Ⅴ.究極の成り行きー③

文字数 4,815文字

 ビルの前まで来た芹沢は、すぐには事務所の入口には向かわず、北隣の建物との間に伸びる通路を入った。
 幅一・五メートルほどのその通路の奥は、ビルの裏側に続いていて、裏はゴミ置き場と車一台分ほどの臨時駐車スペースとなっていた。ゴミ置き場のそばには鉄製の非常階段があった。芹沢は非常階段を数段登り、一階の事務所の上階部分に当たる、二階の窓を見上げた。同じ階の他の部屋とは明らかに違って、小さな明かり取り程度の窓が一つあるだけだ。おそらく一階の部屋と繋がっていて、倉庫的な用途の部屋になっていると思われた。
 芹沢はゆっくりと階段を下り、ゴミ置き場と駐車スペースの足元を調べた。どこかに血痕でも落ちていないだろうかと思ったのだ。あいにく見つからなかった。
「――ここにいたんですか」
 少し遅れてきた二宮が小走りで近付きながら言った。
「遅かったな」
「どこのコインパーキングもいっぱいで、空きを探すのに手間取ってました」
「律儀だねぇ。路駐しといたって大丈夫なんじゃねえの」
「そんな保証はどこにもありませんよ。今からややこしいことをしに行くのに、事前予測可能なトラブルは避けるに越したことはありません」
「そりゃそうだけど」
「で、何やってたんですか」
「偵察だよ。見ろ、あの事務所、どうやら二階と繋がってるぜ」
「ほんとだ。あの一角だけそういう構造になってるんですね」二宮は建物を見上げて言った。「あんな小さな窓しかないところを見ると、物置きかなにかでしょうか」
「っぽいな」
 二宮は芹沢に振り返った。「あそこに監禁されてるかもしれないですよ。どうします?」
「どうもこうも、あんな小せえ窓なんだから無理に入れっこねえだろ」芹沢は首を傾げた。「予定通り正面突破だな」
「……やっぱそうですか」二宮はため息をついた。
「嫌か?」
「嫌に決まってるでしょ」
「さっきは意気揚々と『お供します』なんて言ってたじゃねえか」
「だからお供してるじゃないですか。でも、いざとなったらやっぱり怖気づきますよ」
「だよな」芹沢は苦笑した。「んじゃ、怖気づきすぎて逃げ出しちまわねえうちに、その嫌なことをやりに行こうか」
 そう言って表に回る通路に向かった芹沢の後を二宮は重い足取りで追いながら、
「あ~ぁ」と何度もこぼし、溜め息をついた。

 表通りに戻った二人は事務所の玄関に立った。一瞬だけ視線を交わし、芹沢が重そうなガラスのドアを押して開け、中に入るなり言った。
「あのーちょっとすいません」
 そこにいたのは二人の男だった。一人は黒のスーツ姿で四十代半ばすぎくらい、部屋の中央を陣取る二人がけの黒いソファに座り、雑誌を読んでいた。もう一人は派手な柄のシャツに革ジャンを着た二十歳そこそこの痩せた男で、ソファの後ろのパイプ椅子に腰掛けてスマートフォンを手にしていた。
「え、なに」
 スーツの男は驚いて言うと雑誌を脇に置き、腰を上げた。「どなた?」
「ちょっと、尋ねたいことがあって」芹沢は言った。「人を探してるんです」
「いやだから、おたくら誰よ?」若い男が言った。
「中大路って人を探してるんです。このビルで見かけたって聞いたもので」
 スーツの男の顔色が明らかに変わった。「……どこの人間やて、訊いてるんやけど」
「言わないほうがいいと思うけど」芹沢は軽い口調で答えた。「お互い面倒くさいことになるから」
「人にものを訊ねるのに、名乗らへんとは失礼やと思うけどね」
 男は静かに言った。警戒心ありありで、しかしながらつとめて常識的に振る舞おうとしているらしかった。
「……しょうがねえなあ」
 芹沢がため息混じりで言ったのを聞いて、二宮も短くため息をついた。あぁ、本当に面倒なことになる――
「――


 芹沢の言葉に二宮は目を剥いて彼に振り返った。芹沢は平然とその視線を受け止めると、親指で二宮を指して言った。「ウチのお偉いさん」
「ちょ、せり――」
 言いかけて思いとどまり、男達に向き直った瞬間、皮ジャンの男が奥へと続くドアへと突進して行くのが見えた。
「分かりやすっ――」
 二宮は独り言を言うと、芹沢より一足早くそのあとを追った。芹沢はどうやらスーツの男と揉み合っているようだった。
 皮ジャンの男はドアを開けるとすぐ左側にある階段を上がっていった。さっき建物の裏側から見た、小さな小窓の部屋に繋がっているのだろう。そこに中大路がいて、男は彼を連れ出そうとしているのだと二宮は思った。
 二宮が階段の下まで来たとき、皮ジャンの男は階段の中腹あたりにいて、こちらに振り返った。その目が怯えていて、二宮はこれならいける、と思った。少し心に余裕ができて、そのせいかさっき芹沢が自分のことを『上賀茂署地域課の平林』と名乗ったのを思い出し、とことん食えない男だと思うと笑えてきた。
 階段を上り、前に向き直って逃げようとする男のベルトに手をかけようとしたときだった。
 男が瞬時に振り返ったかと思うと、二宮の目の前にその拳が突き出ていた。
(あっ――)
 声を出すよりも早く、二宮は鼻っ柱をえぐり取られるような一撃を喰らっていた。ほぼ同時に顔全体に熱い痛みが伝達し、意識が遠のいた。何とか踏ん張ろうとしたものの階段から足を踏み外すのがわかった。視界が歪む中、吹き出した鼻血の向こう側で男が微かに笑っているのが見えた。
 二宮は背中から階下に落ちた。後頭部を思い切り強打し、それで完全に意識を失った。

 芹沢が二宮のもとにかけつけたときには、彼をぶちのめした皮ジャンの男は姿を消していた。
 二階には上がらずに階段を下り、気絶している二宮を飛び越えて、どうやら裏口から逃げたようだった。奥へと続く廊下の突き当たりにドアがあり、そこが開け放たれていた。
 芹沢は二宮のそばに跪くと、彼の頬を軽く叩いて声をかけた。
「おい、大丈夫か」
 二宮は返事をしなかった。どうやら脳しんとうを起こしていると思われた。鼻血の他は出血などの外傷は見られなかったから、ここは動かさない方がいい。
 芹沢は廊下を進んで裏口から外を覗いた。さっき下見していたゴミ置き場と駐車スペースには、当然のことだが人の姿はなかった。やはり皮ジャンの男は逃げたらしい。
 芹沢は戻ってきて、再び二宮の脇にしゃがみこむと小さくため息をついた。
 するとそのとき――
「救急車、呼んだ方がいいんじゃないですか」
 と、階段の上から声がした。
 芹沢は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
 一人の男が屈むような姿勢で階段を数段下り、こちらを窺っていた。
 黒の丸首セーターにベージュのコーデュロイパンツを履き、裸足で、右手に汚れたタオルを持っていた。心細そうな目をしていたが、携えている気配には気品があり、まだ若いのに風格すら感じられた。
 やれやれやっと見つけた、と芹沢は思った。そして言った。
「中大路さん」
 男は答えなかった。「あなたは――」
「鍋島の知り合いだよ」
 男は芹沢を見つめたままだった。
「まあ、そうなるわな」芹沢は苦笑した。
「ここにいた連中は、どうなったんですか」
「逃げた。一人は裏口から、もう一人は表から」芹沢は言うと表の部屋に振り返った。「表のヤツは、ずいぶんと威勢良く飛び出したから、車にぶつかっちまったみてえだな。通りを横切ろうとしたのかも」
 男は目を丸くした。「ど、どうするんですか」
「誰かが救急車呼んでるだろ。放っときゃいいさ」
 芹沢は明るい表情で言った。「そのあいだに出ようぜ――って言っても、まだ俺を信用してねえよな」
「知り合いって、同級生の方ですか。銀行員の」
「違う。やつの同僚だよ」
「同僚……」
「分かんなかったらいいけど」
「――あ、いえ、分かります。前に聞いたことがあります」
 ようやく男は頷いた。そしていくぶん安堵したのか、少し表情を緩めて階段を下りてきた。
「すいません。中大路寛隆です」
「大阪府警の芹沢。バッジ持ってきてねえけど」
「鍋島さんの同僚のあなたが、どうしてここに?」
「決まってるだろ。あんたを連れ戻しに来たんだよ」
「連れ戻しに?」
「明後日結婚式なんだろ?」
「え、ええ、まあ」
「……歯切れ悪ィな。ひょっとして結婚すんのが嫌で逃げ出したとかか?」
 芹沢は目を細め、意味ありげに口角を上げた。「だったら俺はこのまま黙って退散するぜ。その前に一発ぶん殴らせてもらうけど」
「いえ、違います」中大路は慌てた様子で首を振った。「同僚の刑事さんが、個人的なことで来られたのがちょっと不思議で」
「おっしゃるとおりだよまったく」と芹沢は顔をしかめた。「こう見えても、公務だとそこそこの給料で働いてんだぜ」
「それやったらなおさら――」
「成り行きさ」
「成り行き?」
「そ。俺の二十八年の人生の中で究極の成り行き」そう言うと芹沢は二宮を見下ろした。「こいつもそうだ」
「そちらの方は?」
「今日の俺の相方」
「大丈夫なんですか。この方も救急車呼ばないと――」
「脳しんとう起こしてるみたいだから、むやみに動かさないほうがいい」
 そう言うと芹沢は中大路が手にしている汚れたタオルを見た。「あんたは大丈夫なのか。それ、血だろ」
「あ――ちょっと転んで、鼻血が出て」
「高島の料亭跡で?」
「行ったんですか」中大路は驚いて言った。
「行きたくなかったけどな。めんどくせえ」
「あそこがよく分かりましたね」
「警察なめんなよ?」芹沢は中大路を一瞥した。「っつっても、俺たちだけの力じゃねえけど」
「……ご迷惑おかけしました」中大路は頭を垂れた。
「とにかくお嬢さんとこ帰ろう。心配してるから」
「やっぱり心配してましたか」
「当たり前だろ。生きた心地してねえよ」
 そう言うと芹沢は中大路を睨みつけた。「……ったく、真面目な顔してタチ悪ィんだな。さすがの俺だって、結婚するって腹括ったら一切ジタバタしねえけど」
「――そんなの嘘だ」
「え」と芹沢は振り返った。中大路もきょろきょろと目線を動かした。
「……あなたがそんなに潔いわけないじゃないですか」
 気を失っていたはずの二宮が、ゆっくりと起き上がりながら言った。「――い、痛ててて」
「なんだよ気がついてたのか」芹沢はため息をついた。「派手にやられたんだな」
「甘く見てました」二宮は顔をしかめて言い、それから中大路を見て軽く会釈した。「初めまして。神奈川県警の二宮です」
「神奈川――?」
「気にしないでください。究極の成り行きですから」
 芹沢はチッ、と舌打ちした。「……どっから聞いてたんだ」
「……浅はかでした。何もかも」中大路が項垂れて言った。「そもそも僕があのとき――」
「ちょいちょいちょい」
「いやいやいや」
 芹沢と二宮が同時に言った。中大路はえっ、と顔を上げた。
「今ここで真相の独白、ってのやめてくれる?」
「え、あの」
「俺ら早く帰りてえのよ」芹沢は眉を下げてふんと笑った。「あんた探すのにヘトヘトでさ」
「……すいません」
「いや、いいんだけどね。あんたもいろいろ大変だったろうから。ただ悪いけど、そこにあんまし興味もねえし」
「……そうですよね」中大路は頷いた。
「この彼なんか、今日中に横浜に戻らなきゃならねえのよ。明日は仕事だし」
「本当に申し訳――」
「……それが、そうも行かなくなってきましたよ」と二宮が言った。
「えっ?」
 芹沢が振り返ると、二宮の顔にはいつの間にか汗が吹き出ていた。
「どうしたんだよ」
「……よく分からないけど、肩か腕の骨、やっちゃったみたいです――」
 二宮は苦しそうに言うと顔を歪めた。「う、動けないかも」
「……マジかぃ」
 芹沢は深くため息をついた。
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