第28話 恋愛のための恋愛

文字数 4,882文字

「この原稿が読者に読まれるころには、あのアメリカのG・I と国際結婚をした渥美延さんも、ロスアンゼルスで新しい生活をはじめていると思う。彼女は、1995年のミス東京の第2位にえらばれたひとで、ファッション・モデルをしていたのである。
 私が彼女と会ったのは、四月の半ばごろだ。日本橋近くの西洋料理屋の二階でだが彼女は、夫のデイブ・H・マッカーシィさんといっしょだった。マッカーシィさんは、二十四の青年でいかにも良家育ちといった感じのする純真そうなひとだったが、さかんに自分の名が、あの有名な赤狩りのマッカーシィと似ているのを気にしていた。自分は、あのマッカーシィと何の縁もないばかりか、あのマッカーシィとは正反対なのだというのだ。その気にし方が、私にはなかなか好感がもてた。
 私は、彼女にいった。
『なかなかいい御主人だから、大事にしなさいよ』
 延さんは、それはもう当たりまえといった顔をした。すると私も当たりまえだろうという気がした。美しい夫婦である。その彼等は三月ほど前結婚したばかりなのだ。しかしその結婚は、彼女の周囲から祝福された結婚ではなかったのである。
 彼女は、特に両親の反対に悩んでいて、五人の兄弟のなかのただひとりの女である彼女にとって唯一の願いは、このために父が病気になって倒れないことであるといっていた。私は、あわててたずねた。
『お母さんの方は心配しないの?』
 すると彼女はこう答えた。
『女って、いざとなれば男のひとより度胸がきまるもんじゃないかしら』」

「もちろんこのような知識は、若い彼女にとっては、誰からか教えこまれたものであろう。でなければ、彼女の今度の結婚に対する自分を証拠としているにちがいないのだ。
 ファッション・モデルの若いひとびとは、その職業上、スタイルがよくなければならないので、残念なことにほとんどみんな五尺三寸の私より背が高いようである。例の八頭身の伊東絹子さんが典型的だろう。この延さんも、モデルとしては高い方ではないといってもその例外ではない。つまり私よりは高いのだ。
 やや丸型の顔だが、眼が大きくて生々とよく動くのも、モデル一般の特徴的なところだろう。胸から首筋にかけて、若さが強くにおっている。きっとまだ二十歳前後なんだろうと思った。その彼女は、自分に自信のある(しゃべ)り方で彼と知り合ったころの話をしはじめた。
 ところが私の横に立膝の恰好で足を投げ出すようにすわっていたマッカーシィさんは、すわって十分もたたないうちに、もうさかんに足をもみはじめているのだ。しかし彼女は、それに気がつかないで彼へ英語でたずねた。
『あなたと知り合ってから、二年になるかしら。それとも二年半?』
 でマッカーシィさんは、彼女の顔をうかがうようにして、弱ったような赤い顔で低くためらいがちに答えた。
『二年…… 二年半……』
 どうやら彼は、どうも足がしびれて仕方がないらしいのだ。左手で半ば立てた右足のふくらはぎをさかんにもんでいる。だが、彼女は、けっきょく自分で断定した。
『二年半ほど前ね』」

「それは王子で撮影会があったときだ。その撮影会のモデルに彼女がえらばれたのである。カメラマンは彼女のまわりにむらがった。私も一度そんな撮影会に行き合わせて驚いたことがあるが、昨今のカメラ熱の異常さは、趣味の範疇を超えて、何か社会的な恐ろしいものをふくんでいるような気さえするほどだ。
 もちろんそのときも彼女は、たくさんのカメラのレンズの前で、そのレンズに応ずるために、始終ポーズをかえて動きまわっていなければならなかったのである。それが彼女のその日に課せられた仕事だったからだ。
 そのとき突然、若いアメリカの兵隊さんが人々の群からとび出して来て、はげしい語調で彼女に対して怒りはじめたのだ。
『あんまり動くので、かけないじゃないか!』
 というのである。見ると、そのアメリカ兵は、カメラではなく、描きかけのスケッチブックをもっていたのである。
 もちろんそれは無理な要求というものだ。彼女は、絵のためのポーズをとりにきているのではなく、カメラのためにきていたのであるからだ。で、彼女は、その彼へそういってやりかえした。しかし仲に入るひとがあって、翌日、特に彼の絵のモデルになることを承諾して、その場は落着したのである。
 彼女は、楽しそうにそして美しく笑いながらいった。
『ほんとにあのときは、面白かったのよ』」

「わがマッカーシィさんは、依然として足をもみつづけていた。しかもつらそうに、頭の方が次第に低くなってきて、前の机へ近づいてきているようなのだ。だが、私は、それを見ていただけだった。そのために彼が死ぬということはあるまいと思ったからである。
 だが、その私も、次の彼女の言葉に急に打たれたように、彼女の顔を見つめずにはおられなかった。それは彼女がこういったからだ。
『わたし、このひとと結婚できるとは思っていなかったのよ。会うたびに、このひとうるさいほどそれをいうんだけど、一年あまりもその決心がつかなかったの』
 つまり私が驚いたのは、一年あまりも結婚の意志もなくひとりの男とふかい恋愛関係をもちつづけることができたということについてである。
 肉体関係があるならそれも可能であるだろう。だが、結婚への予想なしに、恋愛を強固につづけて行くことは、私には驚嘆なしには考えられないことであったのだ。
 なぜなら彼女は、結婚のことではためらったが、恋愛の上では少しも動揺しなかったらしいからであった。」

「もちろんそこには、延さんに結婚を考えさせない周囲の強い反対があったせいもあるだろう。その反対は、両親はもちろん親戚をあげての反対だったそうである。彼女のお父さんなんかは彼女に、
『結婚の相手が、外国人でなく日本人なら相手が乞食だってかまわない』
 とまで極言したそうである。もちろんもし彼女が、それじゃというので、彼女の相手に乞食をえらんだとしたなら、これまたお父さんのびっくり仰天されることになったにちがいないが、お父さんにそんな極言が平気でいえたのが、どんなことがあっても、延さんが乞食と結婚するはずがなかったからである。」

「ロメオとジュリエットとのような美しい恋愛は、昔から数多くくり返されてきたにちがいない。しかしそのロメオとジュリエットの恋愛だって、明らかに結婚を予想しての恋愛だったのだ。いわば結婚するための恋愛だったといっていい。
 だがふしぎなことに、ここに結婚を予想しない恋愛があったのである。しかも相手を愛することにおいていささかも動揺しなかったというのであるから、その彼の心は私には謎である。
 全くふたりの間に肉体的な関係があったからだというのなら、どんなに私は助かるかしれないのだが、そうではなかったらしいのだ。
 結婚を予想しない恋愛、それはたしかに純粋であり美しい。だが同時にそれは地獄でもあるだろう。なぜならば、つねに会うということがはじめてのそれのような新鮮な感動でなければならないし、そのつど愛するための行動でなければならないからである。」

「つまり愛し合っていながら、いつもまだ愛し合っていないもののようでなければならないからだ。このような愛は、時間の持続に耐え得ないはずなのである。
 だが彼女は、それを一年あまりも持続することができたのだ。しかも毎日のように会っていながらだ。
 私は、実に弱ってしまった。だが、もちろん私以上に弱ったのは、実際その場所におかれたマッカーシィさんであることはもちろんだ。彼が会うたびにうるさいほど結婚を申し出たのはそのせいだし、またその彼の彼女に対する説得がどんなに情熱的なものにならざるを得なかったかは想像にかたくない。
 そしてやっと彼女は、結婚を承諾した。ほっとしたのはマッカーシィさんだけでなく、それをいま聞いていた私もである。
 そのとき私は、どうしてか、その二人の恋愛が生きて動きはじめたという感じがしたのであった。だから周囲の反対が起こりはじめたのは、彼女が結婚の意志を表明しはじめてからなのだ。」

「さて、延さんたちの恋愛は、はじめて恋愛らしい恋愛となった。ただ問題は、周囲の反対をどういうふうにするかだ。
 ある日マッカーシィさんは、彼女の家を訪れた。二階では彼女のおかあさんやおばあさんたちが、どうしても二人を結婚させてはならないことを話し合っていた。
 二人は、このやっと会ったチャンスを逃してはならないと思った。彼女は、寒いのにワンピースとオーバーだけで、彼と家をとび出して、結婚の手続きをしに出かけたのである。
 だから彼女は、もう家へは帰れなかったし、帰ったときふたりを引き裂く危険が待っているかもしれなかった。
 で、そのまま奈良の方へ旅行にでかけたのである。いわばその逃亡が、延さんたちの新婚旅行であったのだ。」

「── 話が終わったというと、マッカーシィさんは、文字通りとび上がるように急いで嬉しげに立ち上がった。そしてそれでも、しびれていてよろめきゃしないかと心配している私の眼の前を、平気でスタスタと部屋の入口の方へ行ったのである。
 私は、呆気《あっけ》にとられて、その彼を見送っているばかりだった。彼がしきりに足をもんでいたのはしびれではなかったのかしらとふしぎな気がしたからである。」

 ── 区切りのいい所がなく、全文一話に収めることになった。
 こちらの作品も、基底的には、今までの話の流れと同じような感じがする。
 周囲の反対を押し切り、というか逃げ出して(ああ逃げると行くは同質だ)、二人は二人の世界を現実につくりだした。
 恋愛というのは、気持ちだけでなく、そばにいたいという要求を、その気を持った者に植え付ける。そして生活という日々の繰り返しを、二人で共同で営むことになる。
 結婚。その形態は、社会参加を意味するように思われる。ただ一緒に住むだけと、違う。役所に届け出、式を挙げれば親戚知人が集まり、わたし達は結婚しました、と「公開」する。
 扶養し、扶養される者が法的に認められ、社会保険の対象になる。

「これは、国が、人間を管理しやすいためにある制度だから」と僕の前妻は言い、僕らは結婚しなかった。子供ができると、今度は「結婚していないと、子供が非嫡出子として差別される可能性がある」ことを恐れ、僕らはその時初めて婚姻届を役所に出した。
 夫婦別姓が、けっこう叫ばれていたような頃だった。あれから30年経ったが、いまだにそうならないばかりか、その熱も、下火になったようだ。
 この国を引率する「保守派」の議員さん達は、「夫婦別姓を認めることは、家族の絆が失われかねない」という。
 苗字が違うだけで、なくなる絆、この絆というのも、なんだか美化しすぎる言葉に聞こえるが、そんな絆なら、こちらから御免こうむりたい。
 たぶんこの国に、夫婦別姓という制度など、生まれることはないだろう。

 結婚それ自体が、たいしたことではなくなっている気もする。離婚率がかなり高くなっているらしいのも、「二人でつくっていく生活」よりも、一人の生活の方が気楽、といった方へ、戻りたがるためではないかと安易に思う。ガマン強くなくなった、セッカチになった、何か現代(2022年)的な気質が、働いているようにも思う。何にしても、結婚に対して、死ぬほどの覚悟は、なかなか持てない気がする。女性の社会進出も、「頼り、頼られる」ことから生まれる責任を、共同経営する家庭から、個人事業主どうしの家に、つまり「個」に重きが置かれるような場所に変貌させた、遠因でないとは言えないだろう。

 もし、年収や、それに伴う社会保険のために、結婚した方がトクなのだと考え、結婚した場合、なにやら「愛」が薄れる気もするだろう。それが、始まりであったのに。
 それほど、生活というのは、重いのだということは分かる。
 でも、結婚する前から、このヒトの年収では結婚したくない、などと公然と言える人が増えてきているとしたら…
 一体、愛とは何なのだろう?
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