Ⅱ.横浜にてー①

文字数 3,352文字

「──それで警部は、その淑恵って女がどう関わっているのか、こっちでどうやって調べるつもりなんです?」
 刑事課と同じフロアにある自販機コーナーの前まで来ると、二宮瞬はいくぶん咎めるような口調で一条に訊いた。
「そこなのよね」
 後ろにいた一条は軽く握った右手を顎にやった。「実はまだ決めかねてるの」
「決めかねてるって……」
 スーツのポケットの小銭を自販機の投入口に入れ、二宮は一条に振り返った。
「何にします」
「え?」
「ブラックでいいんですか」
 二宮は黒い缶のコーヒーのボタンに手をやった。
「あ、大丈夫よ。自分で買うから」
「一緒に買いますよ。お金はいただきます」
 二宮は色白の肌に似合った穏やかな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、その右のカフェオレで」
 それぞれの缶コーヒーを手にすると、二人はそばに並んだ長椅子に腰を下ろした。一口啜り、二宮が一条に言った。
「婚約者の行方はまだ分からないままなんですね」
「ええ」
「まさか、最悪の事態になってるなんてことはないでしょうね」
「何とも言えないわね」一条は肩をすくめた。
「いいんですか、そんな呑気なことで。帰って来ちゃったら、俄然身動き取れなくなったじゃないですか」
「だけど、休みは二日が限度だし」
「そりゃそうですけど……」
 二宮は不満げに言いながらも諦めたような溜め息をついた。「……事件として成立してない以上、警部には捜査権限も義務もないわけだし、つまりはやれることにも限界があるってことですね」
「たとえ立件できたとしても、そもそもあたしには管轄外だわ」
「大阪府警にとっても」
「……ええ」
 一条は二宮をじっと見つめた。「二宮くん、あなた──」
「ボクの知ってることは」と二宮は一条の言葉を遮った。「警部には大阪府警にイケメンの知人がいる、ってことだけですよ」
「それを知ってるなら充分じゃない」一条は苦笑した。
 まあね、と二宮は肩をすくめた。一条はコーヒーを一口飲み、気を取り直したように顔を上げた。
「とりあえず、淑恵の会社をもうちょっと調べられないかなと思ってるの」
「そこしかないでしょうね」と二宮は頷いた。「……ただ、ボクのネットワークによる調査はそろそろ限界が見えてきましたよ」
「分かってるわ。足を使うことも必要だってこと。戻ってきた以上、そのつもりよ」
「そうなると、仕事が邪魔ですね」
 確かに、と一条は肩をすくめた。缶コーヒーを持った両手を膝の上で揃え、可憐な笑顔で二宮を見た。「二宮くんは今、どんな事案を抱えてるの?」
「引き込む気満々ですね」と二宮は苦笑した。「いや、もうとっくに引き込まれてるんだった」
「どう解釈するかは二宮くん次第」
「いいですよ。ボクは今、簡単な傷害事件を一件抱えてるだけですから、自由になる時間はあります」
「それはあたしも同じなの。だから一緒に組まない?」
 一条は嬉しそうに言った。「その傷害、垣内(かきうち)主任と組んでるの?」
「最初はそうでしたけど、被疑者も逮捕したし、あとは供述内容の裏付けだけなんで、ボク一人でやってます」
「じゃあそれ、あたしも手伝うわ」
「課長がいいと言いますかね」
「言うでしょ。本音は違うだろうけど」
「というのは?」
「一昨日あたしが休暇延長の電話を入れたとき、彼は一応は許可してくれたけど、どうやらあたしに自分の代印をさせたいようなニュアンスが言葉の端々からひしひしと感じられた。だけどそんなものは単に彼の怠慢体質からくるものだわ」
 一条はお得意の高飛車な口調で平然と言った。「部下が忙しい時間をやりくりして書いた書類に目を通してハンコを押す仕事がイヤだと言うんなら、管理職になんて就かずにずっとヒラでいればいいのよ。ここはそれが可能な職場よ。あたしみたいなキャリアじゃなければ」
「……確かにそうですね」
 二宮は目の前の年下の上司の相変わらずの態度に、半ば呆れながらもゆっくりと首を縦に振った。
「今はそんなことはどうでもいいのよ」一条は顔をしかめた。「とりあえず、あなたの裏付け捜査にあたしが同行することをあの怠慢課長にうんと言わせてやらなきゃ。それで林淑恵の会社を調べるというのはどう? 一応は裏付けの方も手伝うわ」
「それでいきましょう」と二宮は言った。「だけど、そうやって隠れてコソコソやる以上、絶対にヘタは打てませんよ」
「分かってるわ。そこのところだけは失敗のないようにやる」
 二人は顔を見合わせると、お互いの揺るぎない意志を確かめるように強く頷き、立ち上がった。

 刑事課に戻ると、一条は課長の山中(やまなか)倉治(そうじ)警部に掛け合い、自分に二宮の手伝いをさせることを承知させた。山中課長は一条の自由奔放な振る舞いが大いに不満だったが、キャリアの幹部候補相手に本気で腹を立てても何一つ得はしないと分かっていたので、あえて何も考えないように勤め、黙って首を縦に振った。
「──ただし一条警部、あなた自身の仕事は継続してこなしてもらいますよ。その上で、二宮との裏付け捜査の報告書も上げてくださいね」
 課長は平然と言って、目の前に立った一条の顔を見上げた。
「もちろん、分かっています」
 一条も平然と答えた。 
 ──この小娘め。いつまでも現場にしがみついてないで、さっさと警視になってここから出て行け。
 山中課長は偶然にも自分の娘と同い年の課長代理を見つめながら、実に苦々しい思いで笑顔を浮かべた。
 その様子を自分のデスクからじっと息をひそめて見守っていた二宮に、すぐ隣の垣内巡査部長が声をかけた。
「二宮よ」
「えっ、はい」二宮は垣内に振り返った。
「おまえ、あのお嬢に何か頼んだのか」
「いいえ、何も」
 垣内は怪訝そうに目を細めて二宮を見た。「だったら何で彼女はおまえと組むなんて言い出したんだ?」
「ボクにだって分からないんです。さっき突然警部が言ってこられて──ちょっと迷惑してます」
 二宮は肩をすくめた。自分でも上手く演技ができているか自信がなかった。
「ふうん」
 垣内は毛深い右手でその浅黒い顔をするりと拭うと、今度は面白そうに口元を歪めて言った。
「突然休暇を取ったかと思ったら、一日遅れで出てきて、今度はほとんどカタの付いた事件(ヤマ)にちょいと横やりか。エリートの気まぐれにも困ったもんだな」
「そうですね」
「二宮。言っといてやるが、たとえキャリアだろうとあんな厄介モンに気に入られたところで何の得もねえぞ」
「分かってますよ」
「どうして山下署(ここ)が気に入ってんのか分かんねえが、早いとこ昇格してさっさと出て行ってもらおうぜ。彼女自身が何と言おうと、しょせんは霞ヶ(かすみがせき)の人間だってことに変わりはねえんだ」
「……そうですよね」
 二宮は本心の混じった溜め息をつきながら、視線の先の一条を眺めた。


 やがて、先に刑事課を出て行った二宮を追って玄関ロビーに下りた一条は、ロビーの隅っこで所在なさ気に佇んでいる二宮を見つけ、小走りで歩み寄った。
「何も言わないで先に行っちゃうから、焦っちゃうじゃない」
「ヘンに声をかけない方がいいでしょ」
 二宮は素っ気なく答え、歩き出した。
「どうしたの?」と一条は二宮の顔を覗き込んだ。「あたし、二宮くんに何か失礼なことした?」
「何もしてませんよ」
 二宮は吐き捨てるように言うと、立ち止まって一条に振り返り、じっと見下ろした。
「警部はそうやってボクのことを、『二宮くん』って呼ぶでしょ。それがすべてを物語ってるってことなんです」
「……何のこと?」一条は眉根を寄せた。
「いいんです。今さら言ったって無意味です」
「何よそれ。はっきり言ってよ」
「いいんですって」
「良くないわよ」と一条はむっとした。「ちょっと、何なの──」
「いいからさっさとやるべきことをやりましょうよ──!!」
 声を上げた二宮に、一条は思わず怯んだ。
「二宮くん……」
「……すいません。つい」二宮は舌打ちした。「とにかく、今は時間を無駄にはできないから」
「……そうね」
 歯痒そうな二宮の表情を見て、一条は溜め息をついた。


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