第19話 恋愛とユートピア ii 

文字数 3,006文字

「その後彼女は、すぐ前夫へ復縁したが、しかしその赤ん坊が大きくなって、自我というものに目覚めて来た時には、おそらくあのような愛は、あのままではあり得なかっただろうと思う。
 だが、少なくともあの一瞬は、赤ん坊は、母親によって生きているのであるから、赤ん坊にとって母親は彼の全部であることに間違いないが、彼女にとってもその赤ん坊は、たとえその瞬間だけであったにしろ、彼女の全部であったに違いなかったのだ、と今でもそう考えている。
 そして彼女と赤ん坊がそうであることは、()めたたえられこそすれ、非難するものは、この社会には一人もいないに違いないのである。
 言い換えれば、ちゃんと社会全体から認められていたことなのだった。そして恋愛のユートピアも、これと同じような状態であるだろうと思われるのである。」

「公園を歩いて見ると、このようなユートピアの一組が、ぞろぞろ歩いているのに驚かざるを得ないほどだ。現代の日本には、未婚の男女の恋愛を妨げる決定的なものは、貧乏以外には何もないように見える。
 職場の恋愛も自由だし、たとえ妊娠しても中絶さえ許されている。それらの自由を禁止したり非難したりする者があっても、社会からの支持が得られなくなっていることは事実だ。
 地方には、まだ若い人たちの恋愛に対して、うるさいところがあるかもしれないが、それも以前ほどではないだろう。
 だからその恋愛を成就させるためにほんとに抵抗しなければならないものがあるとすれば、たかだか家族や親戚などの個人的な関係に対して、だけだろう。」

「『野菊の如き者なりき』という映画では、十五歳の少年と十七歳の少女との恋愛であるから、何の抵抗もなく周囲の人々に屈服されていったが、しかしあの少年少女の愛の運命を、現在の社会的な運命であると考えるものはほとんどないだろうと思う。
 娘の味方であった祖母の発言は、おそらくあの映画の作者のいいたいことでもあったと思うのだが、しかしその発言は、周囲の人々の娘の心に対する無理解を責めているだけなのである。
 言い換えれば、個人の想像力の貧困を責めているのであって、現在の社会全体を責めているのではないのだ。
 だから恋愛は、政治的経済的な条件から来る生活難以外に、社会全体から妨害を受けることはなくなったし、したがって、一つの恋愛それ自身が、社会全体に対する抗議となることもなくなっている。
 階級身分の区別の厳重なファッシズム時代においては、貴族の息子と小間使いの少女との恋愛は、ファッシズムに対する一つの抗議にもなったが、現在は、資本家の息子で女中との恋愛が、資本主義に対する抗議になると思っている者があるとすれば、愚の骨頂であるだろう。
 たかだか家族に対する抗議になるくらいなものなのだ。」

「去年の中頃、学生どうしで結婚した者があった。で、この原稿を書くために会いに出かけたのである。その結婚を事件としてとり上げたということを聞いたのだが、私は、その新聞を読んでいなかったので、その恋愛や結婚が社会的な事件にあたいするかどうか知らなかったのである。
 いったい、社会の何に対して抵抗した恋愛であり結婚なのだろうと思って、びくびくしながら二人に会った。
 だが、びくびくする必要はなかったのだ。何でもない恋愛であり結婚だっただけだ。ただ結婚して学業が続けられるかどうかが問題だっただけである。結婚すれば生活の問題がおおいかぶさってくるからだ。
 だが、私は、この学生さんの場合よりも、もっと厳しい選択に直面している人をあまりに多く知っている。たとえば若い劇団の人々の結婚にも、そのような例が実に多い。
 自分たちが結婚しても、演劇に精進できるかどうかという問題の前にためらい、そして勇気をもって結婚を選び、生活とたたかいながら演劇の道を進んでいるひとが多いのである。
 もちろんその夫君の方の学生さんは、この結婚が社会に対して何か大きな意味でもあるような態度を示されて、私をまごまごさせたが、問い詰めてもおっしゃらなかったところを見ると、社会の何かに対して抗議したというものではなかったのかも知れない気がする。それより妻君の、
『わたしたちをそっとしておいてもらいたい』
 という素直な言葉の方が心に響いた。
 要するに、恋愛自体が、社会全体に対する重大な抗議となり得た時代は過ぎ去ったというのが、私の判定である。そこで当然問題になってくるのは、愛し愛されるという当事者間の愛の問題であるだろう。」

 ── とりたてて、この「恋愛のユートピア」について、僕はさほど感銘を受けなかった。
 ただ、時代、を感じる。
 今や恋愛は、当事者である二人の問題である、としか考えられないが、このエッセイを椎名さんが書いた頃は、何やら厳粛そうな、「社会」というモンスターのようなものが、大手を振って歩いていた時代の名残りを感じる。
「金色夜叉」の貫一とお宮の関係(この一場面をマンガ「天才バカボン」で読んだことがある。お宮を、貫一が足げにする一コマだった)をなぜか想起した。

 ここで椎名さんがいいたかったことは、もはや恋愛が「社会」との繋がりから離れつつあること、だから映画でいかに悲恋をうたったところで、そこからはたいした感動も得られない、ということだったのではないかと想像する。
 今、僕は全く興味がないのだが、皇族だか皇室の、誰と誰がどうしたのこうしたの、という、ほんとにどうでもいいようなことが、いちいちニュースになっている。ほとんど芸能ネタで、昼下がりのワイドショーなんかでも多分放映されていると思う。あんなものを興味シンシンで見るような人の気持ちは、もしかしたら皇室というわけのわからない場所における「二人の愛の問題」に対する、異世界的なものへの好奇心、「周りが関与せざるを得ない恋愛」的なものへの、あまりに遠い隣りの芝生への好奇心なのではないかとも思ったりする。

「禁じられた遊び」のように、何か絶対的なものへの反発、反抗は、おおきな感動にひとを誘うだろう。だがその絶対的なものが、明確でなくなっている。「社会」が巨大な怪物で、それを動かしていたのが政治だとすれば、その政治に対して、ひとは何か運動を行なう。だが、その「敵」の姿は曖昧の影に隠れたままで、何に対して「反旗」を翻せばいいのか分からない。問題があり過ぎて、もやは諦念しか残されていないような気にもなる。
 恋愛は、その点、やはり決定的に個人個人の、それでいて絶対的に万人の抱える、どこからともなく湧き出る自然な心情で、これは映画や小説、芸術的な分野で欠くべからざる題材としてあり続けるだろう。
 だが、そこからどれだけの感動を、観るもの読むものが呼び起せるか。せいぜい不倫だとか、「禁じられた恋愛」物だった時期も過ぎた気がする。近年では、90年代あたりの渡辺淳一の「失楽園」とかが一つのピークだったのではないか。
 結局、もう、あとは勝手に好きなことを書く、ということしかできない仕儀に陥る。幸い、ネットで、だから速く流れ流されるが、あれこれ書ける環境だけは与えられている。
 こんな中で、泡沫のように、自分の恋愛観なりを小説なりエッセイなりで書記したものを、アンテナの立っているうちに発信する… そんなことをして悩んでいるうちに、老いぼれていく人生かな、と思う。(いやいや、悲観してはならない)
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