Ⅱ.身勝手な贈り物ー③

文字数 4,465文字

 琉斗の病室の前に立ち、鍋島は一つ大きな深呼吸をした。すると、意外にも静かな廊下にその息づかいが染み渡った。鍋島は思わず周囲を見回したが、そこには誰もいなかった。
 琉斗の母親は朝一番に来て彼の検査に付き添ったあと、用があると言って急いで帰って行ったという。どうにも慌ただしい母親だと首を傾げた看護師の怪訝そうな様子を見ながら、きっと警察に留置されている夫に着替えなどの差し入れをするためだろうと鍋島は思った。

 鍋島は手に提げた細長い紙袋を見下ろし、またしてもふうっと大きく息を吐いた。それから意を決したように顔を上げてじっとドアを見つめると、ゆっくりとドアをノックした。
「はい」
 琉斗のか細い声が返ってきた。鍋島はドアノブに手を掛け、扉を開けた。
 ベッドに横たわっていた琉斗がこちらに顔を向けた。
「……あ」
「よう」
 鍋島は軽く頷き、人懐っこい笑顔を浮かべた。「ええか?」
「あ、うん」
 琉斗は起き上がろうとした。鍋島はそのまま、と言いながらベッドのそばにやってきた。
「どうや」
「昨日よりだいぶ良くなった」
「顔色も悪くはないな」
「熱が下がったから」
「そうか」
 鍋島は安堵の表情を浮かべ、壁際の椅子を引き寄せて腰を下ろすと、あらためて琉斗の姿を眺めて言った。
「余計なことやってくれるで。苦しい思いして、親に心配かけただけやないか」
「芹沢さんもそう言うてた。しょせんは痛いだけで、何の意味も無いって」
「まったくや」
「芹沢さんは?」
「別件で出張。今日は別行動や」
「忙しいんやな」
「まあな。警察が忙しいのは良うないんやけど」
 鍋島は右手でするりと顔を拭い、腕を組んだ。
「商売繁盛って言うたらあかんのやな」
「そうや。正月もまともにあらへん」
「大変やな」
「おまえらみたいな

がおるからな」
 そう言ってにやりと笑った鍋島に琉斗も悪かったな、と笑い、それからゆっくりと天井を見上げた。
「……茜はどうなった?」
 琉斗に訊かれ、鍋島は腕組みしたまま上目遣いで彼を見た。「どうって?」
「逮捕されたんか?」
「警察官にはな。守秘義務ってのがあるんや」
「シュヒギム? なんやそれ」と琉斗は振り向いた。
 鍋島は目を見開いた。「……嘘やん。今どき守秘義務ぐらい、小学生でも知ってるで」
「知らんもんはしゃあないやんか」
「呆れるわ」と鍋島は首を振った。「まぁええか。一応関係者やし。守秘義務が分からんやつ相手に、漏洩もクソもないやろ」
 そう言うと鍋島は急に真顔になって琉斗を見た。「深見茜は昨夜逮捕された。現時点での容疑は、父親の深見哲に対する殺人未遂や」
 琉斗は大きな溜め息をついた。「……最悪やな」
「ああ。せやけど彼女は受け入れてるで」
「受け入れる?」
 琉斗は眉根を寄せて振り返った。嫌悪感のこもった眼差しだった。しかし鍋島は意に介さずに続けた。
「自分のやったこと、親や学校のせいにするつもりはないって。犯した罪から目を背けへんて」
「そんなん──」
「強がりやと思うか?」
「……そう見える」
「あの子はちゃんと自分のことが分かってたんや。ええ加減な毎日を送ってるって分かってて、いつまでもそれを続けるつもりはなかったのに、それでもなかなか抜け出そうとせえへんかったのは、ただ甘えてただけやって」
「甘えてた?」
「ああ。決して幸せやない境遇に、自分を甘やかしてたんやってな。抵抗せず、絶望もせず、ただ流されて、切り開こうとせえへんかったんやて。ふてくされてたとも言うてたよ」
「……相変わらず、お利口さんやな」琉斗は小さく笑った。「俺には真似できひん」
「利口ってだけやないやろ」
「えっ?」
「考えてみろ。まだ中学生やで。いくら頭が良くても、そんな、何もかも自分一人で状況を打開していけるはずがない。どんなに頑張ったって大人とは違うんや。幼さゆえの限界がある。けどその限界に立ち向かえるだけの味方が、彼女にいたか? そばにいて見守ってくれることで勇気を出せて、時には代わりに闘ってくれる、そんな頼もしい大人が彼女の周りにただの一人でもいたか?」
 鍋島は少し腹立たしげに言った。「頼っていける大人なんていてなかったんやろ。だから何もできずに状況に甘んじてたんや。利口で物分かりがええからだけと違う」
「……そうなんかな」
「味方と言うたらおまえだけやったんと違うんか。ところがおまえは頼りのうて世話が焼けて、おまけに同じように毎日に絶望してて。けど、だからこそお互いに気持ちが分かったんやろ。分かり合いながら、彼女は心底おまえに癒されてたんや」
 琉斗は何も言わなかった。堪え切れそうにない思いを、それでも必死で抑えているのが分かった。
「なのに、自分のやったことでそんなおまえを追い込んで、おまけにこの先離れてしまうから、彼女は今度こそ決意したんと違うか。犯した罪から逃げず、自分の境遇からも逃げずに、自分一人で背負って、全部やり直しながら人生を切り開いていくことを」
「……やっぱり、お利口さんやんか」
 琉斗は涙声で言った。
「そうや。せやからおまえもそろそろ頭使え」
「ムリや。オレはアホやから」
「そうやって逃げるな。しょうもない」 
「逃げたくなるような人生送ってないから言えるんや。刑事さんは」
 琉斗は厳しい眼差しを鍋島に向けた。
「……なるほど」
 鍋島は静かに言うと口の端だけで笑った。「ほなこれから先、嫌なこととか苦しいことがあったとき、おまえは自分の境遇をいちいち周りに説明して回るんか? ボクはダメ人間なんで、それというのも逃げ出したくなるような人生送ってきたから、だからすいません、ボクにはちゃんとなんて出来ませんって、そう言うて逃れていくつもりか?」
 琉斗は不満げに唇を噛んだ。
「他人はな。知ったこっちゃないんや。誰がどんな人生送ってようと、どれだけ辛い目にあってようと、そんなことは関係ない。相手が自分にとって有益な人間かどうか、目の前の現実だけで判断する。それがすべてなんや。せやからそれを受け入れるしかない」
 琉斗の脳裏に、昨日芹沢に言われた言葉が浮かんできた。

 ──現実を受け止めろ。それしかねえ。

「現におまえは、俺のことを逃げたくなるような人生送ってないって言うたよな。それは俺がいちいち自分の過去を説明してないから、おまえが勝手に想像したに過ぎひん」
「……ごめん。違ったんか」琉斗は小さく頭を下げた。
 鍋島は首を振った。「違うとも言うてない。言う必要がないからや」
 琉斗は小さく頷いた。
「深見茜には、更生してやり直すときに(つまづ)いても、弁解の機会は与えられへんのやで。それどころか、過去を隠していくことの方が多いやろ。自分からさらけ出すなんて、世間には受け入れられへんからな」鍋島は淡々と言った。「犯した罪から逃げへんって言うのは、こういうことへの覚悟や」
 鍋島は天井を見つめたままの琉斗を見つめ、続けた。
「せやからおまえがこれから先もずっと彼女に寄り添いたいのやったら、それを支えられるだけの男になれ。なられへんのやったら、中途半端に関わるな」
「……厳しいな」
「彼女を苦しめへんためには、おまえにも覚悟が要るって話や」
「分かったよ」
 琉斗は頼りない笑顔で言って、小さく溜め息をついた。
「重傷患者相手に、ちょっと喋りすぎたかな。悪かった」
 鍋島は言って片目を閉じ、頭を掻いた。
「今さら」琉斗はふんと笑った。「……ありがとう」
「あと──今日はこれを届けに来たんや」
 鍋島は言うと、足下の持参品の紙袋をベッド脇のテーブルに置いた。
「それは?」と琉斗が訊いた。
「開けてみろ」
「刑事さんがやってよ。オレ、手が言うこときかへん」
 琉斗は言って、点滴の管の繋がった右手を見せた。
「……世話が焼けるな、やっぱり」
 鍋島は紙袋を自分の手元に戻し、中から赤いリボンの掛かった細長い包みを取り出した。琉斗に見せると、開けるで、と言ってリボンを解き始めた。
「クリスマスプレゼントかな」
 そう言うと琉斗はすぐに目を伏せて笑った。「誰もオレなんかにくれへんか」
 高価そうな箱の蓋を開けた鍋島は、中を見て一瞬、手を止めた。そして両手でゆっくりと箱を回転させ、それを琉斗にも見せた。

 入っていたのは、一本の赤ワインだった。

「ワ──」
 琉斗は絶句した。
 鍋島は箱からワインを取り出して、琉斗の顔のそばに置いた。
「……分かるな。誰からのもんか」
 琉斗は黙って頷いた。
「ここへ来るとき、ちょうど刑事課にご両親が訪ねてきはったんや。娘さんの遺品を整理してたら、友達や同僚、身内に宛てた手紙や贈り物がまとめて出てきたらしい。それを一人一人に会って渡して回ったけど、どうしても一つだけ、どこの誰か分からん人物に宛てた品物があった。他の誰に訊いても知らんと言うから、警察でなら分かるかもと思って持ってきはったんや」
「何でワインなんか──」
「俺もワインのことはよう知らん」
 鍋島は言うと紙袋から『西条琉斗様』と書かれた封筒を出して琉斗に差し出した。「これも」
「……鍋島さん、読んでよ」
「あかん。おまえに宛てた手紙や」
「でも手が──」
「逃げるなって言うたやろ。開封してやるから」
 そう言って鍋島は封筒を開け、中から一枚の便箋を取り出して琉斗の顔の前で広げた。

 短い手紙だったらしく、すぐに琉斗は泣き出しそうになって顔を歪めた。ゆっくりと目を閉じ、顔をそらすと左手でその手紙を掴んだ。同時に鍋島が手を離したので、手紙は琉斗の手の中で頼りなさそうにふわりと揺れ、シーツの上に落ちた。

 手紙に書かれた文章は短かった。文章と言うより、言葉だった。


 ───琉斗くん 優しいあなたには精一杯生きてほしい 
    人生はそう悪いものじゃないから
    素敵な大人になった琉斗くんが
    愛する人と一緒にこのワインを飲んでくれるのを
    空の上からずっと見守っています
                    佐津紀───


「……大人は勝手やな」
 琉斗がぽつりと言った。「自分は人生()てといて、そう悪くはないなんて言う。自分らが不甲斐ないくせに、子供に期待しすぎる」
 鍋島は黙って手紙を見つめていた。琉斗の言葉が胸に刺さった。そういう矛盾を抱えているのを分かっていながら、俺たちはきっと、それでも彼らに逞しく生きることを望むのだろう。
 望んでも生きられなかった命を、今まであまりにもたくさん見送ってきたから。
「……そんなに強くなられへん」
 鍋島の心を見透かしたかのような、琉斗のひと言だった。

 しばらくして、狭い病室に琉斗の泣き声が響いた。



 ※「しょうもないことしぃ」……つまらないことをする人間。


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