第16話 死と愛について( iv )

文字数 2,034文字

「その故に自殺は、自己の必然性を自ら断ち切ることによって、自己の生を偶然性の中に投げ込んでしまうのである。言い換えれば、自殺は、

の中に根拠をもつことができるだけであり、だから、自殺は、また、何らの根拠も持つことはできないのである。
 そこに一個の自殺について、あらゆる解釈を許す可能性が生まれるのであるし、またそれらの解釈のいかなるものであっても虚妄である。
 全く、自殺は、どんな場合においても人間の虚妄への意志を開示するように見える。しかし自殺においては、意志それも純粋に抽象的な意志だけが実現しているだけなのだ。それ故に自殺は、人間の自由の全的な実現である。まさに自己の全存在を虚妄の中に置くことによって。」

「人間のあらゆる愛も、それが限界を持つことによって虚妄であり、そして自殺は虚妄そのものの実現であることは、すでに見て来た通りだ。とすれば、生きることも死ぬこともできないということが、人間の現在の状況だと思われる。
 だが生きることも死ぬこともできないということは、単なる頽廃(たいはい)ではなく、恐ろしい緊張である。いえば、人間は常にこのような緊張であり、緊張以外にあり得ないのだ。少なくとも僕にとっては。」

「たしかに人間がこのような緊張であるのは、自己の存在構造をそれ自ら明らかにしている。端的にいえば、人間は関係であるということだ。
 キルケゴールによれば、この関係は自己自身に関係する関係であり、この全関係を措定する関係として第三者、神を示している。
 全く人間は、自己自身に関係する関係であるかぎり常に絶望であるのは当然であるし、神によって措定された関係であるかぎり、その絶望が罪となることは当然である。」

「しかし関係とは何か。関係は、関係なることによって人間の限界であり、根源である。僕たちが、人間は社会的存在であるという時、あるいは肉体的存在であるという時、自己が社会に関係する関係を現わし、また肉体に関係する関係を現わしているのである。
 そして関係が根源であることによって人間の社会性、または肉体性を現わし、関係が限界であることによって、それらの社会性や肉体性が矛盾であることを示しているのだ。
 そして人間は無限の関係であり、無限の緊張である。自殺は、これらの関係を一挙に自己によって措定するのだ。」

「しかし究極の真理として愛も信じられず、自殺もできない僕にとっては、ただ虚無によって措定されている自分を感ずるばかりだ。
 この僕にとって脳裏に浮かんでいるのは、あの友の死体だけである。そして僕にとって、何かの真理であるとすれば、あの友だけである。そしてあの友は、今までもそうであったように僕のためにいつでも証人として立つであろう。
 虚無によって措定されている僕は、ただ無限なる関係であり、関係として緊張である。だが僕は、どうして無限なる関係であり得るのか。それは関係が限界であることによって、関係それ自ら自己を虚妄としているからである。言い換えれば、少なくとも僕は、虚妄の中の無限の分裂であり緊張である。
 だが、分裂といい緊張といい、その現実態は、闘争なのだ。だから僕には、ただ無限なる闘争があるばかりなのだ。そうである。現代はまさにドン・キホーテの時代なのだ。そして僕は、自分がドン・キホーテであることに自己を賭けるより仕方がないのである。」

 ── 椎名さんだなあ、どこを切っても椎名さんだと思う。
 ぼくには、どうしてか、ホッとして笑える。椎名さんの中で、しっかり論理が繋がっていると思えるからだ。そしてなぜか、生きていくことが、楽に見え始める。
 自分の、伴走者を見つけた、とでもいう、孤独感から解放される心地、とでもいうのか。
 一緒に生きていける人、とでもいうのか。

 この連載を始めた時、ぼくは、椎名さんは解かり難いから、自分なりに解釈したものをここに書こう、と思っていた。
 だが、それはやめる。ぼくはぼくなりに、椎名さんの書いた文が解かる。それで十分であるように、たぶん椎名さんに初めてふれる人も、解かる人には解かるだろうという、それで十分だと思えるからだ。

 せいぜいぼくにできるのは、今まで何回となく読んできた椎名さんの本から、記憶に残っているエピソードや、本文に関連した箇所をここに書くことぐらいかと思う。
 だが、この「死と愛について」からは、連関したものを軽々しく書くこともできない気がしている。椎名さんの親友の死からはじまっているこの文は、椎名さんの大切なものにふれてしまう。そこまでする勇気は、ぼくにはない。
 椎名さんの文を、このまま、そっとして、椎名さんがたぶん大変な思いで考えぬいて書いたはずの文を、このままにして、あとは読んだ人が、と思う。
 今までも、ぼくの文など要らぬな、と思っていたが、この「死と愛について」は特に。
 ただ、この「死と愛について」は、あきらかに「生きること」に繋がっている、このことだけは、明確にいっておきたい。
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