第8話 愛について(二)

文字数 1,812文字

「このような恐怖は、愛し愛される者が、ともに時間的な存在であるということにかかっていよう。だから自分が死ぬ人間であるということを知っている者にとっては、誰かを愛したということは恐怖であり、相手が死ぬ人間であるということが恐怖であるだろう。
 そして一切は過ぎ去る。キルケゴールが、恋愛の最初の期間とことわらなければならなかったおかしさも、結局は、人間は死ななければならないところから来ているのだ。」

「もちろん、人間が時間的な存在であることから来る恐怖は、いろいろさまざまである。
 会うということが、死を意味するような危険な時にも、その時には新鮮さが感じられるだろう。日本の古い恋愛悲劇は、その恐怖の種類についてなかなか詳しい。しかしそのような恋愛が、どんな形であるにしろ、恐怖において愛し合うということが、人々の感動を呼ぶのである。
 だからその感動は、常に新鮮である。トーマス・マンが、愛の究極を死愛── 変な言葉だが、死と愛の合一である── と呼んでいるのもそれである。」

「たしかに(たわむ)れでない真剣な愛には、死が裏打ちされている。だから逆説的にいえば、人間にとって、死の恐怖が存在しないならば、愛も存在しないということができるであろう。
 僕たちが誰かを愛するのは、まさに僕たちが死ぬ人間であるからなのだ。愛の讃美者は、死の讃美者なのだ。」

「だが、僕は、愛を讃美できても、死を讃美することはできない。で、僕にとって可能なことは、誰も愛さないか、それとも愛を考えないで関係をもつかである。
 後者の方は、文明の発達につれて、愛を考えずに人間に関係し得る方法が発達しているので便利である。
 人間の共同の目的、少なくとも二人の共同の目的をもてば、愛を考えずに愛の関係をもち得るし、目的の代わりに制度や物や習慣などを置いても、愛せずして愛の関係をもち得るのである。
 それらの関係は、人も愛と呼んでくれるし、自分もそのような気がするから、なおさら都合が良い。
 しかしその愛に、あの『何やら新しい喜び』というものは、感じられないのが、多少不都合であるにしても、そんなものは人間のセンチメンタリズムだと唾棄しても差し支えないものだ。
 しかしもし、それでも、自分に『何やら新しい喜び』に満ちた愛を欲するならば、僕は不幸である。僕は、どうしても死の讃美者にならなければならないからだ。
 僕はそれを避けようとして、人間に死のあることに悩み、あの

という段階に苦しまされるのである。」

 愛の讃美者は死の讃美者である── これは、そうだろうと僕も思う。死なくして、人間はほんとうに愛せやしない。ところが、どうしてか人間は生ばかりを讃美する。
 思い出すのが老荘思想の荘子だ。死の哲学者と呼ばれ、死をヨシとし、死を讃美(といって、自殺をすすめていたわけではもちろんない。自然にしたがって生きるのを至上のようにした荘子にとって、自殺など不自然きわまりないことだ)するかの如きことを言い、周りから総スカンを食ったかもしれない思想家だ。
 荘子のあの思想は、愛にも、たしかに通じていることを僕は実感する。
 また、「誰かを愛していくことは死んでいくことでしょう」と唄った日本の吟遊詩人のことも思い出す。そのミュージシャンも子どもの頃から大好きで、僕という一個の運命がとうの昔に決まっていたことも実感する。
 自己確認作業ばかりしてきたのだから、もういいかげん腹をくくれよと思う。で、結構くくれている、くくれようとしている。
 この写経作業など、くくったから出来ている気がするし、この作業は楽しい。ひとりで、椎名さん、すごいな、と笑けてきたりする。ただ読んでいるだけより、一層入って来る。

 トーマス・マンの「死愛」。何か絶望的な言葉のように見えるが、おそらくホントウだろうと思う。どこかで抵抗を感じるのは、まだ僕が死に対して差別意識をもっているからだろう。
 哲学の社会的実践もおもう。たぶん生死の差別意識をなくすこと、さすれば、この世界、そんな、差別もなくなるんじゃないか。
 何しろ、生と死、この二つが一つで生命であるのだし、これを根本にして人間は生きているはずだから。この根本への見方、意識が、あらゆるいろんな方向へ、差別を生み出す根本にもなっているだろうと思えるから。
 そう思う僕は、そう思う前に、「差別(意識)は人の不幸をうむ」という先入観にとらわれているのだが。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み