Ⅲ.意外な接触者ー②

文字数 4,694文字

 病院から戻ると、誰かが書いた伝言メモがデスクに置いてあった。
 
 「──11:35 ミカミレイコという女性から電話あり 
    貴様 いい加減ケータイ持て!」  

 確かに、そろそろ潮時かなと思った。キリのいいところで、年明けからケータイを持とうか。でも、今からならもうスマホってことになるんだろうな。あれはマジで面倒臭そうだ。今まで持ってなかったのが、いきなりスマホとなると、機種の選び方からしてよく分からない。
 席に着くと目の前の受話器を取って、麗子の携帯電話の番号を押した。コール音が鳴っている間、ぼんやりと刑事部屋を見渡した。食事に出ている捜査員が多いせいか、比較的閑散としている。カウンターにはまたいくつかプレゼントの包みが置かれていた。 
 五回鳴ったところで、麗子が出た。
《──はい、三上です》
「ケータイ買うって言うたら、選ぶのついてきてくれるか」
 鍋島は唐突に訊いた。
《いいわよ》麗子は即答した。《やっとその気になったの?》 
「うん、まぁ……どうしようかな」
《何だ、ちゃんと決めてないんじゃない》
「俺自身は別に要らんのやけど、どうも周りが迷惑してるらしい」
《今ごろ気付いてんの? 呆れた》
「せやかて、別に不便は感じてへんし。仕事にも支障はないで」
《芹沢くんのおかげでしょ。ねえ、あたしのと同じ機種にしてよ》
「まあ、考えとく」
《結局それ? まったく、相変わらずね。自分のこととなると、たかだかケータイ一つ買うかどうかですらその調子なんて》
「で、用件は何や。電話くれたんやろ」
《ああそうだった。でもその前に、仕事の方はどうなの?》
「一段落ついた」
《勝也自身は?》
 鍋島は口元を緩めた。麗子はずっと心配してくれている。
「大丈夫や」
《本当に?》
「うん。心配かけてごめん」
《いいのよ。それが勝也なんだもの》
 麗子は笑って言うと声のトーンを落とした。《……真澄がね、こっちに出てきてるの》
「えっ」素直に驚いた。「こっちって?」
《もう、こっちはこっちよ。昨日うちに泊まったの》
 麗子はもどかしそうに言った。《それで、彼女が京都に帰る前にちょっと会えない? あたしは仕事が入ったから無理なんだけど》
「いいよ。ただ──」
《分かってる。捜索に進展はなくても、会って話すだけでいいの》
「……分かった」鍋島は小さく頷いた。「実は俺もそう思てたんや」
《……そう》と麗子は安堵の溜め息をついた。《勝也の顔を見るだけでも、あの娘には──》
「うん、そうやな」鍋島は麗子の言葉を遮った。「で、どこで落ち合えばええ?」
《……そっちに近いところに行くって行ってた》 
 そう言うと麗子は西天満にあるカフェの名前を告げた。《知ってる? そこで待ってるって》
「ああ、分かる」
《じゃあ、よろしくね》
「あの、麗子──」
《ねえ、憶えてる?》今度は麗子が鍋島の言葉を遮った。《一回生の秋、編入してきたあたしの歓迎会をクラスで開こうってなったとき、あたし一人のためにそこまでしてもらって良いのかなって、あたしが勝也に相談したときのこと》
「は? そんな前の話、憶えてへんよ」
《あのとき、勝也はすごく答えに迷ったのよ。幹事だったくせに》
「そんなことないやろ」
《ううん、あなた迷ってた。無理に誘っても悪いかな、なんて言いながら》
「忘れた」鍋島は腑に落ちていなかった。「で、今ごろそれがどうしたんや」
《さっきのケータイの話と同じってこと》
「ケータイの話?」
《そう。自分のことには迷いに迷うの》
「知ってる。人には的確なアドバイスが出来るのに、ってやつやろ」
《あのとき迷ってたのは、自分のことだったからよ》
「俺のこと? おまえの歓迎会が?」
《そうよ。その言い方に飛躍があるとしたら、自分の気持ちが絡んでること、でもいいわ》
「……よう分からんな」鍋島は溜め息をついた。
《ほんとに?》
「ああ。おまえの言うことはやっぱり理屈っぽい」
《いいわよ》 
 麗子はちょっと愉しそうだった。《とにかく、そういうことなの》
「分かったよ。じゃあな」
 鍋島は電話を切った。腕時計を見て、昼休みにはちょうどいい時間だと思った。真澄と会うのにも好都合だ。
 鍋島は立ち上がり、刑事部屋を出た。階段を下りるとき、島崎主任と出会したので昼食に出ますと言うと、意味ありげに「ごゆっくり」と言われた。もしかしてさっきの伝言メモはこの主任だったか。それにしては悪筆だった。主任はもっと綺麗な字を書く。きっと自分がいつまでも携帯電話を持たないことに腹を立てていたのだろう。
 どうでもいいことを考えながら、鍋島は署を出て裁判所の前の通りを西に歩いた。真澄に会うのは少し気が重かったが、さっきの麗子との電話が彼の心を少し軽くしていた。
 十年前の歓迎会の話と携帯電話を買う話について、鍋島は麗子の回りくどい説明を理屈っぽくて分からないと言って取り合わなかったが、本当は全部分かっていた。麗子は普段は極めて単純明快な話し方をするが、ときどき妙に持って回った言い方をする。法律学者ならではの癖か、英語圏で育ったゆえの表現法なのかは分からなかったが、それを解釈するスキルを鍋島はちゃんと習得していた。

 ──要は、俺があんときからあいつのことが好きだったんだと言いたいわけ。

 ふざけんなよ、ちょっとばかり美人やからって自信過剰もええとこやろ。 
 鍋島は思わず舌打ちしていた。そしてすぐに苦笑いをした。両手を顔の前で合わせ、はぁっと息を吐くと、上着のポケットに突っ込んだ。
 ケータイを持ってもいいかな、と思った。



 こぢんまりとしたギャラリーや骨董屋が軒を連ね、別名アートストリートとも称される老松(おいまつ)通りは、西天満エリアの中心を東西に貫く、閑静な趣のある通りである。
 その老松通りから2ブロックほど南側、アメリカ総領事館と裁判所に挟まれた区画の小さなビルの中二階にそのカフェはあった。
 いわゆる差し向かいのテーブル席というのが無く、十五席ほどの大きな板のテーブルがその存在感を圧倒的に示しており、あとはキッチン前にカウンター席が3つほどあるだけだった。年代物のスピーカーを携えたオーディオとガラス戸の入った書棚、掛け時計や照明など、どれも懐かしい暖かみがあって、都会の片隅にひっそりと佇む隠れ家のような喫茶店である。
 そしてそのことを証明するかのように、今も一人で読書を楽しむ女性や散歩帰りの老夫婦、仕事の合間にひと息つきに来たビジネスマンなどが、それぞれのオーダーした一品を前に静かな午後のひとときを過ごしていた。
 鍋島もまたこのカフェが好きだった。宿直明けで早朝に非番となったときでも、わざわざ開店時間まで時間を潰してから訪れることがあった。普段から圧倒的に女性客の多い店だったが、彼にしてはめずらしくそういうことは気にならなかった。彼と同じように一人の客が多く、各々が互いの邪魔にならないよう節度を守っている印象があったからだ。食事のメニューも充実していたし、喫煙できるというのもありがたかった。だけど結局、客の多いときは鍋島は煙草を吸わなかった。

 真澄はテーブルの奥の方の席で、ジャスミンティーを注文して鍋島を待っていた。淡いサーモンピンクを基調とした花柄のワンピースに白のロングカーディガン、べージュのシンプルなニーハイブーツという着こなしで、挙式を控えて今までで最も長く伸ばした髪を編み込んで左側に寄せていた。相変わらず色白で、今の季節がよく似合う。ガラスの扉を開けて店内に入ってきた鍋島に気づくと、いつものようにたちまち表情を明るくした。その様子は五年以上前からまったく変わらない。

「待った? ごめんな」
 鍋島は真澄の隣に座った。
「ううん、あたしこそごめんね、忙しいのに」
「全然」と鍋島は笑った。「警察は暇な方がええ」
 そして鍋島は小さく息を吐くと、お冷やを持ってきた店主にコーヒーを注文した。
「どう、少しは元気になったか?」
 真澄は目を細めて肩をすくめた。「そうね、ちょっとずつ、かな」
「麗子んとこ泊まったんやて?」
「うん。あのコのひどい晩ご飯食べさせられた」
「え、なんでまた?」鍋島は驚いた。
「結婚したらそうそうこんなこと出来ひんから、是非もてなしさせてって」
「あいつ、なに作った?」
「何かよく分からへんけど、たぶん、アクアパッツァみたいなものが出てきた」
「イタリアン」鍋島はがっかりした目で真澄を見た。
「うん、たぶん。パスタ……もあったし」
「そっちは」
「トマトベースやったから、なんとかそのへんの味を思い出して食べた」
 真澄は申し訳なさそうに眉根を寄せた。「幸い美味しいワインがあったから、それで流し込んだの」
「……死刑やな」と鍋島は溜め息をついた。
「勝ちゃんが上手すぎるからよ」
「俺のせいか?」
「そう、勝ちゃんのせいよ。だってあんなに美味しい料理を作るんやから、麗子は上手くなる必要なんてないんやもん」
「そんなん、あいつの責任やで。俺をちょっとも見習わんと、美味い美味いって食ってるだけなんやからな」
「だからそれが勝ちゃんの責任よ。麗子を甘やかせすぎ」と真澄は意地悪そうに笑った。
「納得出来ひんな」鍋島はふて腐れた。 
 コーヒーが運ばれてきて、会話が途切れた。鍋島は一口飲むと、ようやく本題に入った。
「中大路さんはまだ、どこにいるか分かってない」
「そう……うん」
「けど、ちょっとずつ糸口はつかめてきた」
「やっぱり、同級生の女性(ひと)が関係してるの?」
「いや、うん、まぁ……そうかな」鍋島は頭を掻いた。「その同級生の女は、関東在住なんやけど、一昨日からこっちの実家に帰ってきてるんや。理由は分からへんけど、中大路さんのことと何らかの関わりがあると思ってる」
「前に一条さんと麗子から聞いた、アンティークを扱ってる会社の男性というのは?」
「その男とも繋がってるみたいや。今、行動を共にしてるらしい」
 そこに暴力団員らしき人物も加わっていることは、鍋島は真澄に言えなかった。俯いてコーヒーを啜り、ガラス窓に広がる表通りを眺めた。
「勝ちゃん」
「うん?」鍋島は振り返った。
「あたし、詳しく訊かへん方がいい?」
「え? いや、そんな」鍋島はかぶりを振った。「訊いて。何でも」
 真澄はふっと笑った。「ごめんね、また勝ちゃんのこと困らせて」
「全然。なに言うてるんや。俺は真澄のためやったらなんでもするで」
「勝ちゃん──」
「冗談と違うよ」言葉通り、鍋島は大真面目に言った。「真澄は大事な友達やから」
「……ありがとう」
 真澄は言うとハンカチで口元を押さえ、それからジャスミンティーのカップを手に取った。その儚くも美しい仕草を見て、鍋島は不意に彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られた。

 ──なんちゅう不謹慎、ていうか俺はまだ思い上がった勘違いをしてるのか?
 
 いや、ちょっと違う。真澄に対してそんな(よこしま)な気持ちは毛頭ないし、いまさら自分が唐突に受け入れられるとも思っていない。 
 そう。ただ純粋に目の前の真澄が美しかったからだ。
 愛する人を心の底から案じ、想う姿が、こんなにも人を輝かせて映すとは。 
 
「どうしたの? 勝っちゃん」
「──あ、いや、何でもない」
 鍋島は咳払いをすると、残りのコーヒーを飲み干した。

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