第20話 仕事と恋愛 i 

文字数 2,684文字

「私は、烏山にあるその家の日あたりのいい縁側で、その家に間借している友人の帰ってくるのを待っているときだった。その家の主人は未亡人で、私をもてなすためにいろんな話を聞かせてくれたのである。
 彼女は、もう五十近く、二、三年前夫をなくしたばかりだったが、豊かな生活にまもられたやさしい素直な顔と心をもっているひとだった。友人は私に、とても女らしいひとだといっていただが、そのひとを見ながら、なるほどという気がしたものである。
 彼女は話がたまたま自分の姪の恋愛問題に及んだとき、ふいに嘆くようにいった。
『この頃わたし、ほんとに若い娘の気持ちがわからなくなってしまいましたわ。女らしくなくなってしまって、男を男と思わないようなところがありますしね』
 そして彼女は、自分の娘時代、男をどんなに大事に考えていたかを話し出したのである。
 私は、その話を聞きながら、妙なくすぐったさを感じていた。残念なことに私は男だったからである。
 だから女からそんなに大事にされればどんなに嬉しいだろうという気がしたが、しかし一方、そのような女はもう古いのだという気もして、その未亡人にあるあわれさを感じて、複雑な気持ちになっていたからである。
 その私の顔は、あまずっぱそうな、世にも奇妙な顔になっていたにちがいないと思われる。」

「私は、その彼女の話を聞いていて、一つの事実に思い当たっていた。彼女が娘であった昭和のはじめの時代には、一般に女が人間としての資格をもつのは、男に対してだけであるような観を呈していたということである。
 だから女は男に対する関係のなかにだけとじこめられていた。だからまたそんな自分を生かすためには、できるだけ女であること、つまり女らしいということによるほかに道がなかったのである。
 女はいつも男に対する自分であり、それ以外の自分はあり得ないというようであったのだ。
 その時代においては、それは私の青年時代の初期にあたっていたが、まだ恋愛至上主義が一般的な風潮を支えていた。通俗小説にも、そんな恋愛が横行していたのを覚えている。恋愛が、人生の他の何ものにもまして大切なものであり、恋愛のためには一切がささげられるべきだとしたのである。
 しかし今になって思えば、その恋愛至上主義は、女を男に対してだけの存在であるという鎖へつないでおくための、はなはだ便利な思想だったと思われるのである。
 女は、その思想によって、男に対する愛だけが、人間としての自分を表現する唯一の道だと教え込まれていたのだ。
 だが、男の方は、多少の例外はあるが、その思想を肯定しているときでも恋愛のために仕事を捨てるということをしなかった。仕事を捨てることは、飢え死にを意味したからである。
 そして仕事というものは、それを通じて人間を社会へつながらせているものであり、だから社会的な自分を確立するのは、仕事によってしかないのだから、男は、恋愛至上をとなえながらも、結果的には恋愛だけが自分を生かす道だとは考えていなかったといわれても仕方がないのである。
 言いかえれば恋愛至上主義はけっきょく、男至上主義だったのだと断定することができる。」

 ── もっともだと思う。僕の育った家庭の話をすれば、父は大正7年生まれだった。晩年、父は、「男は今まで、エバりすぎていたんだ」と言って、鬱病の母が家事をしなくなると、父は率先してご飯を炊いたり、スーパーから総菜などを買ってきて、「家事」をしていた。男子厨房に入るべからず、などという世代に違いなかったにも関わらず、父は、偉かったと思う。

 たしかに女は、「男を立たせる」存在のように、ずっとあったと思う。それに対し、「女性にも権利を」的な運動が行われていた時期があったようだ。
 だが一方で、べつに僕は女性を差別するつもりはないけれど、こういう意見もある。つまり、「女性は、男を操作する能力に長けている」的な意見だ。逆にいえば、男は、女に操作されるのだ── 表立ってではなく、それこそ奥の院のような、秘密裡的な世界において、女は男を支配し、男は女によってつくられる、という…。
 そしてこれこそが、女性のもつ天賦の才であり、「男を立たせる能力こそ、女性にしか持ち得ない強い強い生来の才能なのだ」という見方がある。
 この見方が、「男社会」を蔓延らすために利用された、ともいえるが、科学的にも女性のホルモンだかDNAだかを研究した近代において、その特徴は「内助の功」的なものに適している、という証明がなされた、という文を読んだことがある。
 それも、「男社会」のための都合のいい研究だろう、といわれれば、もちろんそうなるが。

 でも僕の、数少ない異性との交流経験からいうと、あながち、それらの「男尊女卑」的な意見は間違っていないように思われる。くりかえすが、僕は女性が好きである。男より下、とか、そんな目で見るどころか、いつも、すごいなぁ、と畏敬の念のようなものを、つきあってきた女性たちから感じていた。
 彼女たちがいなかったら、僕はずいぶんまずしい人生だったと思う。
 だが、やはり何か、男を立たせようとするんだな、という気配、わたしはあなたを支えます、というような母性本能(これも男社会がつくった言葉かもしれないが)に、僕は強く支えられてきたと思う。
 自分があまり男らしくない、情けない人間だからかもしれないが…。

 女/男、と、線引きをするのはよくない、と思う。思うが、やはり男と女は違う。個人個人違うのはもちろんだが、それより少し大雑把なところで、女と男は、何かが決定的に違うということは、どうも認めなくてはならない事項であるように思える。
 男女平等とかいったって、何か上っ面だけの、むなしい言葉に聞こえる。もちろん平等であるに越したことはない。それは素晴らしいことだ。雇用にしても、現実生活面において、差別なんかあってはならない。
 ただ、ハナから、頭ごなしに「男女は平等!」と決めてかかる前に、やはり「違い」というものはあると思うし、それを認めた上で初めて「平等」の言葉がむなしくならない、標語だけにならない社会になるように思える。
 くり返しますが、僕は女性には頭が上がりません。卑屈になってるわけでもなく、ほんとに女性はすごいと思う。何か聞こえのいい言葉をプラカードみたいにするのでなく、まず違いがあることを否定せず、それをうけいれた上で、差別のない社会をつくろう、となって、質が伴い、ほんとうのものになる、と思える。
 ただこの「うけいれる」ことが、ほんとに難しいのだ…。
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