Ⅰ.明け方の来訪者ー①

文字数 1,837文字

 
 遠くで、鐘の音が鳴っていた。
 カラーン……カラーン……。
 どこかの教会のものだろうか。だけど近所にはないはずだ。
 するとまた、カラーン……カラーン……。
 澄んだ音色。浅い眠りの意識の中を、涼しい響きで通り過ぎていく。
 カラーン、カラン……。
 だんだんと、音の間合いが短くなってきた。まるで何かに急いでいるように。
 カララン、カラコン、キンコン……キンコン。
 音色が変わった?
 そうではなさそうだ。そう、たぶん、最初からこういう音だったんだ。
 聞いたことのある音だ。というか、とても身近な音──
 何の音だっけ──?
 何でもいいや。心地よいから、ずっとこのまま聴いておこう。夜明けはまだ少し先だろうし、仕事も休みだから、ゆっくりとこの浅い眠りを楽しめばいい。
 キンコン、キンコン。

 そのとき、布団から出していた右腕の肘のあたりを、軽くトントンと叩かれた。
「ん──」
「鳴ってる」
 すぐ隣で、こもった声が言った。
「──ん?」
「鳴ってるぞ」
「──知ってる。だけど何が──?」
「ここん()のチャイム」
「……チャイム?」
 薄く目を開けた。隣の彼も、まだ完全には目を覚ましていないようで、枕に深く顔を埋めている。その左手が、彼女の腕を撫でていた。
 麗子はゆっくりと頭をもたげると、ベッド左側のサイドテーブルに置いた時計を見た。
「……まだ四時よ」
「でも、鳴ってるやろ」
 彼は相変わらず顔を伏せたままで、彼女が動いたことで自分の肩からずれた布団を引き寄せた。「……新聞屋かも」
「新聞屋さんが、何の用?」
 麗子は言うと彼に向き直り、その肩に頭を寄せた。
「何かミスでもしたんと違うか。ここの庭にまとめて落としたとか」
 ここでようやく鍋島は顔を上げ、麗子に振り向いた。そしてすぐそばの彼女の額に唇を寄せると、軽く音を立ててキスをした。
 キンコン、キンコン。確かにこの家のチャイム音だ。
「どうする」
「なんだか、気味が悪いわ」
「せやな」
 鍋島は麗子を腕の中に抱き寄せた。「ほっとくか。そのうち諦めるやろ」
「だといいけど──」
 すると、二人の会話を聞いていたかのように、音がやんだ。
「ほらな。タイミングが合うたところが気に入らんけど」
「……良かった」
 麗子は溜め息をつくと鍋島に向き直り、彼の首に両手を回した。
「もう一眠りできるわね」
 そして麗子は彼にキスをした。鍋島もそれに答え、しばらくの間二人は唇を合わせ続けた。

 そのとき突然、彼らの足許のあたりで携帯電話の着信音が鳴った。
「わっ──!」
 麗子はびくんと肩をすくめると、そのまま鍋島に抱きついた。
「な、なんで……?」
 ベッドの向かいにあるドレッサーに置いてあった、麗子のスマートフォンが鳴っている。
「……今度はこっちか」
 鍋島は舌打ちして言うと、しがみつく麗子をそっと離して身体を起こした。着信音は鳴り続けている。暗闇の中、青白い光が不気味に見えた。
「ふざけやがって。相手になるで」
 鍋島はベッドから出ようとした。
「待ってよ、何するの?」
階下(した)へおりて、玄関のヤツを片づけてくる。この電話もそいつからや」
「だめよ、行かないで」麗子は鍋島の手を取った。
「何で」と鍋島は麗子に振り返った。「俺は刑事やで」
「だったらあたしも一緒に行く」
「おまえが来たら、元も子もないやろ。相手はおまえが目当てなんやぞ」
「だって、ここで一人は怖いもの」
「怖いかも知れんけど、ここの方が安全やないか。別に窓から入ってこれるわけでもなし。鍵掛かってるんやから」
 鍋島は言うと、ベッドから出て窓際のカウチソファに置いた自分の服をかき寄せ、戻ってきて手探りで着始めた。
 そこでおもむろに麗子が言った。
「それが……掛けてないの。二階の部屋、どこも全部」
「……はぁ……?」
 鍋島はシャツのボタンを留める手を止め、信じられないという表情で麗子を見た。電話は、数回の呼び出しのあと途切れては再び鳴る、という動作を続けている。
「いや、普段はちゃんと掛けてるのよ。今日は勝也が来るって分かってたし、部屋を全部掃除したの。それで窓を開けてたから──」
「鍵閉めるのが面倒臭かったってか」
「……うん」
「おまえ、自殺願望でもあるんか。何かヤケになるようなことでもあったか……あ、さては俺と結婚したくないな?」
「違うわよ」
「どうでもええ。とにかく俺は階下の変態をシメてくる」
 鍋島は吐き捨てるように言うと、ジーンズのベルトを締めてふうっと肩で息をした。気合いを入れたのだ。
 相変わらず電話は鳴っていた。
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