第6話 愛について( iii )

文字数 2,457文字

「ドストエフスキーの『地下生活者の手記』に歯痛を訴える男の話が出ている。
『歯痛にだって快感がある』と彼はいう。『自分はまる一月歯痛に苦しんだことがあるから、確かに快感のあることを知っている。この場合は無論、黙ってぷりぷりしているのではなく、唸り声を立てるのだけれど、その唸り声は真正直なものではなく、それは意地悪を伴った唸り声で、つまりその意地悪の中にこそ曰くがあるのだ。この唸り声の中に苦しめるものの快感が表現されているのだ』と。
 これはドストエフスキーの口ぐせであった。苦悩を愛するという思想の具体的な描写である。
 苦悩を愛す、それはルイ・フィリップも言っているように嘘っぱちだ。そのようなことが人間にとってできるものではない。しかし、ルイ・フィリップはその後で付け加えずにはおられないのである。しかし何となく慰められる言葉だ、と。それは何故であろうか。」

「もし歯が痛ければ歯医者へ駆けつける。それはわれわれの鉄則である。というのは、われわれは、歯の痛む自己を愛することができないからである。しかしわれわれが自己を意識するのは、歯が痛むからであり、もし歯が痛まなければ、自己を意識することはない。
 同様に、われわれが自己を意識するのは、苦悩においてである。言い換えれば、自己意識は苦悩において意識化される。つまりそこにおいてわれわれは分裂関係となるのだ。」

「歯痛の男は、唸る。苦痛であるからだ。そして意地悪く唸る。苦痛である自己が愛し得ないからだ。しかもなぜその唸り声の中に快感が感じられるのだろう。愛し得ない自己を愛せずにはおられないパトス * が存在するときに、それは初めて可能となるのである。
 しかしその時それは愛とは言えない。愛以上のものだ。というのは、自己の不可能を超えさせるパトスの中に、ある不可解な力を感じさせられるからである。
 それはあのイエスの人間に与えた不可能、『汝の敵を愛せよ』が、そこで実現さえされているのだ。」

「もし人間が、自己嫌悪にありながら、しかもその自己自身を愛し得るならば、その関係はそっくりそのまま隣人への関係となるのである。言い換えれば、自己意識において、自己自身を愛し得ないものにとって、隣人への愛は虚偽である。
 そしてそのような愛のないところに、どんな社会実践があるだろう。
 しかも人間にとって、愛の能力は、最も本質的な能力でありながら、しかも絶対的に欠如している能力であるとするならば、その能力を回復しない限り、いかなる社会的実践も人間に不幸をもたらすだけである。
『おのれの如くなんぢの隣りを愛すべし』とイエスは言う。しかしおのれが自己意識において愛し得るならば、隣りへの愛は可能となるのである。ただわれわれの問題は、まずおのれが、自己意識において愛し得るかということなのだ」
(* アリストテレス倫理学で、欲情・怒り・恐怖・喜び・憎しみ・哀しみなどの快楽や苦痛を伴う一時的な感情状態。情念)

 というところで、「文芸時代」に初出誌した「愛について」は締めくくられている。
 さて、これだけ引用が長いと、へたな僕の解釈、感想など、無用に思われるけれど、こりずにやっていきたい。
 この「愛について」の結論は、後半のドストエフスキーの言葉に集約されると思う。歯痛を愛せるようになって、初めて人間は隣人を愛し得るという、現実の肉体を超えていくような、およそ不可能なこと── それが自分以外の者を愛する、唯一の手立てのように書かれている。
 苦痛、自己嫌悪を超えていくこと。

 僕には、この愛を思うとき、「罪と罰」のソーニャ、そして「白痴」のムイシュキン公爵が思い出された。すると、椎名さんのいうような自己超克、自己意識、隣人を愛するに不可欠な必須項目も、全く意味をなさないように思われる。だが、かれらは、いわば常人ではなかった。すでに超人だった、そして本人にその意識は皆無であった。
 ドストエフスキーは、ほんとうに美しい人間を描こうとしてムイシュキン公爵を創造したという。きっと、ソーニャも。僕にはソーニャが、ほんとうに美しいと思える…。だが彼女も、自身の愛のふかさを知らない。全くそんな、自己意識などなかったと思う。あったとしても、ひどく薄く。
 椎名さんは、人間が隣人をほんとうに愛するための方途を、このエッセイで追求し、その結論も書かれていると思う。でも、元も子もないことを書いてしまえば、申し訳ないけれど、そんなに考えなくても、よかったのではないかと思う。
 むしろ意識をなくすこと… 結局それも超人を目指すことになるけれど、人間の最も本質的な能力である愛が、すでに人間に備わっているとするならば、そのちからを発揮させることの障害となるもの(それは自己自身の中にある)を、自己自身の中で delete していこうとする意思のはたらきに期待をしてもいいのではないかと思われる。

 だが椎名さんは文筆家であり、それを生業とした。そして誠実に、その思考回路を文になぞらえた。椎名さんの生涯のテーマに、愛と並列に「自由」というのがある。
「罪と罰」のラスコーリニコフの「自由」について、椎名さんは「危険を踏み超えて行われようとする彼の自由」と書いている(第2話)が、それと、この「愛」が、僕の中でリンクする。
「あの老婆殺しまでの長い文章を、感動をもって一気に読ませるのは、破滅への危険な暗示が、そしてそれを踏み超えて行われようとする彼の自由が、絶えず読者に訴えかけるからである」と。
 人間は自己自身との関係において、分裂関係にある、とも書かれている。だから自己を意識できるのだ、と。
 僕はここに、… チャンスが、人をほんとうに愛せるチャンスがあるように思えてならない。
「踏み超えて行われようとする」「自己自身の分裂関係」の中に。

 また、やはり思想、それはこの社会で実践されるべきものだ、でなければ便所の紙ほどの役にも立たない(深夜の酒宴)という椎名さんの考えが、さいごに書かれていると思う。
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