Ⅱ.若さの悲鳴ー②

文字数 4,472文字

 刑事部屋の隣にある小会議室の椅子に座って、深見茜はずっと下を向いていた。
 白いハイネックの長袖Tシャツにグレーのニットのワンピースを合わせ、ボトムは黒のスキニーパンツに黒のブーツを履いていた。ナチュラルに見えてしっかりとメイクをし、栗色のロングヘアを縦ロールにカールさせている。はっきり言って、中学生には見えなかった。
 茜の隣には市原香代が、向かいには鍋島が座っていた。芹沢はいつものように少し離れた位置で、三人を見渡すように悠然とした態度でパイプ椅子に腰掛けている。茜の母親の春子を取り調べた時と同様、いつの頃からか完成された“隊形”だった。
 茜は自分に出されたホットココアには口を付けず、膝の上に置いたバッグのストラップを両手でしっかりと握りしめて、俯きながら視線を泳がせていた。刑事からのいくつかの簡単な質問──普段の生活や関心事について──には明確に答えたものの、昨日自宅で起こった出来事については曖昧な返事を繰り返していた。どうやら、今さら両親に対する興味は失せているようだった。
「──お母さんは、どれくらいのペースでお酒を飲んでた?」
 鍋島が訊いた。
「だいたい毎日」
「朝から?」
「休みのときは朝から」
「飲んでても普通に用事は出来てた? 掃除とか洗濯とか」
「そんなことしないもの」
「ほな、誰がやるの?」
「週に二回、掃除のサービスを頼んであったし、買い物と料理は一日おきにお父さんの店の人が来てやってくれてた。あとは……みんなそれぞれ、自分のことは自分で」
「よそのお母さんみたいに、キミやお父さんの世話をせぇへんかったんや」
「全然。仕事でほとんどいないし、夜遅くに帰ってきたときはいつも酔っぱらってるし。休みの日は朝から飲んでるから、寝てばっかり。まともに歩くこともできない時もある」
「……歩けへんくらいか」
 鍋島は小さく頷いた。「ご両親、今までにも大きな喧嘩をすることはあった? その……暴力的な」
 茜は首を振り、きっぱりと言った。「ありません」
「口喧嘩は?」
「お母さんの休みの日はお父さんが家に戻ってくるから、そのときはいつも喧嘩になった」
「喧嘩になるのに、何でわざわざ戻ってくるんかな」
「戻ってこないと、お母さんがヒステリー起こしてうるさいから。お父さんの仕事中に何度も携帯に電話したり、酔っぱらってレストランに押しかけたり、あとは……愛人のマンションに怒鳴り込んだり……お父さん、それが嫌だから戻ってくる約束をしたんだと思う」
「なるほどね」
 鍋島はやれやれという感じで首を振ると、じっと自分を見つめている茜に気づき、咳払いをした。
「いいですよ、軽蔑しても」茜が言った。
「いや、そんなんやない」
 バツが悪そうに答える鍋島を見て、芹沢がふんと笑った。
「──お母さんは、捕まったんですか」
 落ち着き払った言い方だったが、茜の声は深く沈んでいた。
「捕まったわけやないよ。事情を聞くのに、任意で警察に来てもらったんや。任意って、分かるかな」
「分かります。自分の意志で、ってことでしょ。あたしがここへ来たのと同じ」
「そう。ところが、お母さんは昨日もひどく酔っぱらってて、お父さんとの間にいったい何があったのかをまったく覚えてはらへんようから、キミからも話を聞きたかったんや」
「じゃあ、自分がやったんじゃないって言ってるんですか」
「そうではないよ。とにかく、覚えてないって」
「──そうなんだ」 
 茜は無関心な口調で言った。
「──キミは、学校には行ってなかったって聞いたけど」
 鍋島が言った。
「一年前から不登校」
「それに──」
「半分ひきこもり」
「半分?」
「ときどき、昨日みたいに出かけてたから」
 茜は言って顔を上げた。「そこそこ自立はしてる」
 鍋島はそれがどうしたといった感じで肩をすくめた。
「昨日はどこに?」
「……いろいろ。最初にミナミをうろうろして、キタにも行って」
 そう言って俯き、髪を指に巻き付けて顔の前に引っ張った茜を鍋島はじっと見つめて訊いた。
「何時頃から?」
「ちゃんと覚えてない。昼すぎ」
「ずっと彼と一緒?」
「琉斗のこと?」茜は視線だけ上げた。
「そう。西条(さいじょう)琉斗くん」
「琉斗とは、ゆうべの夜から」
「それまでは誰と?」
「……一人」
「昼過ぎから夜まで、ずっと一人でうろうろしてたって?」
「だってあたし、友達いないもん」
 吐き捨てるように言って俯いた茜を、鍋島は呆れ気味に眺めて言った。
「自分で気がついてないだけや」
「そんなことない。だいいち、友達なんて要らないし」
「西条くんはキミの彼氏か」
「違う。家が近所の友達。お隣さん」
「ほらみろ。友達、いるやないか」
 茜は一瞬目を見開いたが、すぐにぷいっとふて腐れて顔を背けた。
「お互いの自宅マンションが背中合わせやったっけ」
 鍋島は手元の資料を見て言った。
「そう。でも、うちのマンションが建ったことで、琉斗んとこは陽が当たらなくなったって、琉斗のお母さんは文句言ってたみたい」
「彼とは昨日会う約束をしてた?」
「……違う。うちの両親のこと、知らせてくれたのが琉斗。それであたし、そんなことになってるんだったら家には戻れないって言ったら、琉斗が出てきてくれたの」
「ふうん」
 鍋島は曖昧な返事をして、再び首を振った。そして落ち着き払った茜の態度に思わず溜め息を吐いたとき、芹沢が立ち上がってドアに向かった。
 怪訝そうな表情で自分を眺める茜と香代に向かって、芹沢は言った。
「風邪気味でね。ここ、空気悪いから」
 そして芹沢は部屋を出て行った。


 警察署の真正面に立つ石の鳥居の足許に腰を下ろして、西条琉斗は茜の出てくるのをじっと待っていた。
 待ちながら、ここへ来るまでの経緯を思い出していた。

 電話でのやりとりから四十五分後、千里中央のファミレスに現れた二人の刑事は、思った以上に若かった。一人はチビで、もう一人はびっくりするくらいイケメンで、彼が警察に対して持っていたイメージとはおよそかけ離れた男たちだった。
 チビの方は、だらけたようなパッと見のせいで最初のうちは気づかなかったが、自分たちを見つめる眼差しの端々から、ときどきではあったが、敵意のような威圧感のような、思わず身のすくむほどの凄味を感じさせた。イケメンはというと、その整った顔立ちとはまるで結びつかないほどの冷酷で殺伐とした空気に包まれていたかと思うと、ときどき急に柔らかい表情になり、完璧な笑顔で男の琉斗をも惹きつけた。
 二人とも、得体の知れないやつらだと思った。
 肝心の茜の様子は、刑事を相手にしているのにも関わらず落ち着き払っていた。彼女の頭の良さのおかげだろうなと琉斗はほっとしたが、ひとつだけ気に入らないことがあった。
 それは、店を出て駐車場に向かうとき、前を行く刑事たちと茜からは少し離れて歩いていた琉斗に、茜が近づいてきてぽつんと言ったひと言だった。
「──結構かっこいいんだね」
 茜が誰のことを言っているのか分かったし、それで琉斗は、俺の人生、やっぱり今度も負けたんだと思った。

 琉斗は小さく舌打ちして、警察署の玄関に目をやった。
 すると、こともあろうにあの刑事がこちらに向かって歩いて来るのが視界に入った。
 琉斗は顔を逸らしたかったが、その前に刑事と目が合ってしまったので、仕方なくそのままで彼が来るのを待った。
「狂犬くん」
 琉斗のそばまでやって来ると、芹沢は笑顔で言った。
「いいよもうそれは。西条って名前があるんやし」
 琉斗は迷惑そうに言った。
「彼女、待ってんのか」
「……ああ」琉斗は頷いた。「あかんの?」
「別に」
 そう言うと芹沢はしゃがんだままの琉斗をじっと眺めた。
「──なに」
 琉斗はうっとうしそうに芹沢を見上げた。「オレも逮捕?」
「誰一人逮捕なんてしてねえよ」
「茜のお母さん、逮捕したやんか」
「任意同行の上の事情聴取だよ」 
「……どうでもええわ。オレに何の用」
 つっけんどんに言った琉斗に、芹沢は笑顔を見せた。
「突っかかるね。俺に恨みでも?」
 別に、と琉斗は俯いた。「ただ、気に食わへん」
「へえ、何でだよ」
「……理由なんて無い。誰かて警察は嫌いやろ」
「そうだよな。俺も嫌いだし」
 芹沢は言うと自分も琉斗のそばに腰を下ろした。琉斗は怪訝そうに芹沢を見つめると、眉間に皺を寄せて言った。
「……なに。ワカモノに取り入ろうって魂胆?」
「そうしたかったら相手を選ぶぜ」
 芹沢は冷ややかに琉斗を一瞥した。「おまえ、あの()のことよく知ってんのか」
「……どういう意味」
「言葉の通りだよ。他の意味なんかに興味ねえ」
「……知ってるつもりやけど、あいつに言わせたらどうなんかな」
 琉斗は芹沢から視線を逸らし、警察署を見つめて言った。
「なるほど。そういう感じか」
「悪かったな」
「別に。青春時代にはよくあることさ」
「調子のいいこと言うなよ。自分にはなかったくせに」
「何でそんなことが分かるんだよ」
 芹沢は本気で憤慨したかのように言ったあと、ふんと笑ってまたすぐに真顔に戻った。
「ひとつ訊きてえんだけどな。昨日彼女と連絡取ろうとしたとき、すぐに繋がったか」
「何でそんなこと訊くんや。どうでもええやんか」
「どうでもいいことまでいちいち訊くのが俺らの仕事なんだよ。ほんと、かったりぃったらねえよ」
「……覚えてへん」
 いかにも自信なさげに答えた琉斗をたっぷり時間をかけて見つめたあと、芹沢は言った。
「そうか。覚えてねえのか」
 そして芹沢は立ち上がり、通りの車の流れを眺めながら言った。「帰った方がいいぜ。まだ時間かかりそうだし」
「ええよ、待ってるから」
「未成年だろ。一応親んとこへ帰すのが警察の

でよ」
「親なんて関係ない」
「またそれか。おまえらはそればっかだな」
 芹沢は振り返った。「こうやってプラプラしてられんのも、親がいるからこそだろ。めんどくせえこと言ってねえで帰れよ」
「オレの鼻」
「あん?」
 琉斗は人差し指を立てて鼻のそばに添えた。「この鼻見ろよ。曲がってるやろ」
「ああ。ベリーダンスしてるみてえだ」
「親父にやられた」
「ふうん」と芹沢は頷いた。「嘘だとは言わねえけど、鵜呑みにもしねえよ」
「そう言うと思ったよ。関わる気がないんやったら、オレのことは放っといてくれ」
「道理だな」
 芹沢は笑顔で言うと、じゃあなと軽く手を上げて通りに向かった。
 琉斗は不満そうに眉根を寄せ、車の途切れるのを待つ芹沢の背中を見つめていたが、やがて声を掛けた。
「なあ」
 振り返った芹沢に、琉斗は静かに言った。
「……あんたは、オレが持ってへんものみんな持ってるんやろな」
「たぶんな」
 芹沢は答えて、勝ち誇ったようににやりと笑った。

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