Ⅴ.辛辣な友情ー②

文字数 3,529文字

 浅野智宏は、鍋島と一条が揃って目を丸くするくらい穏やかな男だった。
 二人が自分を訪ねた趣旨を明け方の湖畔のような静けさで耳を傾け、言葉の一つ一つを深い湖底に落としていくようにのみ込み、それでいて水面にさざ波のひとつも立てない。
 その包み込むような空気感と、どこまでも清らかな存在感は、まるで位の高い聖職者のようだと鍋島は思った。
「──僕と中大路くんは、実は中学時代からの付き合いなんですよ」
 浅野は言った。銀縁の眼鏡の奥では、切れ長の透明な瞳が輝いていた。
「確か、洛翠(らくすい)学園のご出身でしたね、お二人は」
 鍋島が言った。
「ええ。あの学校からこの大学に進学するのはそんなにめずらしいことではないんですけど、僕らは実家も近かったし、通学時の交通手段が同じでね。そこからの付き合いです」
「そうなると──」
「かれこれ十八年というところです」
「じゃあ、何でもご存じなわけだ」
 と一条が無邪気な笑顔で言った。
「そうでもないですよ。たいていの人がそうだと思うけど、社会に出るとそれなりに別の世界、別の生き方というものも出来てくる」
 そう言うと浅野は一条に微笑みを返してきた。「お二人も僕の見たところ、学校を出られてからの世界がまるで違っているように思えますが」
「ですって、鍋島センパイ」
 一条は面白そうに瞳を開いて鍋島に振り返った。
「……まぁね」
 その逆だ。育った環境がまったく違っていて、それがどういうわけか今は同じ世界にいる。縁というのはまったく不思議なものだと鍋島は心の中で肩をすくめていた。
「それじゃ、もしかしたら最近はあまりお会いになっていないのかしら? だったら、昔のエピソードでも結構なんですけど」
 一条は首を傾げて浅野を見た。
「いえ、先月会いましたよ。同窓会で」
「同窓会? 洛翠の?」
「いいえ。大学のゼミのです」
「そのときは、真澄センパイとの結婚のことで、中大路さんとお話なさいました?」
「話すには話しましたけど、男同士ですからね。さほど込み入ったことまでは」
 と浅野は小さく首を振った。
「どんなことでもいいんです。僕ら、さんざん聞かされてきたありきたりのスピーチじゃなくて、二人のためにちゃんと準備したってことがわかるような内容のものにしたいんで」
 鍋島が言った。
「そうですねぇ……」
 浅野はメインディッシュのローストビーフを食べる手を止めて、右手で軽く拳を作ると顎に当て、俯いた。実に真摯な心持ちで考えているのが分かった。
「──やっぱり、さほど話さなかったと思いますよ」
 浅野は顔を上げて二人を見ると、少し申し訳なさそうな表情で眉根を寄せた。
「……そうですか」
 鍋島はがっかりして言った。浅野に合わせて自分も皿に置いていたナイフとフォークをゆっくりと手に取った。
 しかしその直後、浅野は意外な言葉を口にした。
「……話せなかった、と言うべきかな。厳密には」
「どういうことです?」
 鍋島が即座に反応したので、浅野は自分が失言したと悟ったようだった。苦い表情で二人を見ると、明らかに後悔した様子で視線を泳がせた。
「浅野さん?」
「いえ、何でもないんですよ。今の発言は忘れてください」
「どうして? そうはいかないわ」
 一条はあえて笑いながら言った。「せっかくですもの、お話しくださらないと」
「でもお二人は、僕に披露宴のエピソードになるような話を聞きに来られたんでしょう? 違うんですか?」
「もちろんそうです。でも、直接かかわりのないようなことでも、ヒントになりそうなら何でも聞いておきたいんです」
「ヒントになんてなりませんよ」
「大丈夫ですよ。それは僕たちで判断しますから」
「話せなかった、というのは、浅野さんか中大路さんのどちらかに理由があってのことですか」
「いえあの、ちょっと──」
「あるいは第三者?」
 たたみ掛けるように一条が訊いた。浅野には気の毒だったが、すでに彼女は刑事モードに切り替わっていた。
「お話くださいませんか。ここでの話は、真澄センパイには絶対に言いませんから」
「強引な人たちだな」
「すいません。あと五日しかないんで、こいつ、ちょっと切羽詰まってるんです」
 鍋島は苦笑いしながら、隣の一条を親指でさして言った。
「そうなんです。だからせっかくこうして浅野さんが会ってくださったんだし、何らかの収穫を得て帰らないと、わたし、披露宴で恥かいちゃいます」
 一条は実に困ったという表情を浮かべて浅野を見つめた。
「……いいでしょう。あまり頑なに拒むと、かえって要らぬ誤解を与えかねない」
 浅野は少々気を悪くしたようだったが、自分にもどこか迷う気持ちがあったのかも知れない。グラスに入ったミネラルウォーターをぐいとひと口飲むと、二人を交互に見据えて言った。
「いいですか、約束ですよ。この話は新婦さんには内密だって」
「分かってます」
 浅野は小さく頷くと、諦めたように話し出した。
「……同窓会にね。来てたんですよ」
「誰が?」
「元カノってやつです」
「……あ、ははぁ。なる……ほど」
 一条は遠慮がちに、納得した表情を作って頷いたが、鍋島は表情を強張らせた。
「彼女が来ることを中大路は知らなかったみたいです。だからずいぶん驚いていました」
「二人の間に、今は交流がないということですね。安心したわ」
「もちろんですよ。それに相手は、中大路が婚約していることも知らなかったようです。だから──」
「お話しできなかったんですね。結婚のことは」
「ええ。中大路はともかく、その──」
 浅野は言葉を切った。
「何です?」一条は浅野の顔を覗き込んだ。
「……いえ、何でもありません」
「話していただけませんか」
 浅野は強く首を振った。「祝辞を考えるのに必要なこととは思えません」
「きっとそうでしょうね。でもね浅野さん、わたしたち、ここまで聞いてしまったらすべて聞いておかないと納得はできません。祝辞を考えることとはもう別の次元のことです」
「そう言われても──」
「約束は守ります。真澄センパイには絶対に喋りません」
「ええやないか、一条」
 鍋島が言った。
「えっ?」
 一条はまさかという表情で鍋島に振り返った。嘘でしょ、とその瞳が困惑の色に満ちていた。
「もうええやないか。これ以上訊いたって、スピーチには何の参考にもならへんよ」
 鍋島は自棄っぱちに言って、ふて腐れた腕白坊主のように口を真一文字に結んだ。
「鍋島くん……」
「僕も同感です。どうしてもお知りになりたいというのなら、直接中大路に訊いてみるのがいいでしょう」
 浅野は言って、食べ終えたメインディッシュの皿にナイフとフォークを揃えて置いた。
「ありがとうございました、浅野さん」
 鍋島は言うと席を立った。「ではこれで」
「えっ?」と浅野は目を丸くした。「でも、まだ食事が──」
「そうよセンパイ、なに言ってるの?」
 一条は明らかに焦って、鍋島の肘を掴んだ。「落ち着いてよ」
 鍋島は構わずに続けた。「俺たちあんまり時間がないんで、ここで失礼させてもらいます。ここの支払いは済ませておきますから、どうぞごゆっくり」
 そして鍋島は一条の手を振り解き、出口へと向かった。
 唖然とした様子でその様子を眺めていた浅野は、鍋島が店を出て行くのを見届けると一条に振り返った。
「……いいんですか?」
「……信じられない。あれでも──」
 一条は言葉を切ると、首を振って頭を抱えた。
「あれでも、何です?」浅野が訊いた。
「いいえ、何でもないんです」
 そして一条は精一杯の作り笑顔を浮かべ、浅野を見た。

 レストランを飛び出した鍋島は、店の前の階段を降りるとすぐ北側の校舎の壁に背を付けて煙草を咥えた。
 火を点けようとしてすぐに諦め、空を見上げて舌打ちした。
 ふがいなさのあまり、どこかへ逃げ出したくなった。

 俺は──何をやってるんや?

 ひとしきり悔やんだところで、頭の後ろで抗議を受けた。
「いい加減にして」
 誰の声だか分かっていた。鍋島はゆっくりと振り返った。
 一条が立っていた。怒ってはいなかった。ただし、ひどく失望しているのがひと目で分かった。
「刑事を貫けないなら、邪魔だから降りて」
 それだけ言って、一条は彼に背を向けて歩いていった。
 一条の後ろ姿を見送りながら、彼女の言うように俺は今のままなら降りた方がええんやろなと思った。
 それと同時に、それも今さらでけへんのやろなとも思った。

 俺はほんまに……何をやってるんや。

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