第5話 愛について( ii )

文字数 2,392文字

「批判は、新カント派を待たなくとも、存在に対して不快であるように振る舞う。たとえば僕たちの作品が、常に存在することが不快なるもののように論ぜられるのは、それは批評家の悪意ではなく、一個の作品を批評するというその言葉自体のなかに、その作品に対して不快なるもののようにしか振る舞うことができないという宿命をもっているのだ。
 だからその宿命を理解している批評家にとっては、批評は苦痛であるはずであり、しかもそれが彼の愛する作品に立ち向かわなければならない時、彼の言葉は自己にとって十字架となるのである。だから真の作品批評は、このような宿命の理解なくしては成立しない。
 そしてその宿命を自己のものとして理解しながらしかも批評せずにはいられない情熱の中に、はじめて批評家の自由が確立される。
 その自由は、自己の分裂関係を超えて存在するが故に、真の自由なのである。
 言い換えれば、そのとき超えられたものは、自己意識だということができるのである。」

 ── きわめて身近な例として、これを投稿しているノベルデイズというサイトがある。そして、きわめて稚拙なたとえで申し訳ないが、僕がどなたかの作品を読み、それに対してレターを送ろうとする時、僕はその作品へ、きっと『批評』するような態度をとっていると思う。感想なり、その受けた印象を言葉にする時、結局それは『評する』ことになる。
 これは、かなり難しい作業だ。いつか、どうしても書きたくて、半日以上、パソコンの前で悩み続けたことがある。どう書いたらいいのか分からず、しかし書きたいという、奇妙な苦しみの時間だった。
 何回もやりとりしている相手とは、会ってもいないが顔なじみだし、気心も知れたようなつもりになって、気軽に書ける。だが、まだなじみが薄かったり、すごいいい作品を書いている、と実感した作品に対して、その受けた感じをどう表現したらいいのかに、思い惑う。
 また、いくらやりとりをしたとしても、親しき仲にも礼儀ありで、何か礼を欠くようなヘマを仕出かしてやいないか、不安になったりする。
 そんな時、強引だが、この椎名さんの「言葉の宿命」、「精神の機能」を思い、よろつきながらも自分を立て直す。

「自己意識とは何か。分裂関係としての自己である。」と本文は続く。
「僕たちが呼吸において、一呼吸ごとに呼吸している自己を意識せずにいられないとしたならば、それは異常なその故に苦痛な緊張であり、そのような緊張は人間にとって何時間も持ち切れるものではない。このように分裂関係は、自己意識において分裂関係となるのであり、もし人間に自己意識が存在しないならば、分裂関係もあり得ない。
 したがって自己意識は、自己自身に関係する関係として、関係が不快であるところの宿命をもっている。だが不快は憎悪に高まり、自殺においてしか終わることはできない。いえば、われわれの自覚的な存在様相は、自己嫌悪だということができるのである。」

 いきなり自殺という物騒な言葉がでてきたが、これは椎名さん一流の窮極的な視座であって、精神=批判する機能、それは嫌悪・不快を自己にもたらし(自己と自己との分離した関係、自己意識があるが故からの)、「われわれは自己嫌悪によって自己の存在を知る、あるいはそのきっかけをつかむ」と換言しても、椎名さんから怒られはしないだろうと思われる。

「もちろん、自己意識のないものにとっては、自己嫌悪もあり得ない。ドストエフスキーが、意識は病気だ、と言う時には、実はこの自己意識を指しているのである。犬や猫などにとっては、自己意識などあろうはずがない。その故に彼らの直接性の世界は、われわれにとって限りなく美しく見え、われわれの憧憬さえひき出さずにはおかないのだ。
 自己意識は、人間にとって何という重荷だろう。しかも自己意識が、常に自己嫌悪として意識されるということは! 自己嫌悪、それは明らかに、近代の病気なのである。いえば、自己嫌悪は、まさに自己自身が愛し得ないということであるからだ。」

「自己自身が愛せないこと、それは自己不信でもある。キルケゴールの『死に至る病』としての絶望も、つまりは人間は自己自身を愛せないということなのだ。
 しかも自己嫌悪においては、奇妙にも宗教的な罪の観念を伴って自覚されるのは、どういうわけなのだろう。全く、神なくしてどんな罪の観念が可能であろう。だがそれは自己自身が愛し得ないこと、それが人間にとっての原罪であるからではないだろうか。
 太宰治氏の文学が、自虐の文学といわれ、その自虐意識が、『生まれて来てすみません』という原罪意識と、したがってキリスト教と密接していたのは、故なしとはしないのである。
 その故にエゴイズムには、自己意識はあり得ない。それは人間の肉体性であり、それだけである。
 もし自己意識においてエゴイズムであるならば、それはもはやエゴイストであるということはできないのである。
 それにも関わらず、エゴイストであることを意識するならば、いわばそのエゴイストは自由なるエゴイストであり、一個の超人なのである。そこでは自己意識において、自己が彼にとって愛し得るものとなっているからだ。」

 長くなったが、そして何を言っているのかわからない様相も呈してきたけれど、僕は要するにこういう椎名さん、ほんとうに考えている椎名さんが好きなのだ。
 観念的な作家、というレッテルも貼られていたかもしれないが、観念によって人はモノを書き、観念によって世界を見ていると僕には思える。で、その観念を追求、思索に思索をかさねて、その観念、事象の一つ一つを分析し解明しようとしている。そう思えてならないし、そういう活動を続けた椎名さんが、僕はやはりどうしようもなく好きなのだ。

 そして本文はドストエフスキーの「地下生活者の手記」を例に挙げて続いていく。
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