Ⅵ.悲しき逢瀬ー②

文字数 5,743文字

 芹沢との電話を切ってから約一時間、鍋島は管理人の立ち会いのもと、本田佐津紀の部屋をくまなく調べた。
 残念ながら遺書らしきものは見つけられなかった。出てきたところでそれが本物とは限らないし、いずれ医学的判断も下りるだろうが、今はまだ限りなく自殺に近い変死の域は出ないということだ。
 彼女が自らの命を絶つ理由がまったく想像つかないというわけではなかったが、二年に渡って不倫をしていたこと、その相手がこともあろうに妻の手によって重傷を負ったらしいこと、それが彼女をそこまでに追い込むものなのか。正直言って、鍋島には納得しかねていた。何者かの手によって巧妙に自殺に見せかけられた殺人の可能性を捨てきれないのはそこだ。たとえ彼女の死が自殺と断定された場合でも、理由は他にあるのかも知れないと思った。

 遺体の搬送が終わり、佐津紀の実家とも連絡が取れたので、鍋島は一旦署に戻ることにした。
 地下鉄に乗るために上町筋(うえまちすじ)に向かって歩いていると、遙か向こうから、見覚えのある人物が自転車に乗ってこちらへやって来るのに気付いた。
 鍋島は咄嗟にそばの自販機脇に身を隠した。ゆっくりと顔を出し、もう一度姿を確認する。
 ──間違いない、やっぱり

だ。
 なんであいつが? と、鍋島はすぐには理解が出来なかった。
 この関係性は、さすがに想像もつかなかった。本田佐津紀があいつと繋がる要素など、今までの調べではどこにもなかったはずだ。どこかで見落としていたのか? いったいどこで? 鍋島にはいくら考えても分からなかった。
 ただし、これが偶然でないことだけは経験上分かっていた。

 そして、やがて暴かれるであろう真相に、ひどく気の滅入る現実が横たわっていることも。

 鍋島はもう一度通りを覗いてみた。相手はすぐ近くまで来ていた。
 行くしかないんやな、と思った。
 鍋島は自販機の陰から飛び出した。
「────!」
 急ブレーキをかけて前のめりになった彼は、身体を起こして鍋島を見ると、まさに仰天して固まった。
「どこ行くんや」鍋島は言った。
「な、なんでここに──」
「こっちが訊きたいわ。それに、そのカッコどうした。血だらけやないか」
 彼──琉斗はシャツの袖口で口元を拭った。ほとんど固まっていた口角の血が、一筋の痕となって頬を縦断した。
 そして黙ってハンドルの向きを変えようとした。
「待てよ」鍋島はハンドルを掴んだ。
「離せ」
「そうはいかん」
「オレはなんにもやってない」
「何もやってないんやったら、逃げることないやろ」
「逃げるなんて言うてへん。用事を思い出したんや」
「本田佐津紀のとこへ行く用事やろ」
「誰やそれ。知らんわ」
「死んだで」
「…………!」
 琉斗は目を剥いて鍋島に振り返った。鍋島は言った。 
「自殺みたいやわ」
「……だ、誰が死のうと、オレの知ったことか」
 琉斗はペダルに置いた足許を見つめたまま、震える声で言った。
「もしかしたら、深見茜の父親を刺したんは彼女かも知れん」
「そんなこと──!」と琉斗は顔を上げたが、すぐに諦めたような表情になって呟いた。「……そうなんか」
「やっぱり知ってるんやな」
「知らんて」
「今、そんな言い方したやろ」
「しつこいな。なんでオレが茜のオヤジの不倫相手なんか──」
「ほぃ、それが知ってるってことやんか」鍋島は口元を緩めた。「観念しろ」
「……言いがかりや。オレは関係ない」
「ほんなら、なんでこんなとこにいる? しかもそんな格好で」
「散歩や」
「アホか」と鍋島は呆れ返って舌打ちした。「それ、誰にやられた」
「あんたに関係ない」
「オヤジか」
「……うるさい。関係ないて言うてるやろ」
 琉斗は唇を噛んだ。そして無理矢理ペダルを踏み出そうとした。
「ええ加減にしとけよ」
 鍋島はハンドルを掴む手に力を入れて琉斗を止めた。
「オ、オレは何もやってないんや」
「おまえが何かしたって言うたか。ここへ来た理由を喋ったらそいでええねん」
 そう言うと鍋島は琉斗の胸のあたりを人差し指で突いた。「だいいち、おまえに何ができるって言うんや、この

が」
 琉斗はカッと顔を赤らめた。「……オレはヘタレやない」
「おまえがどう思おうと知ったことか」
 鍋島はふんと鼻を鳴らした。「それとも、ここへ何か大きなシゴトでも成し遂げに来たとでも言うんか」
「違う──」
「ひょっとしておまえ、本田佐津紀をやってまえって、深見茜に指示されたとかか?」
「違う、そんなんやない」
 琉斗の慌てように、鍋島は納得したとばかりに何度も頷いた。
「──確かに、おまえと本田は無関係や。そんなおまえと彼女が繋がるには、深見家の人間が不可欠になる。つまりそれは茜や」
 鍋島は噛みしめるように言った。「茜は、父親を刺したのは本田佐津紀やと思てるんやな? それでおまえを使って報復しようと企んだってわけか」
「違う、違う──!」
「じゃあほんまのことを喋れ!!!」
 鍋島は足を踏み出して彼に顔を近付け、語気を荒げた。
「……人一人が大怪我して、別の一人が死んでるんや。おまえだけがそんな幼稚な言い逃れして、知らん顔で通せると思てんのか!」
 琉斗は鍋島の迫力に押され、怯えきった表情で唇を震わせていた。しかしやがてすとんと肩を落とすと、ハンドルを掴む鍋島の手を見ながら言った。
「……離してくれ」
「無理に決まってるやろ」
「逃げへんから」
「ほな自転車降りろ。そしたら離したる」
 琉斗は渋々と言った感じで自転車を降りた。鍋島は自転車を自販機脇のフェンスに預け、そして上着のポケットから煙草を取り出して火を点けた。琉斗は自転車の横に腰を下ろし、立てた膝の上に両手を置いて長い溜め息を吐くと、鍋島を見上げて言った。
「……

、どうやって死んでた?」
「その前に答えろ。本田佐津紀を知ってるんやな」
 琉斗は諦めたように頷いた。
「いつからや」
「初めて会うたんは、今年の夏頃」
「どこで」
「茜のマンションの前。茜のオヤジさんが、車に乗っけてた」
「不倫の相手やて、すぐに分かったんか」
「そりゃ分かったよ。雰囲気がそんな感じやったし」
「それで?」
「それで……オヤジさんが一人でマンションに入っていって、あの人が一人になったとき、車の窓越しに声をかけたんや」
「声をかけて、どうするつもりやったんや」
「オヤジさんと別れろって言うつもりやった。オヤジさんの不倫が、茜の家庭をあんな風にした大きな原因の一つやと思ってたから」
「いきなり関係のないおまえが言うたって、聞き入れるはずがないとは思わへんかったんか」
「……もちろん考えたよ。せやけど、向こうの反応がどうだろうと、言うだけ言うてやろうと思たんや」
 琉斗は言うと髪をくしゃくしゃと掻きむしった。そして続けた。
「……そしたら、意外にもあの人、オレが一方的に喋るのを前を見たままじっと聞いて、それからひと言だけ言うたんや」
「何て」
「『もうちょっと待ってて』って」
「待つって、何を待つんや」鍋島は目を細めて煙を吐いた。
「……なあ。ずっとここで話し続けるつもりか?」
「あん?」
「さっきから通り過ぎていく人みんな、オレとあんたのこと変な目で見ていくで」
 鍋島は振り返った。ちょうど、通りを挟んだ向かい側を歩くサラリーマン風の若い男が、怪訝そうに二人を見ているのが目に入った。
「オレがあんたにいたぶられてるって思てるんやろ」
 琉斗は自嘲的な笑みを浮かべて言うと、血の着いた自分の胸元に視線を落とした。「オレのこんな格好のせいやな」
「……場所変えるか」
 鍋島は咥え煙草で琉斗の自転車を掴んだ。「立てよ」
「どこ行くん。普通のサ店とか行ってもジロジロ見られるで」
「……せやな」鍋島は小さく舌打ちした。「どっかないかな」
「あの人のマンションの近くに、小っちゃい公園があったやろ」
「……よう知ってるんやな」
 鍋島は琉斗に振り返った。琉斗は肩をすくめただけだった。

 道すがら、琉斗はぽつりと言った。
「もう一人の刑事。あんたの連れの」
「……え、ああ」
「あいつ、茜を連れ出しよった。嫌がってんのに」
「そうか」と鍋島は頷いた。「おまえ、引き留めようとしたんか」
「……そうや」
 琉斗はその時のことを思い出したのか、目を細めて口元を歪めた。「嫌がってる茜に、言うこと聞かへんかったらオレをボコボコにするって言いやがった」
「……言いそうなことや」と鍋島は苦笑した。
「それでオレはこのザマや」
「嘘つけ」と鍋島は今度は鼻で笑った。「あいつの仕業やない」
「……ふん。やっぱり警察は身内を庇うんやな」
「違うよ」
 鍋島は琉斗に振り返った。「──あいつは、おまえの鼻が曲がってるのが、生まれつきやないって知ってるからや」
「……なんやそれ。意味分からん」
 琉斗はそう言いながらも、少し照れ臭そうに俯いた。

 公園に着いた二人は、葉を落とした木陰のベンチに腰を下ろした。
「──まずはオレが訊く番や。ええやろ」琉斗が言った。 
「そんなルールは承知した覚えはないけど」
 そう言いつつも鍋島は琉斗を見つめ、質問を促した。
「さっきの質問。あの人、どうやって死んだんや?」
「それは言うわけにはいかんな」
「ほんまに自殺なんか」
「……何でそう思う? 彼女が自殺するはずないとでも?」
「別にそんな風に思てるわけやないよ」
 そう言うと琉斗は暗い顔になった。「……もっと別の理由で死んだんやないかなって」
「おまえ、何か知ってるんか」
 琉斗は黙っていた。
「殺されたってことか?」
「違う、そうやない」琉斗は首を振った。「……病気」
「病気?」鍋島は眉根を寄せた。「何の病気や」
「……ガンやて」
「……どこの?」
「胃」
 鍋島は心臓がぎゅっと萎縮するのを感じた。「……ほんまか」
「スキルス性……とか言うてた」
 琉斗はゆっくりと鍋島に振り返った。「春まで持たへんって」 
「彼女がそう言うたんか」
「うん」
 鍋島は俯いた。抵抗する間も与えられず母親のことが脳裏を過ぎったが、努めて排除しようとした。煙草を咥えて火を点けた。
「──それで『もうちょっと待ってて』か。近いうちに自分は死んで居なくなる、ってことなんやな」
 うん、と琉斗は下を向いた。「……オレ、何も言えんようになってしもた」
「待てよ、彼女はそこまでの話を最初に会ったときにおまえにしたんか? 車の窓越しに?」
「ううん。その時は、自分は病気なんやとだけ」
「ということは、また会うたんか」
「うん。茜のオヤジさんが戻ってきたから、話を続けられんようになったんや。そしたらあの人、明日もう一度ちゃんと話がしたいから、同じ時間にここで待っててくれって」
「それをおまえは受けたんやな」
「……断れる雰囲気やなかった。なんか、必死って言うか、ヤバそうって言うか……どう言うたらええんやろ」
 琉斗はもどかしそうに胸元で手を振りながら鍋島に振り返った。
「分かる? ギリギリっぽいやつ──」
「思い詰めた感じ」
「そう、それ」と琉斗は大きく頷いた。「せやしオレ、ええよって」
「それで次の日に会うたんやな」
「場所が場所だけに、茜に見つかったらヤバいなて思たけど、あいつは引きこもってたし、結局は大丈夫やった。今度はあの人、自分の車を運転してきてた」
「そこで話をしたんか」
 琉斗は首を振った。「病院行ったんや。受診日やて言うてた」
「ついていったんか?」
「しゃあないやんか」と琉斗は溜め息をついた。「丸一日かけていろいろ検査みたいなことして、帰る頃にはぐったりしてた」
「それで、彼女は何て言うたんや。深見哲とのこと」
「自分はこんなやから、そのうち茜のオヤジさんとは別れることになるって。時間の問題やから、今は見過ごしてくれって」
「ふうん」鍋島は些か不満そうだった。
「オレ、そんなんやったら余計に残り時間を大事にした方がええんと違うかって言うた。報われへん関係なんかさっさと終わりにして、悔いのない生活を送った方が、よっぽど充実した人生になるって」
「ええこと言うやんか」鍋島はにやりとした。
「そしたらあの人、それはよう分かってるんやけど、どうしても踏ん切りがつかへんのやて言うた。それに、死ぬときのために作られた新生活を始めるなんて、これまでの人生がいかに寂しかったか、自分で認めるみたいで虚しいって。それから……やっぱり独りぼっちで死にたくないんやとも」
「……深見哲は知ってたんかな」
「たぶん知らんと思う。彼女、適当にごまかしてるって言うてたから」琉斗は怒ったように言った。「ええ気なもんや」
「男の浮気なんて、そんなもんや」鍋島は言った。「自分だけ愉しんで、周りのことなんか見えてない。ただの自己満足や」
「茜のオヤジは、罰が当たったんや」
 琉斗は吐き捨てるように言った。「茜のオフクロさんがやったんかどうか分からんって、あんたらは考えてるみたいやけど、仮に別の誰かが犯人やとしても、オレはその人を悪いとは思わへんな」
「そう思うのは勝手や。感情に任せてあれこれと感想を言うのは、そっちに任せる」鍋島は言った。
「──あんたらはただ、犯人を見つけて捕まえる、それが仕事やて言うんやろ」
「分かってもらえてるようで良かった」
 鍋島は満足げに頷いた。
「そしたらそろそろ、おまえがここへ来た理由を──」
「……傷跡が痛々しかった」
 琉斗がぽつりと言った。
「えっ?」
「手術の痕や。二回もしたんやて」
「おまえ……」鍋島は目を見開いた。「彼女と──」
 琉斗は鍋島の視線をまっすぐに受け止め、静かに頷いた。
「そういう関係になったよ」
 鍋島は琉斗を見つめたまま溜め息をついた。

 ──気の滅入る現実。こんなことばかりを聞かされて、きっと俺は歳を食っていくんやなと思った。 




 ※「ヘタレ」……弱虫。臆病者。


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