第31話 恋愛を超えるもの

文字数 5,182文字

 私は、あの昭和初期の恋愛至上主義とでもいう時代的な雰囲気のなかに育った。恋愛のためには、他のあらゆる配慮は犠牲にすべしというのが、その命令だったのである。だから金のために恋愛を振りすてて他の男と結婚するような、つまり「金色夜叉」のお宮のような女は軽蔑されたし、家のために結婚するような女は笑われたのである。
 恋愛は神聖にしておかすべからざるものであり、恋愛はこの世の神殿に住まわされていた。たとえば、大正天皇のいとこだった柳原白蓮の、炭鉱成金だった伊藤伝右衛門との家のための結婚から逃げ出して宮崎竜介のもとへ走った大正末期の事件が、新しい人々から賞讃されたのも当然である。
 しかしこのような恋愛至上主義の風潮は、はなはだ残念なことだが、恋愛を超えた力が当時あまりに数多く存在していることを証明しているのである。社会学的にいうならば、それらの個人の恋愛を圧殺するものがあまりに数多く強力に存在していたので、それらのものに対する抵抗として恋愛至上的な風潮がでてきたといっていいと思う。」

「それらの力とは、『家』はいうまでもなく、国家や社会や宗教や、ときには芸術などがそのようなものとしてあったのである。菊池寛の芝居である『藤十郎の恋』のなかには、芸術に対するそのような考え方の是認が感じられる。もちろん恋愛至上主義は、それらの考え方に対して抵抗するものであったが、しかもなお、その恋愛至上主義は、結婚を否定することはできなかったのである。あるばあいには、結婚は、その恋愛がほんとうの恋愛であるための証明であるようにさえ感じられたのだった。
 今でも、新聞の『身上相談』の解答なんかに、このような考え方を見受ける。つまり結婚を条件としていない恋愛はほんとの恋愛ではないという考え方だ。言い換えるならば、結婚の条件としての恋愛は許されるが、そうでない恋愛は、不真面目な遊びであって、ほんとうの恋愛ではないというのである。」

「いうならば、結婚が、神様のように恋愛を審判なさるわけなのだ。そしてそのばあいはもちろん恋愛は神様の位置から追放されて、結婚のよき(しもべ)となるわけなのである。そしてこの二つのものの相剋(そうこく)から結婚か、恋愛かというような局面が生れる可能性もでてくるのである。
 結婚がまったく予想されないばあいの恋愛として、また恋愛のともなわない、たとえば見合い結婚のようなばあいの結婚としてである。ここでそっと、私がなぜ、結婚か恋愛かというような二者選択をもちだしたかを洩らすと、この問題は実は古くからの哲学的な難問、つまり全体か個か、社会か自我かという問題につながっていて、戦後フランスに生れた実存主義は、その双方に生き得る道を求めようとしているものであり、現代に生きる私のもっとも関心をもっているものであるからだ。もちろんこんなことはどうでもいいのであって、ただ結婚と恋愛が問題となって鋭く分裂するのは、あるせっぱつまった状況においてなのであって、多くは、恋愛から結婚というコースを順調にたどっているらしい。そしてそれが自然だからである。サナギがチョウになるようにだ。
 だからまた、結婚が恋愛の延長であるかぎり、結婚は恋愛のことなった形式だという考えの生れるのも当然だし、客観的に見ても恋愛は結婚によって終止符を打たれるのだから、結婚は恋愛の墳墓だという考えの生れてくるのも当然だといえるだろう。」

「ところがここに、いかなることがあっても結婚は結婚であって、恋愛ではないという観点から、結婚と恋愛を区別して生きているひとがあったらどうであろうか。前項の題名をもじれば、いかなる恋愛も結婚にいたらしめない恋愛があったらどうであろうか。恋愛は自分のもっとも主観的な観点から、結婚のどんな条件も考慮に入れずに恋愛に入ってゆき、結婚は客観的な観点から別に、恋愛の相手でない男と結婚するというような生き方をしているひとがあったら、みなさんはどう思われるであろうか。
 ある会社の社長さんの娘さんであるA子さんのばあいは、それに十分該当するように思えるのである。
 A子さんは、肩の太い丸顔の二十二、三の娘さんである。彼女は、いまある大学の学生さんと恋愛中なのだが、その学生さんは、彼女にとって結婚の相手という観点から見ると、その条件を満たし得ないのであった。まず彼は貧乏なのだ。それはいいとしても、学校を出てから商業デザインの方へすすもうとしているのだが、正当に評価してその方の才能は十分だとは思えないし、多くの人々の評価もそうなのである。しかもたとえそうでないとしても、その道で社会から認められるには長い下積みの生活を送らねばならないのだ。運が悪ければ、他の芸術へ志すひとと同じように一生埋もれてしまうことだってあるのだ。当然のことながらその生活は、食うや食わずの惨憺(さんたん)たるものであるにはまちがいない。」

「身上相談欄の諸先生方は、おそらくそのA子さんが共稼ぎ、あるいは稼ぐのは彼女ひとりになるかもしれないが、とにかく共稼ぎの結婚をすすめるだろう。ところがA子さんはそうしないのである。結婚は、誰か親のすすめるひとと見合いして結婚することにきめているからだ。
 だからA子さんは、その恋愛に結婚にいたるようなどんな可能性をも用心ぶかく避けるのだ。夜、その恋人と散歩しているときでも、恋人が彼女を暗い公園の隅につれて行こうとすると、巧みに避けてしまうのだ。むりに接吻される危険があるからだ。
 恋人が冗談にまぎらわせて彼女の手をにぎろうとするけれども、彼女はまだ一回も彼と握手したことさえないのである。もちろん彼女は、恋人と映画に行ったり、どこかで食事することは楽しい。しかし彼女の方がはるかに金持ちであるが、どんなばあいでも厳重に男女同権をまもる。つまりワリカンなのだ。
 私は、A子さんからそんな話を聞いていると、その相手の学生さんが(へび)の生ごろしとでもいった情けない状態が思いうかんできて、その学生さんには、どんなにつらかろうとつくづく同情せざるを得なかったのである。」

「しかも、それは明らかに恋愛なのである。A子さんは、彼女の家が大金持ちなので彼女へ近づこうとする男たちは多いのに、その彼だけは忘れることができないのである。つまり恋愛に附属しているあらゆる感情はととのっているのだ。彼と会えば楽しいし、彼がその状態に耐えかねて別れるといったとき、彼女は、身も世もないといった様子で泣き伏してしまったのだった。もちろんつらかったからである。しかもなお、彼女は、その恋愛においてギリギリのばあいにきたとき、功利的と見られるほど、あの結婚はしないという最後の拒否をチャンともっているのである。
 このA子さんは、さぞかしみなさん方はひどく自尊心の高い女というふうに感じられるかもしれない。ところがおどろいたことには、このA子さんは神経質なほどひどく内気なひとなのである。だからこのA子さんが、こんな思いきった決心に到達するまでには、長い暗い心の歴史があったことは容易に想像されることだ。」

「A子さんのまわりには、今までもたくさんの男たちが集まってきたし、今でも集まってきている。もちろんA子さん自身が美しいひとだから、それは当然であろうが、しかしA子さんは、自分の関心をひいた一人一人の男たちについて失望を重ねていったのだ。その男たちの心のなかには、彼女には信じられないほどみんな、彼女に対する裏切りがひめられていたからである。つまり彼らはみんなA子さんの家の財産をねらっていて、ほんとうの意味でのA子さんを問題にしていなかったのだ。で、A子さんは、自分の手のなかから結婚を手放してしまったのだ。
 だからA子さんの、結婚は結婚、恋愛は恋愛という決意は、最初はどんな男も結婚にいたらせないという弱気な保身策から出発したように見える。だが今では、それは確固とした決心となってしまっているのである。
 あるひとは、ひょっとすると、この彼女の恋愛を、金持ちの娘の特殊な不幸と考えるかもしれない。しかしそれはあたらないと思う。私は、そこに何やらはっきりした言葉で呼ぶことのできない新しい時代の芽のようなものを感ずるからである。だが、彼女の友達であるH子さんは彼女へいった。
『でも、あんた、結婚してから、いまのひととの恋愛を思い出して苦になりやしないかしら』
 A子さんは、その問いに微笑しながら答えた。『さあ』
 もちろん、A子さんにわかるはずはない。まだ結婚していないからだ。だが私には、そのA子さんの決意から考えて、理想といえないにしても客観的条件(たとえば健康だとか生活能力だとか思想だとかいうような就職試験の項目にでもありそうな条件)をそなえたひとと見合い結婚するにちがいないと思われるが、それは彼女にとって、恋愛の秩序とはちがった、まったく別の結婚の秩序をもった世界へ入ることを意味するにちがいないし、だからたとえ過去の恋愛を思い出すことがあっても、大人が、別の秩序のなかに住んでいた幼いころの自分を思い出すようなものであるだろうと思われる。
 つまり彼女には、その恋愛について後悔などしないにちがいないと思われるのだ。」

 ── 今、キルケゴール著作集3の、「あれかこれか第二部・上」(白水社)を読んでいて、結婚と恋愛についての綿密きわまるキルケゴールの叙述を目にしている僕は、ここで椎名さんが言いたかったこと文裡に感得する気がする。
 あの実存主義哲学の源泉とされるデンマークの哲人は、とことん、恋愛と結婚についての思索を重ねに重ね、「独身者」と「既婚者」に見立て、親友どうしである既婚者からの独身者への手紙・報告、論文といったような形式で、恋愛と結婚の深層、その人間との関わり合いについて執拗な追求を続けている。
 それによれば、打算のある結婚、具体的な理由をもつ結婚、ある目的のためにする結婚は、美学的・宗教的・倫理的でないという。(恋愛には、たしかに宗教的な匂いがある。美学、容姿だけでない美に関する学びも、同時に倫理も生成、生育される)
 そのキルケゴールのすべての論述をここにかいつまめないけれど、結婚した人間にしても、恋愛する人間にしても、そこには人間の尊厳とでもいう、尊い気分、神聖的な時間、恥を忍んで言えば、崇高なものへの羽ばたき、といった、人間存在の体現、人間が関係において育てていく美徳とでもいうようなものが、その長く難しい叙述から受け取れる多くの要素のうちの一つとして僕に入ってきたものだった。

 美学的、宗教的、倫理的というもの、ここに、恋愛する/結婚する人間に何か、人間的な、人間であるがゆえの、人間であるがための何かが、謎のように、また確かな希望のようにある── という思いを、キルケゴールを読んで強く抱く。
 因襲的なものでなく、人の社会がどんなに変わろうと、心の問題、深淵といっていい、泉にも沼にもなる心、その心が、世界をつくっていく。今回、椎名さんに「そこに何やらはっきりした言葉で呼ぶことのできない新しい時代の芽のようなものを感ずる」と言わせた芽は、確かに椎名さんまでの時代にはなかったろう。そしてその芽はドライな、あまりにドライな花を、今(2022年)咲かせているように感じる。
 恋愛も結婚も、人を成長させる契機をもつものだった。それも、愛する相手とともに生き、考え、受けとめ、相容れる、精神と肉体が存立して、やっと初めて成長できるものだった。
 今、あまりに即物的な、つまり現実的なところに、大きな比重が置かれてしまった。給料が安いから結婚できないとか、およそ愛とは、愛の本質とは無縁のところに、まず目線が行っているような気がする。
 
 現実的になった、といえば聞こえが良いが、何も考えなくなった、それが主流になったように見える。何か考えていたとしても、他人の目から始まっている。こんな連載をしている投稿サイトの作者さんたちが、どうしたらランキングの上位に行けるかとか、多くの読者に受け入れられるかとか、そこからしか思考が始まっていないとしたら、考えていないことにはならないにしても、他人の目からしか自己を立たせていないのと同様、単なるいいね!のために存在するがごとくだ。
 集団と自己が、そこで密接になっているように見えても、あっけなく壊れる氷上の関係。その関係は、実は断絶しているように見える。この断絶が「恋愛を超えるもの」になってしまったように見える。
 H子さんがA子さんに問うたことへの、A子さんの「さあ」は象徴的だ。
 恋愛についても結婚についても、たいして考えることでもない、とでもいうような、そしてその「ない」空虚さも、ネットで簡単に埋められるよ、とでも言いたげな…。
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