Ⅲ.臆病がゆえの断罪ー③

文字数 5,328文字

 茜は足を引きずるようにしてソファの前までくると、まるで糸を切られた操り人形のようにすとんと腰を下ろし、疲れたような溜め息とともに言った。
「……何から話せばいいの」
「おととい起こったことを、始めから全部。琉斗とベランダで話す前あたりから」
「……かったるい」と茜は顔をしかめた。「長くなるよ」
「かまへん。こっちは馴れてる」
 茜は諦めたように頷くと、ぽつぽつと話し始めた。
「おとといは……昼前に起きて、少ししてからここに降りてきた。冷蔵庫から食べ物を持って部屋に戻って、それ食べてたら琉斗からメールが入って──」
 するとそこで、茜の腹時計がくぅぅ、と鳴った。茜は目を見開き、両手で腹を押さえた。
「メシ、ちゃんと食べてないんか?」鍋島が訊いた。
「だって……作る人いないじゃん」
 拗ねるように言った茜を、微かに口許を緩めて眺めていた鍋島は、その視線をキッチンに移した。
「冷蔵庫ん中、何かあるか」
「分かんない。おとといのままだったら、たいしたものは入ってないんじゃない」
「ちょっと見せてや」
 鍋島はキッチンに向かうと、料理人の台所らしく立派な設えと手入れの行き届いた道具に目を奪われつつも、そこで最も存在感を主張している黒い大きな冷蔵庫の前に立ってドアを開けた。
「料理できるの?」首を伸ばした茜が訊いてきた。
「親父さんほどではないけどな」
 鍋島は冷蔵庫を覗きながら答えた。「あるもん使(つこ)てええか」
「誰も困らないわ」
 鍋島はいくつかの食材を持った手で冷蔵庫のドアを閉めると、調理台に運んで頭上の照明を点け、茜に振り返った。「キッチン借りるで」
「なに作ってくれるの?」
「たいしたもんはよう作らん。簡単に出来るもんしか」
 鍋島は手を洗いながら言った。「話、続けて」
 茜は面白くなさそうに頷き、話を再開した。
「琉斗と少し話してから、部屋に戻ってメールを打ったわ。琉斗の少し前にメールしてきた援交の相手よ。五時に琉斗と約束してたから、すぐにでも会って、さっさと稼ごうと思った」
「琉斗のケータイ代か」
 鍋島は米を砥ぎながら言った。
「うん。あと、ライヴ行くのにお金も要るし」
「ところがここで予期せぬ事が起こって、全部リセットってわけやな」
「そう。琉斗にメールして、真優にも代役頼んで」
 茜はソファに置いた両手をピンと伸ばして背もたれに身体を預け、大きく溜め息をついた。「……サイアク」
「何があったか、説明してくれ」
「出かける支度をして部屋から出てきたら、口論してるようなパパの声が聞こえてきたの。帰ってきてるんだって思った。目が覚めたママとまた喧嘩してるんだって」
 鍋島はムール貝の下処理をしながら茜の話すのを聞いていた。たわしでよく洗ったあと、包丁で不要な部分を取り除いていく。相変わらずの手際良さだ。
「だけど、言い返す声が男だったから驚いたの。階段の上から覗いて相手の顔を確認したわ。知らない顔だった。パパの愛人の身内が怒って怒鳴り込んできたのかと思った。すぐそばでママが眠ってるのを見つけて、そんな状況でもまだぐっすり寝入っちゃってるのに呆れ返った。それから階段を少しだけ下りて耳を澄ませたの」
「二人は何を話してたんや」
「仕事の話。そのときは分からなかったけど、あとでおじさんが教えてくれたわ」
「その内容は後で聞くよ」
 鍋島は水を入れたボウルに少量の塩を溶かし、そこにムール貝を入れた。
「で、そのうち刃傷沙汰になったってわけか」
「にんじょうざた?」茜は怪訝そうに眉をひそめた。「どういう意味?」
 鍋島は肩をすくめた。「暴力沙汰ってことや」
「そうか……うん。パパが失礼なこと言ったのよ。だからおじさんはカッとなって灰皿でパパの頭を殴って、パパは倒れたの」
 茜は小さく首を振った。「びっくりして怖くて、身体が動かなかった。だけどおじさんは興奮気味で、ほっといたらさらにパパにひどいことしそうな感じだったわ。あたしは誰かに連絡しなくちゃと思った。気づかれないように階段のところまで戻って、スマホでパパのレストランにダイヤルしたところで、パパが相手の名前を呼ぶのが聞こえたの。西条さん、こんなことしてあんた、って……苦しそうに」
「琉斗の親父さんやって、咄嗟に分かったんか」
「分かったって言うより、あのときはそうとしか思わなかった」
「それでレストランに電話するのをやめたんやな」
「別におじさんを庇おうと思ったからじゃない。とにかく、何で琉斗のお父さんがパパと話して、それでそんなことになったのか、事情を知りたかったから」
 頭の付いた海老の殻を剥いていた鍋島は顔を上げずに頷いた。
「……だけど、その事情を知る前に、あたしは気づいたら自分で思ってたのとは全然逆のことをしてた」
階下(した)へ下りて、二人の間に割って入ったってことか」
「……そういうことになるのかな」
「西条がさらに親父さんに危害を加えようとするのを止めようと?」
「……違う」
 茜はぼそっと言うと、両手で頭を抱えた。「……パパが……パパがものすごい大声を出したから」
「大声?」
「おじさんに向かって、おまえは最低の人間だって。頭から血を流してるのに、ヒステリックにぎゃあぎゃあ喚き出したの。あたし、さすがにママが目を覚ますんじゃないかと思って、そうなったらますますややこしくなっちゃうのは分かってたし、ママはパパなんかよりもっとひどいこと平気で言う人だから、だからとにかく、パパを黙らせなくちゃって──」
 茜は言葉を切ると肩で大きく息を吐いた。「音をたてないように、それでいて出来るだけ素早く下りてキッチンに行った。それで、そこから……包丁を持ち出したの」
 鍋島はさっき、あらゆる種類のナイフや包丁が整然と並ぶ抽斗から今使っている包丁を取り出したとき、そこに一か所だけ、明らかに主を失っている空間があったのを確認していた。
 そして鍋島は続きを話すのを躊躇っている様子の茜を少しのあいだ見つめると、思い直したように手にしていた小ぶりの玉ねぎを手元に置き、半分に切ってみじん切りを始めた。
「ゆっくりでええよ。まだ料理に時間かかるし」
「……大丈夫。話せる」
 茜は言うと大きく深呼吸をした。
「両手でしっかり包丁を持って、リビングに向かった。途中、ママのそばを通るとき、熟睡してるのを確認して、それから……おじさんがあたしに背を向けてるのも確認して、それでそのへんに倒れてまだ喚いてるパパに突進したの」
 茜は言うと、テーブルを挟んだ自分の正面の床をぼんやりと眺めた。
「パパの膝のへんに馬乗りになって、そのまま倒れていった。包丁がパパのお腹にズブブ、って沈んでいくのが分かった。パパは両手を顔の横で開いて、それはもう唖然とした顔で、ただあたしを見つめて口をパクパクさせてた。なんで茜が、って言おうとしてるのが読み取れたわ」
 茜が淡々と話すのを見ていた鍋島はここで初めて重い溜め息をついた。
 またひとつ、気の滅入る現実を目の当たりにさせられ、どうにもこうにも、やり切れなくてたまらない。まだ慣れろと言うのか。
 鍋島は重い口調で言った。「西条はどうしてた」
「パパと同じくらいびっくりしてた。自分が殴った相手の娘が、突然包丁持ってその父親を襲ってきたんだもの」
 茜は言うとふっ、と笑った。「……今から思うと、まったくのお節介よね。おじさん自身も、そこまでしようとは思ってなかったはずだもの。大きなお世話もいいとこ」
 鍋島は小ぶりの片手鍋にオリーブオイルを垂らし、海老と貝を入れて炒め始めた。「それでどうしたんや」
「すぐにパパの意識がなくなって、あたしはすぐさま、おじさんもあたしもここから逃げ出さなくちゃと思ったわ。やるべきことの優先順位を間違わないようよく考えて、決めたら迷わず行動に移した。一つの行動をとっているあいだに次の段取りを考えて……必死だった」
「最初は何をした」
「おじさんを逃がしてあげた」
「カメラに映らん方法で?」
 茜は鍋島に振り返った。「冷蔵庫の横に扉があるでしょ」
 鍋島は冷蔵庫の隣の壁を見た。そこには30cmくらいの金属製の手すりが横長に付いていた。その周囲には縦60cm、横40cm程度の切り込みが見える。造り付けの収納庫のようだった。
「開けてみて」
「ちょっと待って」
 鍋島は片手鍋の蓋を開けて中の様子を確認すると、輪切りの烏賊を入れて再び蓋を閉めて弱火にした。そして収納庫らしきもののところまで行き、取っ手を持って手前に引いた。
 中はちょうど大きなトランクひとつがすっぽりと入るくらいの空間で、底が金属製になっていた。今は何も入っていない。
「ダストシューターか」鍋島は言った。
「そう。そこにゴミ袋を入れて扉の横にあるボタンを押せば、地下のゴミ集積所まで一直線よ」
「……なるほどな」
 鍋島は扉を閉めると、すぐ脇にあるボタンを確認した。
「ここから逃がしたんか」
「おじさん、ずいぶんビビってたけど。捕まりたくないでしょって言ったら、覚悟を決めたみたい」
「キミ一人に罪を被らせることには何の躊躇もなしか」
「そんなことない。茜ちゃんも一緒に逃げようって言ってた。でも、だったら誰がボタンを押すのって言ったら、仕方なく納得したわ」
「……その程度か」
 鍋島は調理台に戻って来ると、さっきの鍋を火から下ろしてキッチンペーペーを乗せたザルを使って汁をこし、水と顆粒スープを足した。それから足元の扉を開けて今度は浅めの大きな両手鍋を取り出した。さっと洗って火にかけ、みじん切りの玉ねぎとにんにくを炒め始めた。
「……いい匂い」
 茜は目を閉じて呟くと、立ち上がってダイニングテーブルに移って来た。そしてちょうど鍋島と向き合う位置の椅子に腰を下ろすと、あどけない笑みをたたえて言った。
「なに作ってるか、だいたい分かった」
「あとは全部ぶっこんで炊き上げるだけ」と鍋島も微笑んだ。
「すごいね。刑事にしとくの、もったいないね」
「褒めるんは食べてからでええよ」
 そう言うと鍋島は真顔に戻った。「西条を逃がした後は?」
「……ママに罪を被せるための工作。あたしの服に返り血が付いてたから、ママに着せた。カーディガンだったから、少しは手間取ったけどなんとか着せられたわ。あたしとママはほぼ同じサイズだし、ばれないと思った」
「母親が気付くとは思わへんかったんか?」
「分かりっこないわ。あのアル中に」茜は鼻白んだ。「包丁を握らせるときだって、全然起きなかったし」
「……終わってるな」
 鍋島は思わず呟き、そしてしまったという感じで片目を閉じた。
「いいのよ。その通りだもん」茜は肩をすくめた。
「西条と親父さんは何の話をしてたんや?」
「おじさんがリストラに遭って仕事がなくなったから、二週間ほど前にパパのレストランで雇ってくれって頼んでたんだって。その話し合い。おじさんは元ホテルマンだから、パパも店で雇うのにはちょうどいいと思ったみたい」
「ところがおとといになって決裂したってわけか」
「そうみたい。ほとんど決まってたのに、パパが突然白紙に戻したんだって。逃げる前におじさんが言ってた」
「それで殴りかかった」
「それだけじゃない。パパがひどいことを言ったのよ」
 茜は怒ったように言い捨てた。「おまえの家族はみんなクズ野郎だ、負け犬だ、何の能力もないから、そうやって人に頭を下げるしかないんだって。息子だって、うちの娘にまとわりついて、うすのろで汚らしくて……まるでドロボウ猫だって──」
 茜はぎゅっと唇を噛んだ。「……最低よ。自分は浮気して家庭を壊してるくせに。あいつに琉斗の何が分かるって言うの?」
 鍋島は何も言わず、食器棚から取り皿を出してスプーンとともにテーブルに運んできた。茜の前に置いてキッチンに戻り、ミトンを使って両手鍋を持ち上げると、ゆっくりと茜の前に戻ってきた。
「できあがり」
 蓋を開けると、白い湯気とともにサフランの香りが茜の顔の前にパァッ、と広がった。
「……やっぱパエリアだ」
 茜はぽつりと言った。そして皿に取り分けると、スプーンを待った手を両手を合わせ、ひとさじすくって口に運んだ。
「どう」
 換気扇の下で腕組みして煙草を(くゆ)らせていた鍋島が訊いた。
「美味しい」
 茜は熱さに弱冠の苦手さを垣間見せながらも、満足そうな笑顔を見せた。
「すごいね。すぐにでもパパの店に──」
 そう言いながら彼女はふた口目をすくおうとしてその手を止めた。
「……バカみたい。パパの店、もうおしまいよね」
 鍋島は黙って煙を吐いた。
「琉斗だって……どうして……」
 茜の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
 鍋島は慌てて茜に背を向けた。シンクの蛇口を捻って煙草を消し、三角コーナーに捨てるとそのまま俯いて固まった。
 ──もう、たくさんだ。
 大声で叫ぶ精神力などどこにもなく、鍋島はただ、茜から顔を背けるしかなかった。
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