Ⅰ.父の客ー①

文字数 4,567文字


「──何だよ、その顔」
 自分より二十分も遅れて刑事部屋に現れた鍋島を見るなり、芹沢は驚いて言った。
「何がや」
「ひでえツラしてるぜ。死神でも憑いてんのか」
「悪かったな」と鍋島は力なく言った。「どうせおまえとは違うんや」
「そういうことじゃねえよ」
 芹沢は腕を組み、頼りない足取りで席に着く鍋島を呆れ顔で眺めていたが、やがてぼそりと呟いた。
「ふん……また女に泣かれたか」
 鍋島は虚ろな視線を芹沢に向けた。「……笑ってくれて結構」
「別に。面白くもなんともねえ」
「言おうとしてることは分かってる。今日から俺らだけなんやろ? おまけに今日を入れてあと三日や。ヘコんでる暇なんてない」
「その通りさ。たった今から分刻みでいかねえと」
 芹沢は腕組みを解くとデスクの報告書を指で弾いた。「まずはこっちだ。さっき、深見家のマンションの管理会社に連絡して、主要な監視カメラの画像の提出を依頼した。幸い反応は協力的だった。昼までには用意できるらしいってよ。だけどその前に、深見春子からもう一度事情を聞く」
「亭主の仕事のこと、どこまで関心持って理解してたかは疑問やけどな」
「言っててもしょうがねえ。とにかく昨日深見が会ってたはずの人物について、ちょっとでも情報を掴まねえと」
「茜はどうする」
「そこが問題だ。事件当日から昨日までのあの子の言動や行動の根拠が、父親の会ってた相手を庇うことにあるのは間違いねえとしてだ。じゃあ何でその人物を庇うのか、あの子を問いつめることでそれがはっきりすればいいけど、そうじゃなかったら結局はまた振り回されるだけのような気もするぜ。それって、今は時間の無駄だ」
「どうせなら、もう少し先の段階になってからってことか」
「そう思わねえか」
「あるいはな」と鍋島は頷いた。「深見が会うてた相手の正体が分かれば、少しはその理由も見えてくるかも知れん」
「……それに、あの子にはどうにも厄介なのがついてる」
「琉斗か?」
「ああ」と芹沢は溜め息をついた。「彼女を守るために、まさに満身創痍だ。ああいう感じで来られると、マジめんどくせえ」
「確かに、今じっくりあいつの相手をしてる暇はないやろな」
「だろ。十代の苦悩だとかやり場のない怒りに付き合うのは、せめて来週以降にさせてもらいてえよ」
「……分かった。ほんならとにかく、茜の母親からやな」
「そういうこった」
 芹沢は言うと鍋島をじっと見た。「顔の一つも洗ってこいよ」
「そんなにひどいか」鍋島は右手で頬を拭った。
 ああ、と芹沢は頷いた。「そろそろ慣れろよ」
「自分でもその気は十分あるんや」
「意識してできるもんなら、とっくにやってるってわけか」
 鍋島は諦めたように頷き、部屋の隅っこにある洗面台に向かった。

 それから刑事たちは深見春子に連絡を取り、もう一度話を聞きたいと申し出た。春子は承諾し、落ち合う場所に彼女が昨夜から身を寄せている同僚の女性宅近くにあるカフェを指定してきた。

「──信じれん。娘をマンションに置き去りにして、自分は逃げるように知り合いん()に転がり込んだってか。しかも天満橋から南堀江(みなみほりえ)とはな」
 約束のカフェへと向かう道すがら、鍋島は終始春子への不満を口にした。「娘に何かあったって、五分や十分で帰れる距離やないで」
「さもありなん、さ。あの夫婦は終わってるって言ったろ」
 芹沢は平然とした様子で言った。「今さら腹も立たねえ」
「それにしても、親の自覚が無さ過ぎる」
「そんなもんがありゃ、こんなことにはなってねえよ」
「………………」
 鍋島はブルゾンのポケットに両手を突っ込み、俯いて足許の石畳を踏みつけた。
「ふて腐れんなよめんどくせえな」芹沢は顔をしかめた。
「分かってるよ。今の俺らの仕事は亭主を刺した犯人(ホシ)を見つけ出すことだけやて言うんやろ。その亭主の意識が戻らへん以上、地道にやるしかないってことも」
「分かってりゃいいさ」
 芹沢も苛立ちを隠さずに答えた。

 ところが、待ち合わせのカフェの前に着くと、今度は芹沢が文句を言い始めた。
「──何だよあの女。ランチタイムのOL気分か」
 店は明るく開放的な、隅々の席までたっぷりの陽光が降り注ぐガーデンカフェだったのだ。
「自覚がないんやて言うたのはおまえやぞ」
「……ああそうだった。いちいち考えねえ」
「それがええ」
 深見春子は入口から一番遠い席で待っていた。二人を見つけると、彼女は立ち上がって力のないお辞儀をした。
「──すいませんね、何度もご足労いただいて」
 飲み物の注文を終えると、鍋島が言った。
「……いいえ」春子は俯いたまま首を振った。
「職場の同僚の方だとか?」
「はい?」
「今、身を寄せておられるところの──」
「あ、は、はい、そうです。番組ディレクターの女性です」
「ということは、お嬢さんは一人でご自宅に?」
 芹沢がわざと訊いた。
「ええ……はい」
「中学生の女の子一人で大丈夫ですか」
「それは……あの子はその、しっかりした子ですから」
「ふうん」
 芹沢は素っ気なく頷いた。春子は俯いた。
 それでもなお春子に冷ややかな視線を向けている芹沢に短い一瞥をくれると、鍋島が話し出した。
「では本題に入ります。実は、ご主人が一昨日の午後、仕事関係の誰かと会う約束をしていたらしいという情報を掴んだんですが、そのことで何かご存じないですか」
「私が、ですか?」
「ええ。奥さんに訊いてるんですよ」
「……私は、その……」春子は困ったように首を捻った。
「どんなことでも結構です。心当たりはありませんか」
「……何しろ、眠ってしまってたもので」
「あの日でなくても、例えば事前にご主人からそういった話を聞かれたことはありませんでしたか」
「それが……普段から私ども夫婦は相手の仕事のことには立ち入らないでおこうというのが約束と言いますか、暗黙の了解のようになっていたので──」
「奥さんはご主人のお店の共同経営者なのに、ですか」
「形式だけです」
「税金対策ですね」
「……すいません」
「謝る必要はありませんよ。よくある話です。それから、互いの仕事のことには決して干渉しないと決めておられるご夫婦も多いようですし」
 鍋島が穏やかに言った。「ただ、もしかしたらあのとき、ご主人がその相手を自宅に招き入れていたんやとしたら、奥さんも何か気付かれたことがあったんやないかなと思いまして」
「つまり、その相手が主人を──?」
「断言はできません。ただ、可能性として無くはないと」
 春子は小刻みに頷くと、右手を口元に当てて考え込む仕草をした。しかしやがてがっかりしたように肩を落として言った。
「……ごめんなさい。やっぱり何も分かりません」
 ゆっくりと椅子の背に身体を預けながら、芹沢がうんざりしたように首を振った。
「……そうですか。分かりました」
 鍋島も小さく溜め息をついた。
 やがて用件が終わるのを見計らったように、刑事たちの注文した飲み物が運ばれてきた。
 熱いコーヒーをせっせと胃に流し込みながら、鍋島が言った。
「──深見さん。お節介やとは思うんですが、なるべく早めに自宅に戻られた方がええでしょうね」
「はい?」
「さっきの話です。確かに、我々の目から見てもしっかりしたお嬢さんだとは思いますが、普段ならともかく、今、こういう事態になって一人にしておくのはどうかと」
「……あ、ええ」
「場合によっては、犯罪とみなされることにもなりかねません」
「犯罪……?」
「刑法第二百十八条に規定される『保護責任者遺棄罪』です。親が子供の世話をしないでほったらかしにすると、三ヶ月以上五年以下の懲役をくらうんです」
「あ、あの」
 春子は戸惑いを隠さずに刑事たちを交互に見ると、少し身を乗り出した。そこへ鍋島が続ける。
「言っておきますが、そんな法律知らんかった、じゃ済まされないんですよ」
「それとも、そんなことになったら、腕のいい弁護士でも雇いますか。高い金を払って」
 芹沢が言って、嘲るような眼差しで春子をじっと見た。
「……分かりました。早急に戻るようにします」
 春子は不服そうに答え、椅子に身体を預けるとまた下を向いた。
 逆に芹沢は表情を変えず、さらに訊いた。
「西条琉斗という少年をご存じですか」
「えっ?」春子は眉根を寄せた。「誰です?」
「お宅の隣のマンションに住む高校生です」
「隣の……ああ、そういえばマンションがありますね」
 春子はゆっくりと頷いた。「その高校生が何か?」
「茜さんの友達です」
「茜の?」
「良き理解者とでも言いますか。あるいは忠実な騎士(ナイト)と言うか」
 芹沢は困ったようにこめかみを掻いた。「茜さんを守れるのは自分だけだと、暑苦しい自信を武器に孤軍奮闘、そりゃあもう涙ぐましく頑張ってますよ」
「……はあ」
「あなた方両親の代わりをしているとまでは言いませんが、茜さんにとっては彼の存在が何よりの救いになってることは確かなようです」
「……そうなんですか」
 春子は答えながら、手元のティーカップの縁を指でなぞった。退屈そうだった。
「少しはそういうこと、考えたら──」
「やめてちょうだい」
 春子はぴしゃりと言った。唇が小刻みに震えていた。
「……分かるもんですか。あなたたちなんかに」
 芹沢は微かに目を細めて相手を見た。文句のつけようのない美しい顔立ちに、冷ややかな嫌悪の色が滲んでいた。
「理解を示せと?」
「そうは言ってません。ただ、知った口を利いて欲しくないだけ」
「若造に何が分かるんやってことですか」鍋島が言った。
「若いからってことじゃない。昨日今日、私たちのことを知ったばかりの他人に、えらそうに説教されたくないだけです」
「だったら──!」
 芹沢はカッとしたように強い語気で言いかけ、そして止めた。
 鍋島は芹沢に振り返り、じっと見つめた。
「……いいよもう」
 芹沢は溜め息をついた。「俺たちがここで何を言ったって、どうせ何も変わらねえ」
「そういうことです」
 春子は低い声で呟くと、顔を上げて芹沢に言った。「その高校生に言っといてください。茜なんかに構わないで、ちゃんとお勉強しなさいって」
「それこそ大きなお世話だ」
「そう、つまりお互いさまね」
 春子は吐き捨てると伝票を掴んで腰を浮かせた。「帰ります。茜のところへ」
 そのとき、春子のバッグの中で携帯電話の着信音が鳴った。
 春子は黙って座り直し、スマートフォンを取り出すと耳に当てた。刑事たちは黙ってそれを見守っていた。
「──もしもし」
 時折小声で相槌を打ち、しばらくは相手の話を聞いていた春子だったが、やがて驚いた表情になると語気を強めて言った。
「えっ、そうですか」
 春子は些か戸惑いながら刑事たちを見た。刑事たちはそれでも黙っていた。
 そして一通りの話を終えると、切った電話をバッグに戻し、芹沢と鍋島を交互に見ながら落ち着いた口調で伝えた。
「主人の意識が戻ったそうです」
「そうですか」
 鍋島が言って、しっかりと頷いた。


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