Ⅳ.ベランダ越しの生存確認ー③

文字数 3,005文字


 窓の向こうに広がる空は、今日も遠くて青かった。

 ベッドの上に寝ころんで、コンビニのサンドイッチとプリンを食べながら、さっきからずっとスマホを触っていた。
 メールの相手は少ない。しかも見知らぬ人間ばかり。くだらない話題を適当に返して、あとは音楽のダウンロード。好きなアーティストは何組かいたが、それにはこだわらずに気になった曲を片っ端から拾っていった。
 明け方までパソコンのオンラインゲームをやって、いい加減眠くなったからそのまま寝た。目が覚めて時計を見たら昼前だった。
 お腹が減っていたので階下(した)へ降りてキッチンに行くと、また今日も母親がテーブルに突っ伏して眠っていた。
 仕事が休みの日はいつもそうだ。食事も作らず、朝からウィスキーを飲んで、いびきを掻いて夢の中。ときどき寝言で悪態をついては、涙なんかを流してまた高いびき。
 どうしようもない女だ。掛ける言葉ももったいない。冷蔵庫から適当に食べ物を見繕って部屋に戻ってきた。
 冷たいツナサンドを食べながら、スマホを触り続けていると、途中でメールを受信した。
 差出人の名前を見ても、すぐにピンと来なかった。しばらく考えて、やっと思い出した。
 一年ほど前までやっていた、援交の相手だった。五回くらいで十五万ほど稼がせてもらった。確か雑誌記者とか言ってたけど、あれは嘘。内緒で財布を覗いたら、おそらく本人の職場宛の領収書が出てきた。教師だった。
 メールの内容は、いわゆるご機嫌伺いだった。久しぶりにまた会いたいという。最後の方はそこそこ冷たくあしらったのに、決定的に痛い目にあってないせいか、懲りないヤツだ。
 おとといきやがれと思って、そのままスルーした。
 ただ、このメールのおかげで大事なことを思い出した。
 スマホ料金のことだ。調子に乗ってゲームで課金し続けていると、あっという間にとんでもない金額になる。持ち始めた当初は親が払ってくれていたが、ある時、十万を超えたので母親が発狂し、以来、銀行引き落としを解除して振込用紙を突きつけてくるようになった。援交を始めたのもそのせいだ。
 適当なところでやめないと、と思ってスマホを閉じようとしたとき、また新しいメールを受信した。
 今度は相手がすぐに分かった。内容も短い。

 『外』

 たったこの一文字だけ。それでも今の自分にはじゅうぶん嬉しかった。
 ベッドから降りて机のそばの掃き出し窓を開け、サンダルを履いてベランダに出た。
 マンションの脇を通る遊歩道の真ん中に自転車を停め、アイツはこちらを見上げていた。濃いめの茶髪に、透明な肌。曲がった鼻は、幼い頃に父親に殴られて鼻骨を折ったからだ。高校の制服の上に紺のダッフルコートを着て、大きな鞄を肩から提げている。部活に行くのかなと思った。
「うぃ」
 アイツは軽い挨拶をした。
「メール、短すぎ」
「あはは」
 アイツは無邪気に白い歯を見せた。
「それに……送ってくるのも少ない」
「打つの、面倒臭いもん」
 今度はちょっと戸惑ったように、下を向いた。
「だったら、電話でもいいよ」
「夜昼逆転の生活してるヤツに? こっちはバイトで忙しいんやぞ」
 アイツも料金は自分持ちだ。ケータイ代だけではなく、小遣いも親からもらっていないから、必要なものは全部自分でバイトをしてまかなっている。だけど、女みたいに手っ取り早く大金を稼ぐ方法は少ない。肉体労働をやれば少しはまとまった金額を手にすることができるのだろうが、アイツの華奢な身体では、それも難しそうだった。
「どこ行くの」
「見たら分かるやろ。学校」
「もう冬休みじゃない」
「はぁ。でも行かなあかん」
「部活?」
「そんなもん、あったって休む。補習や」
「また赤点?」
「うん」
 アイツはバツが悪そうに頷いた。
「お父さん、怒ったでしょ」
「関係ないね。リストラでヘコんでもうて、もう殴る力もあらへん」
 アイツはぺろっと舌を出した。それからすっと真顔になって言った。
「そっちのオヤジはどうや」
「知らない。愛人のところじゃないの」
「オフクロさん、また寝てもうてるんか」
「相変わらず。酒瓶枕にいびき掻いてる」
「オヤジさん、帰ってくるかな」
「たぶんね。ママが起きるまでには戻らないと、見つかったらまたヒステリー起こすもの」
「そうか」とアイツは溜め息をついた。「おまえはどうする?」
「そうだな……もうすぐ出かける」
「その方がええ」
「補習は何時まで?」
「すぐに終わる。二時には解放や」
「分かった」
「ほな、夕方に」
「うん。バイバイ」
 アイツが自転車を漕ぎ出すのを見届けて、部屋に戻った。
 スマホを取り、さっきの元援交相手のメールを開いた。手短に返信すると、すぐに反応があった。
 着ていたトレーナーとカルソンを脱いで、ブラジャーとショーツ姿になると、クロゼットを開けて洋服を選んだ。ハンガーに掛けたままベッドに並べ、そのそばに座って化粧を始めた。
 少しの間、ここを出て行こう。それに、ケータイ代を稼がなきゃ。自分の分と、アイツの分も。


 自転車を少し走らせてから、ブレーキを握ってペダルに置いた足を止めた。
 後ろを振り返った。ベランダには、もうあいつはいなかった。
 スラックスのポケットからケータイを出した。もう一度、同じ内容のメールを送ってみる。
 少し待ったが、あいつは出てこなかった。その代わりに返信が来た。

『早く補習に行く! 留年したら、遊んでやんない!』

 しゃあないなぁ、と諦めて自転車を漕ぎ出した。
 自分との約束の前に出かけると言ってたけど、何の用事だろうと思った。この一年、ほとんど家から出ていないのに、珍しいこともあるものだ。
 その反面、あの家によくぞ一年も閉じこもっていられたものだとも思う。
 あんな、ほとんど家庭という形態を成していないような家に。
 ただ、表向きは誰もが羨む、まったくの理想の家族だ。
 父親は、そこそこ流行っている創作イタリアンレストランのオーナーシェフ。母親はテレビ製作会社のプロデューサー。一粒種のあいつは、有名私立中学に通う優等生。
 ところがその実態は──
 もう、笑ってしまうくらい、悲惨そのもの。
 父親は愛人を作って別宅に囲み、女房の休日以外はロクに家に帰ってこない。
 母親はアル中。仕事以外の一切を完全に放棄している。
 そしてあいつは、何度かの家出と非行の後、一年前から登校拒否になり、自分の部屋に引きこもった。
 外と繋がっているのは、スマホとベランダだけ。 
 そんな絶望から、どうやったらあいつを救い出せるのか、この一年ずっと考えてきた。
 だけど、いくら考えようとしても、明るい答えは出ない。
 こんな脳味噌では思いつくのは破滅だけ。

 ──あんたは頭が悪いから。

 幼い頃からずっと言われ続けてきた言葉がまた浮かぶ。
 頭が悪い。出来が悪い。こんな子には何も期待できない。
 そう言って、周りの大人は自分を殴った。何かのはけ口にされていた。
 分かっているよ。それもこれも、バカに生まれた自分のせいだってこと。
 
 だけど、頭のいいあいつがあんなに不幸なのはなぜなんだ?
 
 おかしいじゃないか。

 自転車を漕ぐスピードが速くなった。



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