第35話 愛の限界を生きるということ

文字数 4,488文字

 私は、前の項で、ほんとうの愛を保証するものは、この世にないといった。
 言いかえれば、ある恋愛をほんとうのものであるとするほんとうの保証は、この世にないのである。
 何故ならこの時にいわれるほんとうとは、絶対を意味するからだ。
 そこで恋愛のほんとうらしさの保証をこの世の外へ求めようとする、あわれにも悲しいくわだてが起る。愛は死よりも強しとか、この世の中を逃れたところで結ばれようなんていう考えが、それを助長する。
 カケオチというあのロマンチックな行動は、そのかくれた衝動をつきつめて見れば、東京から長崎へ行くような明確な目的をもっていない場合が多いのである。
 カケオチの当人たちにとっては真実な「どこか遠くへ」行きたかったのであり、「ふたりきりで住めるところへ」行きたかっただけなのである。
 そこでは現に自分たちの住んでいるこの社会なり世界なりが拒否されている彼らにとって、この社会なり世界では、「ホントウ」に愛しあえないと思うからである。

 だから私たちの知人の誰かが、誰かとカケオチしたとなると、一応は心中を心配するが、しかしそれは思い過ごしではない。カケオチは、たしかにここから離れてどこかへ行こうとしているのであるからであり、だから「ホントウの遠くへ」行ってしまう可能性をもっているからである。
 で、時々彼らは「ホントウの遠くへ」行ってしまう。どんなに遠くへ行けたのか。エチオピアではなく、この日本の東京からそうは離れていない心中の名所、熱海の錦ヶ浦の岩の上だったりするのだ。

「死んであの世で」なんて愚の骨頂である。あの世でならホントウに愛し合えるなんていう考えが、いまどきの若い青年男女諸君にどうしてひそんでいるのか、ふしぎなくらいだ。
 というのは、今朝、若い男女の投身自殺の新聞記事を読んだばかりであるからだ。
 その遺書には、勇ましくも「あの世で」と書いてあったのである。どうもおふたりは、あの世をよく御存知だったのらしい。
 しかもある女子大生の心中に関する調査では、「どうにか生き抜くことができなかったものか」という怒りをふくんだ嘆きとともに、その純粋さをたたえる回答のあったのに驚かされた。
 女子大生というのは、明治時代のそれではない。現代の女子大生なのである。彼女らに死を超えた愛が純粋と見えるらしいのだが、おそらく死を超えた愛を見たことがないからであろう。

 私は、それを幾度も見たから確言できるが、それはみにくい死体であったのだ。
 愛は、それがどんな愛であろうと死で終わる。これが愛の厳粛さなのだ。
 愛のために、死ぬことはできる。しかし死んだ時、愛は失われてしまっているのだ。
 死体が誰かを愛したということを、私はまだ一度も聞いたことがないし、もし死体が誰かを愛することができたとすれば、石ころはもちろん口の欠けた空瓶(あきびん)も誰かを愛することができるにちがいないではないか。

 死を超え、この世界を超えた、だから絶対を意味するような「ホントウの恋愛」なんかこの世の中にはもちろん、あの世にもない。これがこの一年にわたるこの私の恋愛遍歴の結論である。そして私は、むしろこの結論を喜びたいのだ。
 だからあの古来の、私たちを悩ましてきた難問に対しても、私は拒否せずにはおられないのだ。「愛か死か」とか、「恋愛か社会か」というような二者択一のかたちで迫ってくる問題だ。
 たとえ卑怯であるとか不純であるとか、臆病であるとかだらしがないとか言われるような仕方であっても構わない。
 私は、その恋愛が死を意味する場合においても、なお死なないで生きのびる方法を考えずにはおられないのだ。
 また恋愛がその社会と矛盾して生きられるならば、その社会を変えることを考える方が、より好ましい。
 この点において、私はラッセルの考え方に賛成である。彼は、その「結婚と道徳」の中でこういっている。

「およそ社会が恋愛に対してとる一般的態度は、面白いことに二重になっている。一方では、それは詩や小説や劇の主な題目であり、他方では、まじめな社会学者からはたいてい完全に無視されており、また経済計画もしくは政治改革に無くてはならぬものの一つとは考えられていない。
 私はこの態度が正しいとは考えない。私は恋愛を人生で最も重要なものの一つとして見ている。そうして、この自由な発展を不必要に妨げる制度は、すべて悪であると考える。」(江上照彦訳)

 だが、恋愛を妨げるからといって、恋愛を放っておいて、社会の変革をまず考えるというのではない。その恋愛が、社会の変革への実践とともに生きる道を考えるのだ。
 そしてそれがどんなにみにくい道であろうとも、その矛盾の中に生きる道があるのである。
 ほんとうの愛への思いに狂ったりしない限りにおいてだ。
 要は、純粋だとか、ホントウに美しくとか考えたりしないならば、その道は必ずあるのである。さらに言うならば、死とか社会とかいう愛の限界を悲しみながらも、一方において喜ぶことができるように生きることなのである。

 最後に、現代においては、恋愛なんて全く考えられないという女のひとびとが多くあるということを付け加えずには、一つの恋愛論にとって不備となるだろう。
 その人々は、最初から恋愛なんかしたことはなかったか、或いは恋愛をしたが、何らかの理由でそれへの関心を失ってしまったかに類別されるだろう。
 後者のさまざまなあり方については、この文章の折り折りにふれて来た。たとえば、一つの恋愛にひどい裏切られようをしたひとは、もう二度と恋愛なんかしたくないと思うだろう。
 愛しさえしなければ、裏切られることはない、という言葉は、そんな女のひとからよく聞く言葉であるが、まことにそうであるというほかはない。

 ただ、やりきれないことは、その言葉の裏に、裏切られない愛への痛切な願いが、往々感じられることだ。
 だからそのようなひとは、もう誰も愛さないといった舌の根が乾かないうちに、裏切られると分かっていながら、また誰かを愛したりしているのである。
 だが、一方、愛することを諦めてしまうか、もう誰も愛さないとはっきり割り切ってしまった人々がある。愛を諦めてしまったひとは、あまり沢山いるので、例をあげるまでもないぐらいだ。
 恋愛でなく夫婦愛の領域に入ると、みごとなぐらいである。それらの人々は、日常生活のままに、肉体のままに、そして相手の要求するままに、動物のように暮らしているのである。

 ここに誰も愛さないということを、この人生の何かに対する抗議のように考えている若い女性の一群に出会う。彼女たちにとっては、愛でなくセックスを、男に対する唯一の関係としてしまうのである。
 ただ彼女たちは、セックスにおいて十分であるためには、愛がどんなに必要であるかということを知らないだけの話なのだ。たとえ肉体関係をもっている時間のあいだだけでも、それをこの世におけるただ一回きりの行為にまで高める時にあらわれて来るものを知らないだけなのである。
 全く、恋愛を捨て去ってしまう理由は、この世にありすぎるほどだ。そのことを私は、非難しようとは思わない。しかし恋愛を捨て去る時に、必ずそのひとは、恋愛以外の何かをホントウのものとしているのだということは確言できる。
 このことについて詳説する余裕はなくなってしまったが、そのひとたちはそのような自分を反省してごらんになれば、何かをホントウのものとしているということはすぐ分かることなのだ。

 しかし恋愛をしたこともないし、そんなことを考えたこともない人々がいる。銀座の建設事務所につとめているA子さんなどはそのひとりであろう。
 彼女は、建築のデザイナーであるが、その仕事が彼女の生活の全部を要求するのだ。明けても暮れても、仕事が彼女を追いまわし、彼女は彼女で仕事を追いまわしている。そして彼女は、何か考えるひまがあった時は、六十三万円の予算で出来るもっとも住み心地のいい家を考えているのである。

 A子さんの周囲に男がいないわけではない。むしろ男ばかりなのだ。事務所においても、彼女の時々監督に出かける建築現場においてもである。彼女は、ときに息をつくために事務所の男のひとと喫茶店へ出かける。その喫茶店には煽情的なジャズが鳴り、あちらこちらの椅子に若い男女の濃厚すぎるシーンも見られる。彼女は、そのなかで相手の男へ勢い込んで言う。
「そりゃ、今度のあの建築、使用目的から考えて、あの間取りで合理的だというけれど、合理的ということは同時に美しいということよ。だから基礎建築費の七万八千円は仕方がないとしても……」

 彼女にとっては、仕事が恋人なのである。傍から、年をとってふと淋しくなる時はないだろうかとか、幸福そうなアベックを見て、自分も恋人のほしくなる時はないだろうかというような、よけいな詮議は不用なのである。
 人生は、あらゆる生き方を許しているのだ。だから恋愛も、たしかにラッセルのいうように人生のもっとも重要なものの一つであるにはちがいないが、しかし人生のすべてではないのだ。
 そして恋愛を人生のすべてであるとするあらゆるくわだては、拒否すべきなのである。何故なら、人生のすべてのものとした時、恋愛をこの人生の絶対的なホントウのものとした時であるからである。
 そして私は、そのようなホントウのものは、狂人の寝言として拒否する者なのである。

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「現代の恋愛論」はここで終わります。
 こうして「写経」をしてきて、客観的に見た時、何かムダな作業、時代おくれな作業をしているな、と感じていました。(文体も読みづらいし、現代に合わないと思って。)
 でも、それはあくまで「多くの人から見て」と自分の中の客観的なところで、自分そのものとしては、椎名さんの考え方が確認できて嬉しかった。
 もう、kindleでも青空文庫でも、椎名麟三の文が読めない。自然淘汰されるには、あまりに惜しい作家と僕には思えて、ここにあげました。
 この箇所は、こう解釈できるとか、今の現代(2022年)から照らしてみればとか、写経しながら様々な思いが浮かび、それを書きたいとも考えたけれど、椎名さんの文がネットで触れられる場を設けられた、これだけでよかったと思っています。

 といって、まだ終わりではなく、最後の章「人間はホントウにだれかを愛することができるか」が残っています。これは日本基督教團上原教會が発行していた機関誌「指」の、昭和三十三年の五月号~八月号に書かれたもの。
 キリスト教というと、このノベルデイズのトップページの右横下あたりに、聖書に関するコンテストや賞の公募バナーがある。教会とノベルデイズ、何か関係があるのかしらん。
 それはそれとして、とにかくこのサイトはありがたいです。たぶん他のサイトだったら、椎名麟三の写経など、しなかった…
 読んで下さる方がいらっしゃることがありがたいし、たとえこの文章が読まれないにしても、このサイトがあるということに感謝させて下さい。
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