第34話 恋愛を保証するもの

文字数 5,420文字

 私も、ひとりの女を愛していながら、しかしいつもほんとうに愛してもいないし愛されてもいないという思いに悩んだものである。
 愛していながら、その愛に吹き通ってくるウソ寒い風が感じられてならないのだ。
 そんな時、その空虚を押し切るために、激情的になって相手をいだく。しかし、やはりその一瞬に、はなはだ危険にも、このまま相手を殺すか、自分が死ぬかするより仕方がないのではないか、という思いのチラリと胸を横切るのを防ぐことができなかったのである。

「幸福?」と、抱擁しているあなたの恋人がたずねる。
 どうして、今この時、こんなバカげたことをたずねるのだろうか。それはほんとうには幸福を感じていないかもしれないという不安が、あなたの恋人の心をかすめるからだ。
 また、あの恋の一瞬に、あなたが死ぬほど愛されたいという激しい思いにとらわれたことはないだろうか。
 愛して愛して、殺してしまいたいほど愛したいという

めいた思いに、駆り立てられたことはないだろうか?
 その時あなたは、自分の愛の中に埋めることのできない空虚を感じているのである。その空虚が、結婚のできないということや、相手が自分を裏切っているという事実から生まれたものであるにしろ、しかし本来は愛、それ自身の中に隠されているものであって、だから理由なく起きるものなのである。
 そしてその空虚さを押し切るためには、激情しかないのだ。だが、世の中は、うまい具合に、その空虚を感ぜずに済ませてくれるようになっている。

 浮気な男がいた。今年二十七になる鈴枝さんは、その男を愛していた。もちろん鈴枝さんは、その男の浮気に悩んでいたことはいうまでもない。
 ところがある日、彼女は、生々とした顔になって私のところへやって来るなり、嬉しそうに叫んだのだ。
「あのひと、わたしをほんとうに愛しているということが分かったの!」
 私は、呆気にとられてその彼女を見た。すると鈴枝さんは、ハンドバッグから大事そうに金色の丸い小さな金属のケースを取り出してきたのだ。口紅だった。彼女は、興奮した顔でその(ふた)をとって、それをつくづく眺めながらいったのである。
「あのひと、どんな女のひとにも、ハンカチ一枚買ってあげたことがないのよ。それだのに、今日、びっくりするじゃないの。あのひと、銀座のS店へツカツカと入って行って、わたしにこれ買ってくれたのよ」

 私は、その彼女へ力なく、よかったねといったきりだった。そのほかに、どんないい方があるだろうか。彼女は、やがて彼の自分に対する「ほんとうの愛」を保証してくれた小さな金属のケースを再びハンドバッグへ大事そうにしまい込むと、落ち着かないふうで嬉々として帰って行ったのである。

 あなた方は、あまり無邪気すぎるというふうに、その鈴枝さんを笑われるかもしれないが。
 だが、その鈴枝さんは、ジャーナリストとして活躍している、なかなかのうるさ型なのである。どんな学者先生も、彼女には太刀打ちできないほどなのだ。
 だが、恋愛において、ほんとうに愛しているかどうかという尺度は、普通には結婚であるらしい。というのは、現在ではほとんどの新聞が人生案内風な欄をもうけていて、読者のいろんな相談に応じているが、その中で恋愛問題がかなり大きな部分を占めているようである。
 その解答を読むと、その解答者の諸先生方には、はっきりした原則でもあるようだ。結婚を予定しない恋愛は、ほんとうの恋愛ではないというようにである。

 たとえば誰かが「相手の男は、三年も関係が続いているのに、結婚の話になると逃げてしまう」というようなことを訴えると、必ずこう答えていらっしゃるようだからだ。
「何という不実な男だろう! その男は、あなたを愛しているなんて口にしているが、しかし実際は、あなたなんかほんとうに愛してなんかいやしないのです。そんな男なんか諦めておしまいなさい」
 もちろん私も、この答えはなかなか立派な答えだと思う。だが、結婚が、その恋愛のほんとうであることを保証するかという段になると、私は否といわざるを得ないのである。
 ある場合には、結婚を拒絶するするということの中に、恋愛の純粋さを保ち得ることがあるからだ。
 デンマークの哲学者のキルケゴールが、その恋人のレギーネをほんとうに愛そうとして結婚しなかった例があるではないか。
 またフランスのサルトルやカミュによって代表される現在の実存主義も、むしろ結婚の拒絶の中に自分の愛のほんとうらしさを確保しようとしているのである。

 しかしそんなむずかしいことはとにかくとして、結婚する人間は必ずしもほんとうに愛し合っているとは限らない、ということで十分ではないか。だが、私はしばしば、こんな言葉を聞くのである。
「あのひとたち結婚したの! そう! じゃやっぱりあのひとたち、ほんとうに愛し合っていたのね」
 私が、会社へ勤めていた頃、若い社員とタイピストの間が噂に上ったことがある。職場での恋愛は、最近また上役からいろんな圧迫を受けるようになったらしいが、しかし戦前は厳重すぎるほど厳重な御法度(はっと)であった。
 だから逆に、私たちの間では、職場での恋愛に敏感すぎるほど敏感になっていた。なぜなら、それは危険を意味したからである。だが、その敏感さは、たしかに行きすぎていて、男女間のほんのちょっとした好意も、恋愛と見なしてしまうことが多かったのである。

 その若い社員とタイピストとの場合も、その例にもれなかった。そのタイピストは、どんなに急ぐからといってタイプの仕事を頼んでも、順番があるからといって、なかなかその頼みに応じてくれなかったのであるが、どういう風の吹き回しか、彼が頼みに行くと、素直に先にやってくれたのであった。
 しかもそんなことが二度も続いたのである。まさに大事件だった。で、あの二人はあやしいと、たちまち噂になった。私の同僚の四十男が、その彼にいった。
「君は、あのタイピストに()れてるんだろ」
 噂を知らなかったらしい若い社員は、びっくりした顔でいった。
「いいえ!」
「嘘つけ!」と四十男はいった。「みんなそういってるぜ、みんなが」
 若い社員は、再びびっくりした顔で問い返した。
「みんなが?」
「そうだよ、みんながそういってるよ」
 そのときの若い社員の顔は、実に妙なものであった。まるで逃れることのできない運命にでも出くわして、それを喜んでいいのかか悲しんでいいのか、さっぱり分からないといった顔付だったからである。
 一ヵ月の後、タイピストは会社をやめた。つまり二人は結婚したのだった。その若い社員は、かわいそうに間もなく招集されて戦死したのであるが、その一年あまりの短い間、どうもうまく行かないようだったのである。彼は、時々ひどく憂鬱そうだった。彼は、ついにある時こう洩らした。
「どうもぼくたち、ほんとうに愛し合っていたと思えないんだよ」

 すると四十男は、またもや、こう答えたのである。
「嘘つけ! 山田さんも大西さんも、みんなそういっているよ。お前たちほど、ほんとうに惚れ合っているのも、ちょっといなかったといっているよ」
 すると若い社員は、力なげな顔で微笑しながらいったのである。
「そうですか」
 だが、その彼は、みんながそういっている以上、自分たちはほんとうに愛し合っていたんだろうと思ったことは事実だった。彼は、急に生々としはじめたからである。その彼からは、この何ヵ月来の憂鬱なんかどこかへ吹き飛ばされていたのだ。
 その彼は、みんな、という言葉であらわされる人々の証言が、彼らの恋愛がほんとうであることの保証のように思われたにちがいないことは明白であった。

 また、私は、戦前、共産党の運動をしていたのであるが、その当時も、党においては同志愛で結びついた恋愛でない限り、ほんとうの恋愛ではないとされていたのである。言い換えるならば、恋愛の相手が同志であることが、その恋愛のほんとうさを保証したのである。
 いつかこのことを小説に書きたいと思っているが、実際において、その恋愛はデカダンスを極めている場合が多かった。
 ある朝早く、連絡のためにアジトへ訪れた私の、その二階の部屋で目撃した光景を忘れることはできない。ならべた二組の蒲団の中に二人の女と三人の男が抱き合っていたのである。
 そして私は、その二人の女が、同志であれば誰でも身体を許しているという話を確認せずにはおられなかった。同時に彼らの妙な関係が、生理的要求を満たす以上のものであることも感ぜずにはおられなかったのである。
 なぜなら、敵とはこんな関係を持つことはできないことは確かであるのだから、同志として愛し合っていたにちがいないからだ。

 だが、この光景は、年若い労働者であった私には、どうしてか無惨なもののように見えた。というのは、同志愛というものが、恋愛の意味さえ失わせているように思われたからである。
 同志として愛してさえいれば、ほんとうに相手を愛していようがいまいが、構わないのだと、その光景は告げているように思われたからである。
 たしかに恋愛には肉体の問題がある。男から、ほんとうに愛しているならば、ほんとうに愛している証拠を示してくれと、肉体を要求された覚えのある女の方もあるだろう。
 そしてまた、せっかくその証拠を示したのに、その証拠を示したトタンに冷淡になる男に出会われたひともあるだろう。

 さて、世の中には、このほかにもまだまだ恋愛において、そのほんとうであることを保証してくれるものは、ありすぎるほど沢山あるのである。
 それは二つの種類に大別することができるだろう。一つは客観的なものとして、物的なもの、肉体的なもの、社会的なものがあるし、主体的なものとして、精神的なものや死の意味するもの一般があるのである。
 しかし「ほんとう」とは何なのだろうか。「誰かをほんとうに愛したい!」と力を込めて叫ぶ時、その時のほんとうは、明らかに事実であるか否かを指す「ほんとう」でないことは明らかだ。
「ほんとうに幸福になりたい」と祈る時、その時のほんとうは、この世にあるモロモロの幸福を超えた、純粋そのものといったものを指しているにちがいない。
 そして「ほんとうの恋愛」といった時、その恋愛は、すでにこの世ならぬ光をもってつつまれてしまうのだ。そして恋愛においてだけでなく、愛一般においても、ほんとうのそれはこの世界にはない、この世ならぬものなのである。だからまた、ほんとうの愛であることを保証するものは、この世界には何もないのだ。

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 たとえ虚しい結論が呈示されようと、僕は椎名さんの文が好きだ。たぶん、「考える」、自分でほんとに考える、それを文に現わすということを、作家を目指してから死ぬまで、椎名さんはやり続けたのだと思う。
 死ぬまでその仕事を続けた、という人生が、よくあることだとしても、僕には椎名さんの生き方が… ドストエフスキーによって文学に目覚め、「ほんとう」を追求し「自由」や「愛」という、人間の内奥の共通項のような項目に、思考に思考をかさねて空白を埋めていった、作家としての仕事に、やはり憧れのようなものを持つ。
 誰でも、努力をして生きているとしても、椎名さんの努力、その努力は、僕の心の中に地を固めるように、雨のように入ってくる。
 耐えた人だったなと思う。耐えるのが、ほんとうの仕事だったのかなとさえ思えてくる。

 言いたいことは、いっぱいあったろうと想像する。それを伝えるのに、四苦八苦のし通しだったとしても、それが椎名さんの生だったのだと思う。
 結局、さいごは、情熱だったのだろうか。晩年近くから、戯曲を書き、若い人たちが情熱を燃やす芝居の仕事を、よく引き受けていた。
 奥さんからは、お金にならないから、イヤな顔をされていたらしいが、椎名さんは何より若い人たちの情熱が好きで、何物にも代え難いもの、と捉えていたのではないかと想像する。
 小説を書くより、時間や労力を費やしたとしても、「放っておけない」ものを、彼らと、自分自身に見い出していたんだろうと思う。

 椎名さんが「みんな」という言葉を、あまり信じていないことは、ほかのエッセイや小説にも見受けられた。「みんな」といっても世界の何十億人の人たちでなく、職場の四、五人だけなのに、「みんながそう言ってるぞ」と言われ、この世の終わりのように心が動かされてしまう、という描写。
 結婚についても、「みんながそうしているから」という、極々それだけのことで、そんなことより(とまで乱暴な言い方はしないが)いろいろ自分で考えてみてください、ということを、安直にいえば、椎名さん、言いたかったのではないかと薄っぺらな頭で僕は思う。

 吉本隆明が「共同幻想」という言葉を使っていたが、言葉だけ知っていて、内容を僕は知らない。でもこの「恋愛を保証するもの」から、共同幻想、という言葉が浮かんだ。
 共同というのが幻想のようでもあるし、とすると、幻想の幻想という、まわりにある空気のような幻想と、自分の内から生える幻想の、ふたつの幻想が重なり合って成り立つ言葉か、と想像したりする。
 外と内を同等に重んじる、そんな世界が来たら、ユートピアか、とも思う。どちらかに、きっと比重が置かれ、外を重んじたほうが、たぶん気楽… だろうか。
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