いているのであるが、やはり肉体として断絶しており、主人公がその断絶を埋めようとすればするほど、決定的に断絶していくのである。」

「ここでは、恋愛していながらしかも愛することができないという近代の恋愛が、典型的な形でとり上げられている。
 恋愛にありながらしかも愛することができない。全くこれ以上の悲劇はあるであろうか。まことに、愛は肉体においてしか表現できない。そして愛が肉体においてしか表現できないということのなかに、愛の悲劇が存在するのである。
 エゴイズムは、他の肉体に関して冷酷な自己の肉体性である。そして何故このような肉体であることが、人間の嫌悪をひき出すのであろうか。しかもその嫌悪は、何故罪のかげさえともなっているのであろうか。或いは自己嫌悪は、近代人の根源的な存在様式ではないであろうか。」

「キルケゴールのいうように、人間が一個の分裂関係であるならば、その関係は、自己自身へ分裂している分裂関係であり、言いかえれば、自己自身に関係する関係として一個の分裂関係なのである。僕は、僕自身でありながら僕自身にかかわるなにものかなのだ。
 ということは、僕は一個の精神であるからである。だから逆に、僕は一個の精神であるから、僕は一個の分裂関係であるということができるのである。それは精神の機能が、常に批判であるためなのである。」

 ── まず文頭にあった、「人間はおのれだけを愛することができ、隣人は愛することはできない」という措定に、僕は驚いた。これは、かの仏教の祖、ブッダも言っていたことだったから。どうも、人間は自分しか愛せない、というのは、残念ながら(?)事実であるようだ。
 だが、本当にそうだろうか、と問題が定義される。自己愛、つまりエゴイズムが人間の根源的な存在様式なのか。それは、隣人愛を拒絶するほど、かたくなで強固なものなのか。
 で、野間宏の作品が例に挙げられる。この接吻、キスの場面、僕は読んだことがないけれど、だいたいの想像はつく。おそらく、相手の口臭やら、ざらざら、ぶつぶつした舌、その粘液等々の、そのキスにおける相手の肉体のあらゆる部分が、主人公には耐え難かったのだと思う。
 この主人公が恋しているもう一人の女にも、かれは同じ「肉体の断絶」、立ちはだかる肉体の壁を思い知ることになる。

 恋愛していながら、その相手を愛することができない。その悲劇を、野間さんはみごとに描いた、と評している。(愛は肉体においてしか表現できないというのは、何もセックスや抱擁だけの意味ではない。告白の手紙を書いたり、愛する人のために料理に張り切ったりすることも含まれる、と僕は解釈している。いずれも、

の稼働が必要になる)
 肉体においてしか、愛は表現できない。このことのなかに、悲劇があるという。ごもっともだと思う。そして自分のエゴイズム、他者に対して冷酷な「判断」をする自分自身の肉体、己のエゴイズムを、人間は嫌悪することになる。相手を愛しているのに、愛せない自分に、戸惑うのだ、と。

 その嫌悪には、たしかに罪のような感情が伴っている。── ここでまたキルケゴールが登場する。
 人間、一体の人間は、その自己と自己との関係である。関係であるからには、まして一体の自分のなかの関係であるからには、その自己と自己は分裂関係である。精神云々というのは、ここは平たく、肉体と精神の分裂、といっていいと思う。
 たしかに精神といわれれば精神だが、自己における、一体の自分における、肉体と精神の関係、と見てみても、いいんじゃないかと思われる。(そう、それはたしかに精神なのだけれど。)

 そして「精神の機能が、常に批判であるためである」がために、「僕は一個の分裂関係であることができる」という。
 しかし、ここはしかし、考えてみれば、疑問が残る。たとえばキスの際、相手に嫌悪したのは「精神」だったろうか。それは生理的な、触覚的な肉体の嫌悪であって、精神、気持ちはむしろ「おい、愛している女を、こんなことで嫌いになるなよ」だったのではないか…。
 だが椎名さんは「精神に備わっている機能は、批判することである」かのように言っている。

 この続きの椎名さんの本文には、カントが出てきたりする。それは次話、第5話に。
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