Ⅳ.届かぬ気持ちー②

文字数 3,448文字

「──茜のこと、疑ってるんか」
 琉斗は言った。
「どうしてそう思う?」
「そんな言い方やんか、今のは」
「そうだっけ」
 芹沢はとぼけたように言って笑った。
「茜のオフクロさん、何にも憶えてないんやて?」
「彼女から聞いたのか」
 うん、と琉斗は頷いた。「せやし茜のことも疑ってるんやな」
「疑ってるわけじゃねえよ」と芹沢は言った。「ただ、誰一人信じてもいねえってだけさ」
 冷たい言葉を吐いているくせに、それとはまるで不釣り合いな透き通った笑顔を浮かべている刑事をどうしても理解できずにいながらも、琉斗は探るような視線で彼を見た。
「……昨日のことなら、ちょっと思い出したけど」
「気が乗らねえのに、無理に話すことないさ」
 芹沢にあっさりと言われて、琉斗は戸惑った。しかし手に持ったコーヒーの缶を顔の前に掲げて、自分もまた何気ない口調を心がけて言った。
「これと、サンドイッチの借りを返すまでや」
「へえ、そうかい」
 芹沢は琉斗に振り返ると、口の端っこに僅かに笑みをたたえて彼を見据え、そして静かに言った。
「……俺を

なんて考えねえことだぜ」
「えっ」
 琉斗は一瞬どきっとしたが、すぐに答えた。「そんな気はないよ」
「ならいいけど」
 芹沢はひょいと肩をすくめた。「で、何を思い出したんだ」
 琉斗は小さく頷くと、少しだけ声のトーンを落として話し始めた。
「──昨日、あいつと連絡を取ろうとしたときのことやけど──」
「そのことか」芹沢はふんと鼻を鳴らした。「そりゃおまえ、忘れてたのを思い出したんじゃなくて、しらばっくれてたのを話す気になったってことだろ」
「……そんなことはないよ」
「まあいいさ。それで?」
「オレが最初に茜のケータイに電話をかけたときから、実際にあいつと話すまでには実はだいぶ時間があった」
「どのくらいだ」
「四時間……三時間半くらいかな」
「普段そんなことはないんだろ」
「うん。たいていすぐに返事は返ってくる」
「そのあいだ何やってたか、彼女に訊いたか」
「訊こうとしたけど……訊きそびれた」
「ファミレスで十時間も向かい合ってたのに?」
 琉斗は情けなさそうにゆるゆると頷いた。
「それはつまり、何をやってたかがある程度は想像できてて、それがどうも訊きづれえことだったってことか。それとも、彼女とはおまえは何でも訊けるような関係じゃなかったか」
「……どっちも」
 琉斗はさっきの茜との会話を思い出し、それでまだ胸に棘が刺さったままなことに気付いた。

 ──茜は、ほんまにもうオレのことを必要としてないんかな──

 それを見て芹沢は少し呆れ顔で頬を緩め、両手を体の後ろの地面につくと長い足を投げ出して言った。
「自分で認めたら最後、それ以上はないぜ」
「えっ──」
「てめえでライン引いちまったら、それを越えようとはしなくなるもんだって言ってんだ」
「……分かってるよ」
 そうは言ったものの、琉斗には思ってもいないことだった。
「それで? 何を想像してたんだ」
「……あいつの家庭のこと、知ってるんやろ」
「もちろん」と芹沢は頷いた。「両親がそこそこ成功者で、それぞれに好き勝手生きてる」
 琉斗は頷いた。まるで自分の家庭のことのように、哀しげな顔をした。芹沢は続けた。
「有名私立に籍を置いてる娘は、不登校で引きこもりだ」
「あいつのせいやないよ。だって──」
「ああ、待った」
 芹沢は軽く手を上げて琉斗を制した。「そこんとこの説明はわざわざ要らねえから。悪りぃけど、そういう話は今までにも腐るほど聞いてるんでな」
「………………」
 琉斗は不満そうに芹沢を睨み付けた。芹沢はふんと笑うと、悪気のない表情で言った。
「話の脱線は避けようぜ」
「……そうやったな」
 琉斗は諦めたように頷くと続けた。「そういう家庭の中に居るもんやから、あいつはこれまでに何べんもトラブルを起こした。万引きから始まって、すぐに不登校になって、煙草、酒、夜遊び、家出、それに……」
「援交」
「……知ってたんか」
「そうじゃねえ。パターンさ。いくら親からたんまり小遣いがもらえる家庭の子供だって、本人が家出して帰らねえんじゃそのうち金も底を突く。そうなったとき、女の子の場合はやることなんて決まってる」
「そうやって両親にSOSを出してたんや」
「とことん味方するんだな。頼もしいよ」芹沢は微笑んだ。「で、昨日も彼女はどっかのエロオヤジをカモりに行ってたんじゃねえかって?」
 琉斗は黙って頷いた。
「何でそう思ったんだ」
「……あいつが引きこもる前、何回かやったことがあるみたいやったし」
「本人がそう言ったのか」
「あいつの友達から聞いた。不登校になったときから、ときどき様子を見に来る友達がいるんや。オレも顔見知りになった」
「その友達も経験者か」
「知らん。学校で噂が流れてたらしいけど。そういうときの女子のネットワークは頼りになるみたいやで」
「どうだかな」
 芹沢は鼻のふもとに皺を作って言った。「さっき俺は誰一人信用してねえって言ったけど、そん中でも女の噂話ほど信用できねえもんはねえと思ってる」
 芹沢の言葉を聞いているのかいないのか、琉斗は独り言を言うように呟いた。
「……オレは結局、あいつによう訊かんかった」
「そりゃ訊けねえだろ」
「そしたらさっき、あいつから金を渡された」
「金?」
 琉斗は頷いた。「二万円。オレの携帯代やて。テストが赤点ばっかりで、部活も返上で補習受けさせられるから、ほとんどバイトに行かれへんのやて、オレが言うたんや」
「それで彼女が稼ぎに?」
「……それだけのためかどうかは知らんけど」
「何だかんだ言って、ずいぶんと惚れられてんじゃねえか」芹沢はにやりと笑った。
「からかうなよ。そんなんやない」と琉斗は憤慨した。「オレがあいつに短いメールしか送らへんからや。電話もせえへんし」
「だからそれが彼女には不満なんだろ? そういうのを惚れられてるって言うんだよ、まったく」
「……そうなんかな?」
「知るか。ノロケ話なんか聞きたくもねえ」
「自分から言い出したんやんか」
「うるせえよ。脱線してる暇はねえって言ってるだろ」
「あんた、面白いな」琉斗は愉しそうに言った。「そんだけ男前なんやから、ヒガむ必要なんか無いのに」
「いいから、話を元に戻せよ」
「オレの着信に気付かへんかったんは、その金を稼いでたからなんや」
「ちょっと待った、そっちには戻すな」
「……何やねん」と琉斗は眉間を歪ませた。
「おまえ、その金受け取ったのか」
「どうでもええことと違うんか、あんたには」
「そうなんだけどよ。気になってよ」
「ったく……」琉斗は溜め息をついた。「安心し。突き返したよ」
「よし。そうじゃなきゃ男じゃねえ」芹沢は満足げに頷いた。「話、進めろ」
「脱線すんなって言うてるくせに、自分が脱線してるんやろ」
「こっからは超特急だ」
「ところが話はそれだけや」琉斗は突き放すように言った。「でも、あんたはやっぱり鵜呑みにするつもりはないんやろ」
「そうだな」と芹沢は即答した。「仮にその話が本当だったとして、そのエロオヤジを

できたところで、そいつは絶対に認めやしねえよ」
「そうやな」
「だけど、一応ここには留めとく」
 芹沢は言って、左側のこめかみの少し上を人差し指で叩いた。
 琉斗はほっとした。良かった。何とかこの刑事は取り込めた──

 そこで芹沢は立ち上がり、また河を眺めながら言った。
「どうだ、少しはすっきりしたか」
「うん──えっ」
 琉斗は反射的に頷いたが、すぐに思い直した。「何で?」
「だってよ。いくらおまえらが周りはみんな敵だと思ってるからって、何もかも黙ってるってのはしんどいだろうと思ってよ」
「………………」
「肝心なことは、まだその腹ん中に抱えてるみてえだけどな」
 芹沢は言うとゆっくりと振り返った。
 そして、その瞳が今までで一番恐ろしく、執拗で、氷のように冷ややかなくせにねっとりと熱い、ドロドロに溶けた鉛のような鈍い輝きを放っていたことを、琉斗は見逃さなかった。

 ──この刑事は、ただものじゃない──。

 琉斗は愕然とした。オレはもう、終わったかも知れん──。
「──乗れよ。家まで行くから」
 芹沢が言ったのを、琉斗は小刻みに震えながら聞いた。

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