第2話 愛について(2)

文字数 2,552文字

「矛盾は、常に個人の限界を教えてくれる。ドストエフスキーは『永遠の夫』の中で、愛と憎の矛盾を統一したものが、人間の最高の情熱だといった。
 しかしこの作品の中で一番弱い箇所は、まさに愛と憎との統一を示そうとした箇所である。
 何故それが弱く感じられるのか。矛盾が人間の限界であることを忘れて、その限界を簡単に踏み超えてしまったからである。」

 椎名さんが文学に目覚めたのはドストエフスキーの「悪霊」によってだったから、ドストエフスキーに対する思いは強い。それはさておき、この「愛憎を統一したものが人間の最高の情熱」とは、さすがな言葉だと思う。でも、この相反する愛憎の統一は、愛憎を飛び越え、愛憎を俯瞰する場所へ自分が行って、初めて「統一」できるもののように思える。そこに行くには、情熱、言語に表わせない情熱、わけのわからない情熱が絶対的に必要で、そしてそれがドストエフスキーのいう人間の「最高の」、至上の情熱なのだろうと思う。

「いささかの憎悪のかげもとめない、愛にあふれた小説がどうして可能なのであるか。それは、作者が、作品の外に憎悪の消失点をもっているからである。
 だからそれを理解しない時、その小説は不思議な奇蹟のような光をおびるか、非現実なくだらないものに見える。
 ── 愛の行為は、僕たちを感動させる。しかし感動とは何か。体験的に分析すれば、二つの要素があることが確かめられる。一つは恐怖であり、一つは歓喜である。
 恐怖であるのは、その行為の中に絶えず破滅への危険が用意されているからであり、歓喜であるのは、その危険によって絶えず彼の自由が保証されているからである。
 ドストエフスキーの『罪と罰』の老婆殺しまでの長い文章を、感動をもって一気に読ませるのは、破滅への危険な暗示が、そしてそれを踏み超えて行われようとする彼の自由が、絶えず読者に訴えかけるからである。」

「破滅への危険を超える彼の自由が、何によって意味をになっているかということは、その行為の矛盾の質を区別する。
 その区別は、大体二つのものに要約される。その行為が、人々によってのみ意味をになっている時は感激的である。そしてその行為が、自分自身のみによって意味をになっている時は、言い換えれば客観的には無意味である時は、感動的である。
 だから、愛が、僕たちに感動を呼ぶということは、愛が本来的に無償であることを実証している。」

 感動と感激、ことばあそびのようで、あまり面白くない。が、あのラスコーリニコフが老婆を殺すに至る、あの緊迫した文章は僕も一気に読んだ。
 愛の行為について椎名さんは書いているはずなのに、ラスコーリニコフのあの行為の、どこに愛があるのだろうと思う。ここら辺りは、よく分からない。ラスコーリニコフの動機に、愛があったろうか。正義、は、あったように記憶する。それは「人類愛」に繋がっていたろうか。
 ともかく自分自身にとってのみ意味のある行為であったことには違いない。そして愛の本質は「無償」にあるということ。
 他の人々、すなわち客観的には意味がないこと=愛、で、いいのだろうか。
 それが感動を呼ぶのだろうか。
 ああそうか、「愛の行為の矛盾の質を区別する」と椎名さんは言っている。ラスコーリニコフのあの行為は、そうとうの矛盾を孕んでいたということか。
 生きている万人ならば、誰もが自覚さえすれば抱えているはずの矛盾。
 ラスコーリニコフは、彼の自由において、それを飛び超えた…?
 
「『悪霊』の中でスタヴローギンへ、キリーロフが自分の幸福について話す感動的な一節がある。もちろん、自分の幸福を語るということは、自己の愛について語るということであり、自己の自由について語るということでもある。
 そこでキリーロフは、幸福を直接に語ることができないので、木の葉のことを話す。
 風に吹き飛ばされて腐れかかった木の葉や、日にきらきら光っている葉脈の青々とした木の葉について話し、木の葉はいいものだと言うのである。
『それは何です? 比喩ででもあるんですか?』とスタヴローギンがたずねる。
 すると、キリーロフはこう答える。
『い… いや、なぜ? ぼく、比喩なんか。ぼくはただ木の葉… ほんの木の葉のことを言っただけです。木の葉はいいもんです。何もかも、いいのです』
 この、ただ、ほんの木の葉のことを言っただけという一言がなかったら、少なくともこの木の葉に対する一節は、感動を与えるどころか、滑稽なものとなることは事実である。
 というのは、愛や幸福や自由の根柢にある無償性に触れているからである。
 またこの一節は、僕たちに次のことを教える。── このような自己の内にしか根柢をもたない一切のものは、間接的にしか表現できないということである。

 愛や自由や幸福などは、理性の側から見られざるかぎり、それらは人間に内在する、不合理で滑稽な、理由のない力なのである。」

 と、ここで「文学界」昭和二十五年一月号に初出誌された「愛について」のエッセイは終わっている。
 文筆家としての立場から、「間接的に」愛について、およびその行為が人に与える感動について、あくまでも椎名さん自身の内から発信されたエッセイ。
 うん。この全体から感じたのは、
 ・目的・期待・信頼を自分自身に得た時に、日常的な「愛」が始まる。だがその愛は、それらが実現されたと同時に(実現されずに終わったとしても、それは一つの実現だとしていいだろう)、ほろんでしまう。
 ・だが、ほんとうの愛は、日常性を超えたところにある。どんなに

が失われたとしても、それをつくり得る愛のみが、ほんとうの愛である。
 ・だが、そこには矛盾が孕む。それを飛び越えていくのは、わけのわからない、滑稽な、不合理な力、情熱である。

 自己の内にしか根柢をもたない一切のものは、間接的にしか表現できないということ。
 これは、僕も何だかんだと書いている身、書く自分として根柢に置いておきたいことである。
 すると、何となく愛が、… 間接的にしか表現できないもの、つまり言葉に、何か愛のようなものを感得せざるをえない気になってくる。
 日常の行ないでも、きっと同じことなのだ。
 間接にしか、表現できないということ。
 僕の自由において。
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