Ⅶ.一人ぼっちの二人ー②

文字数 4,446文字

 琉斗を玄関に迎え入れるなり、彼女は彼に抱きついてきた。
「茜……」
 琉斗は戸惑った。今日一日、折れそうになりながらもずっと踏ん張ってきた彼女が、今にも音を立てて崩れてしまいそうになっているのが分からないでもなかったが、正直、まさか自分がここまで無条件に受け容れられるとは思っていなかったのだ。
「……お母さんは? 帰ってきたんやろ?」
 琉斗は訊いた。
「仕事仲間のところ。ここには居づらいって」
「おまえを一人置いて?」
「そういう人よ。今さら何とも思わないわ」
 琉斗は溜め息をついた。茜はやっぱり、可哀想な子だ。
 そして彼は恐る恐る、両手を彼女の背中に回し、そっと、優しく、静かに、それでいてしっかりと抱きしめた。
「……琉斗は大丈夫だった……?」
「オレの方も、今さら何も変わらへんよ」
「何も……変わらない?」
「ああ、何ひとつ。どうしようもあらへん」
 そう言うと琉斗は茜の両肩を抱え、ゆっくりと自分の身体から離した。
「琉斗……」
 茜は顔を上げ、改めて琉斗を見つめると、思い出したように息を呑んだ。
「……その顔……」
「いつものことや」琉斗は小さく笑った。
「お父さん……?」
 琉斗は黙って頷いた。
「可哀想に」
 茜は優しく、琉斗の傷だらけの顔を拭った。
「もしかして、あたしのせい?」
「何でそう思う?」
「だって、琉斗は昨夜からずっとあたしに付き合ってくれてたでしょ。それをお父さんが……」
「関係ないよ、あんなオヤジ」
 琉斗は吐き捨てるように言うと、ぎゅっと唇を噛んだ。
「何か言ってた……?」
「……別に」
「隠さなくてもいいのよ」
「何でもないよ」
「琉斗」
 茜は穏やかに言った。
「うん?」
「お父さん、もうあたしに会うなって、そう言ったんじゃない?」
「………………」
「……やっぱりそうなのね」
「そんなことどうでもええ!」
 琉斗は激しく首を振った。「あいつの言うことなんか関係ない。オレはオレの思うようにやるだけや。もうずっと前から決めてたことなんや……!」
「琉斗……」
「茜はオレが守る。オヤジにも警察にも、誰にも邪魔はさせへん」
 茜はもう一度琉斗に抱きついた。そして琉斗の頬に両手を添えると、思い詰めた表情で彼を見つめ、唇を合わせた。
 そうやって二人は、今にも壊れそうな自分たちを必死で支え、か弱くも脆い互いの存在にすがることで、束の間の安らぎを得ようとしたのだった。



 その夜、大小さまざまな大きさの紙袋五つを抱えて帰宅した芹沢を部屋の玄関で迎えると、一条はその荷物の変形ぶりを見て言った。
「何それ、どれもくしゃくしゃになってるじゃない」
「バイクで帰ってきたんだぜ」
 芹沢はブーツを脱ぎながら言った。「おまえが持って帰って来いって言うからさ。俺は今日じゃなくても良かったのによ」
「そっか」
 一条は紙袋の一つの中を覗いた。「何、なに。高そうな物入ってるわよ」
 そして厚めのリボンの巻かれた上品な柄の包みを手に取った。「これ、腕時計とかじゃない?」
「そんなのいいよ今は。とにかく風呂入るわ」
 そう言うと芹沢は廊下を進みかけたが、不意に立ち止まった。
「あっそうだ、もう帰るんだな?」
 一条は腕組みした。「……忘れてたの?」
「……ごめん。新幹線、何時だっけ」
「今からだと、最終ってとこね」
 一条は腕時計を見ながら言い、顔を上げた。「一時間半後には出ないと」
「メシは?」
「今は要らない。今日一日、ずっと何か食べたり飲んだりしてたから、お腹空いてないの」一条は肩をすくめた。「でも、貴志は減ってるのよね」
「俺はいいよ、あとでどうにでもするから」
 そう言うと芹沢は途端に満面の笑顔を浮かべ、一条の肩に腕を回してきた。
「とりあえずはひと息つけるんだな」

 十五分後。シャワーを浴びた芹沢が、缶ビールを片手にリビングにやってきて、さっきからずっと自分がもらったクリスマスプレゼントを広げている一条のそばに腰を下ろした。
「まだ見てんのか」
「うん……」
 一条は虚ろな返事をすると腕時計の入った箱を芹沢に見せた。「見て。やっぱりこれ、時計だった」
「ふうん」芹沢は缶ビールを口元に運びながら生返事をした。
「それなりに高いと思うわよ」
「要らね」と芹沢は即答した。「今のやつが気に入ってんだ。おまえ、欲しかったらやるよ」
「…………」一条は文字通り閉口した。
「あれ、気に障ったか」
「……呆れちゃう」
 一条は大仰に首を振って芹沢に小さなカードを差し出した。「贈り主、知ってるの?」
 芹沢はカードを覗き込み、そこに書かれたメッセージを読んだ。
「……顔は浮かんでこねえ」
「だけどあなたにべた惚れよ」
「みてえだな」
 芹沢は両手を頭の後ろに回してソファーにもたれた。「どうせ外見だけだろ。俺の中身なんて何一つ知らねえんだ」
「自慢に聞こえるわよ」と一条は呆れ顔で肩をすくめた。
「しょーがねえじゃん、どうやら俺、カッコいいみたいだし」
 芹沢は言いながらニタッと笑った。
「あはは、バカ」
 一条は愉しそうに言うと、芹沢の胸に寄りかかった。
「……二日半いたのに、全然だったわね」
「巻き込んじまってごめん」
「それは本当にいいのよ。もし最初に鍋島くんの呼び出しを断ってたとしたら、あたしもあなたも、あとでひどく後悔したに決まってるわ。見過ごすなんて出来っこないんだもの」
「俺たちが刑事だからか?」
「それもあるけど──鍋島くんの頼みだから」
 芹沢はふんと笑った。「ヤツの人徳か」
「そう。あなたにとっての鍋島くんよ」
「どういう意味だ?」芹沢は一条を見下ろした。
「特別ってこと」
「そんなわけねえって」
「気がついてないだけ──って言うより、気付いてないふりをしてるんでしょ」一条は微笑んだ。「きっとお互いそうなのよ」
「どうでもいいよ」
 そう言うと芹沢は一条の肩を抱いて、ゆっくりと撫でた。
「……クリスマスは行こうか?」
「無理しなくていいわよ」
「無理なんてしてねえ」と芹沢は反論した。「おまえ、いつだってそう言うよな。俺がいつ無理してるように見えた?」
「そうじゃないわ」
「だったら、素直に喜べばいいだろ」
 芹沢は一条の顎をつまんで顔を自分の方に向けさせた。顎クイと言うやつだ。
「いいな? クリスマスは横浜で」
「……そうね。嬉しい」
 一条は目を細めて笑顔を見せた。一瞬にして、真綿のように柔らかで儚げな気品が彼女の内側から溢れ出て、その華奢な身体をヴェールのように包み込んだ。
「……好きなんだよなぁ……」
 芹沢は満足げに、しかも独り言のように呟くと、ゆっくりとその唇を一条の口元に近付けた。 
「何が……?」
「みちるの、2パターンの高嶺の花的なとこ」
「何それ?」
「普段の高飛車なおまえから、ときどきすごく柔らかくてお上品になるときがあるだろ。それもまた別の意味でお高くとまってる感じがして、もったいつけられてるみたいでいいんだよ」
「褒められてる気がしないんだけど」
「褒めてるさ。俺、そういうとこ大好きなんだ」
 一条はにっこりと笑った。無邪気な笑顔だった。
「好きって言ってくれてるんだから、いいわ」
 そんな芹沢に身を寄せながら、どうして彼にはこんなに澄んだ表情が出来るんだろうと、一条は甘い感情と冷静な疑問を激しく交錯させ、ちょっと途方に暮れそうになった。



《──ねえ勝ちゃん》
 電話の向こうで、真澄は言った。
「うん?」
 鍋島は小さく返事をした。
《あたし、どうしたらええのかな》
 そう訊かれて、鍋島は胸が締め付けられる思いがした。
「真澄は、どうしたいんや?」
《……分からへん……》
「……そうやろな……ごめん」
《勝ちゃんが謝ることやないのよ》
「いや、とにかく申し訳ないと思ってることは確かなんや。ほんまはもっとさっさと、中大路さんを助けださなあかんのに」
《それは分かってるの。勝ちゃんたちに頼んだ以上、ある程度制約があるってこと。それでも一条さんがものすごく頑張ってくれはって、今日一日でいろんなことが分かったし》
「……そうやな」と鍋島は小さく言った。「そのくせ俺は何にもしてへん。悪いと思ってる」
《ええから、謝らんといて……ね?》
 鍋島は心の中で溜め息をついた。この期に及んで、いまだに強い気持ちになれない自分に呆れ返った。
 今夜、彼女が電話を掛けてきたことは、彼女がどれだけ心細く感じ、抱えきれないほどの大きさにまで不安を膨らませ、彼女自身が押し潰されそうになった上でのことなのかを分かっているだけに、あまりに己が不甲斐なかった。
「家の人は──どうしてはる?」
《仕事の急な出張ってことで、一応は納得してる》
「中大路さんのご家族もか?」
《うん。専務さんからも話があったみたいやし。あと二、三日はそれで大丈夫やと思う》
「せやけど、そうやってほんまのことを言えへんと、真澄はかえってしんどいのと違うか」
《そこは大丈夫。麗子がいてくれてるもの》
「……そうか」
《……ただね。やっぱり──》
 真澄は言葉を切った。
「やっぱり、どうした?」
《……やっぱりあたし、あのときの──寛隆さんに頼まれるままに買い物に出掛けたときの──あの無防備な自分を責めてしまうの》
「それは……違うよ」
《うん。麗子や一条さんに何度も言われた。あたしのせいじゃないって。あたしにはどうすることも出来ひんかったって。抵抗する機会さえなかったんやって》
「その通りや。真澄に責任は──」
《せやけどね、勝ちゃん》
 真澄は鍋島の言葉を遮った。
《──大事な人が、あまりにも突然目の前から居なくなるとね。それが自分のせいなんやないかって……自分の何かが悪かったせいかなって、そんなこと、思ってしまうんやね》

 ──何も言えない。痛いほどよく分かるから──

 鍋島の頭の中で、十三歳の自分が哀しく呟いた。

 ──お母さん。何で死んだんや? 僕が良い子にしてへんかったから?──

《そんなこと考えるの、馬鹿げてると分かってても、違うって分かってても──》
「……真澄は何も悪くないよ」
 鍋島は優しく言った。「中大路さんは、早く真澄に会いたいと思てはるよ」
《勝ちゃん──》
「結婚式までに、絶対に俺らが助けるから」
《ありがとう──》
 やがて真澄は泣き出した。
 電話の向こうの嗚咽を訊きながら、鍋島の鼓動は激しく波を打ち始めた。きつく胸が締め付けられるのを感じ、恐怖感で頭がいっぱいになる。いつものことだったが、どうすることも出来ない。この“病気”とは一生付き合っていかなければならないんだなと思うと、絶望的になった。
「な……泣かない……で」
 途切れ途切れに息を吐きながら、やっとのことで言うと、鍋島は頭を抱えた。

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