第25話   〃    iii

文字数 2,568文字

「私は、T子さんにいった。
『愛って何だろうという問いが、自分のなかに起こるときは、すでに心のなかでもう現在の生活が無意味に感じられているからじゃないでしょうか』
 T子さんは、膝の上で子供をあやしながらちょっと首をかたむけるようにしたが、その唇には人の好さそうな微笑がうかんでいた。
 私は、その微笑に妙なとまどいを感じながらあわてていった。
『つまり、つまり、愛でさえ無意味な感じがするから、愛って何なのだろうという問いが自分の心に生まれてくるのではないでしょうか』
 T子さんは、やはりあの不思議な微笑をうかべていて、何かを調べるようなふかいまなざしをあらぬ方へ向けているのだった。
 こんなときなのである。背後のベレー帽の石灯籠の彼氏の眼が、私にそそがれているのを感じるのは。彼氏はこういうのだ。
『やめな、やめな、何をくだらないことをいっているんだ。T子さんにお前のいうことを納得してもらってもだぜ、T子さんの今の苦しみがなくなるわけではないじゃないか。馬鹿だよ、じっさい、お前は』」

「でも、私は、その石灯籠さんに対してははなはだ申し訳ないが、私には、T子さんの心をそして多くの女のひとを思いうかべていたのだった。
 日々の家事のなかに生きられるひとはいい。だが、あの毎日毎日、同じ家のなかを掃除し、いつ果てるともなく毎日出てくる汚れものに立ち向わなければならない、あの家事というもののもっている無限のくりかえしに疲れ果て、ある日突然、夫との関係だけでなく自分の生活全体が無意味に見えるとき、女のひとの魂の底を揺るがすように出てくる強い衝動を私は知っているのである。
 それはいわば人間の自由への叫び声だ。T子さんの文章のもっているはげしさは、この自由への衝動のはげしさにほかならないのだ。だが、何へ自由になろうとするのか。男は、この衝動を遊びへ解放するが、女のひとにはそれがない。女のひとの衝動は、対象のない空しさのなかにいたずらに消えて行くのである。
 そこで女のひとは(あきら)めをもってふたたび日々の繰りかえしのなかに帰って行くのだ。」

「だが、T子さんのばあい、たまたまSさんという対象があったのだ。彼女の悔恨の中での彼への愛は、同時にT子さんの自由をも意味するものになったのだ。
 つまりT子さんの多労なだけの日常からの自由と、彼女の悔恨の中での愛とがSさんに焦点を結んだのである。恋愛のそれも初めの期間には、何やら新しいものがあるとキルケゴールがいっているが、それは愛につくろうことのできない分裂をあたえる自由が、そのときその愛を支えるものとなっているからである。」

「そこでT子さんのいう二つの愛は、明らかに性質をことにしているのである。夫への愛、同時にそれは家庭や子供に対するものでもある近い愛と、それから自由になろうとするときに生まれてくる遠い愛とは、あきらかにちがう。
 そして恋愛が、ほんとうに恋愛であるならば、そのひとののぞむ自由の実現が、同時にそのひとの愛の実現でもあるときなのである。
 それならばT子さんは、どうして家をとび出してSさんのところへ行かないのだろうか。それは彼女は、夫であるKさんをもたしかに愛しているからである。その愛は、家からとび出そうと思った瞬間に、はじめて彼女に自覚されるものであるからだ。同時に世間というものに結びついている。その愛の重さも。
 こうしてT子さんはなやみ揺れている。」

 ── 「ベレー帽の石灯籠の彼氏」が、また描かれている。庭の隅にチョコナンと、しかし確かな存在感をもって。
 この石灯籠に、僕はひどく惹かれる。この取材をしている椎名さんと同行した編集者、そしてT子さんの三人を見つめ続けている石灯籠。
「足の短い小人が生意気にもベレー帽をしゃれたふうにアミダにかむった」この石灯籠が、僕にはたまらなく愛おしい。写経していて、微笑を禁じえなかった。

「二つの愛」について椎名さんは書かれているけれど、何もこれは愛に限った話でなく、やはり僕には、人を悩ませるもの、人を悩みに導くものが何であるかについて書かれていると思える。
「あれか、これか。」だ。
 この選択に、常に人は、少なくとも僕は悩んできた。正確には、選択の対象についてではなく、あれかこれかの選択をせざるをえない、その状況下における、そこに置かれた自分について悩んでいたと思う。

 その選択は、一見、その選択によって、あたかも人生が決せられてしまうかのようにあったように見える。
 だが、僕には、それで人生で決まってしまうとは思えなかった。
 そして要するにただ、自分が「あれも、これも」にはなれない、ということを思い知るばかりだったように思う。
 自分の意思によって判断し、決定したように見えることでも、それはほんとうは意思に関わりのない、自分で決せられない、「運命」のような、何か大いなるものに決せらる、そんな気ばかりを感じていた。その大いなる何かにくらべれば、自分の選択など、比べようもないほど小さな、あってないもののように思えた。
 自分というものは、確かにあるのだけど、それはもっとおおきなものの中にしかない、というようなものを、もっと確かに感じていた。

 …「石」の類いについては、別のエッセイで、石灯籠氏と同じように描かれている箇所がある。幾年ぶりかで書写山(姫路にある、椎名さんの郷里の近くにある山)を訪れた椎名さんが、大きな岩が、むっとした様子で、だまってそこに「いる」のを見るのだ。
 椎名さんは、幼少時代にもその岩が同じ位置にあり、その岩のまわりで悪ガキたちと遊んでいた頃を思い出す。くわしい内容は忘れたが、そのエッセイの最後に、椎名さんがその岩をぽんぽん叩きながら「たいしたやつだよ、お前も。考えてみればな」と言う。この最後の独り言が、僕にはどうしてか忘れられない。
 この石灯籠の描かれた文より、後年、もしかしたら晩年の文章だったかもしれない。
 石灯籠の視線を感じ、虚無に似たような気持ちにさせられる椎名さんには、「たいしたやつだよ、お前も」と、岩をぽんぽん叩けるなんて、できなかったろうと思えるからだ。
 そのエッセイでは、「だがその岩は、あいかわらず、むっとしたような顔をして、町を見下ろしているのだった」というふうに終わっていた。
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