Ⅶ.一人ぼっちの二人ー①

文字数 4,441文字


「──彼、帰ってくる──?」
 すっかり暗くなった古都の街並みをカーテン越しのガラス窓の外に見下ろしながら、目の前の真澄の様子を見守っていた一条と麗子に、真澄はこう訊いた。
「真澄……」
 麗子は言葉に詰まった。
「──寛隆さんに……そんな女性(ひと)が──」
 真澄は囁くように言った。驚いているのだろうが、さほど動揺は感じられなかった。どちらかと言うと落胆しているように一条には見えた。
「とは言っても、再会したのはその同窓会でみたいだし、野々村さんの心配するようなことは無かったはずなの」
 一条は言った。
「そうよ、少なくとも真澄と知り合ってからは───」
「うん、分かってるよ麗子」と真澄は麗子の言葉を遮った。「大丈夫。あたし彼を……信じるから」
「……そうよね。ごめんなさい」
「ううん。あたしこそごめんね、心配してくれてるのに」
 真澄は言うと微かに笑顔を浮かべた。「ありがとう」
 その様子を見ていた一条はティーカップを口元に運び、心の中で溜め息をついた。日本橋の台湾カフェで二宮からの電話報告を受け、萩原と別れて麗子と一緒に京都に来てから早くも二時間が経っていた。そろそろ大阪に戻らないと、また横浜に帰り損ねてしまう。はっきり言って、一条には感傷に浸る時間はもう許されていないのだった。

 ──二時間前。京都に着いた一条と麗子は、二宮の調査報告にあった『慶福堂』に向かった。

 こぢんまりした二階建てのスタイリッシュな社屋は古い街並みにうまく馴染んでおり、人の出入りはさほど活発ではなかったが、時折出入りする人間が皆すっきりとした身なりをしているところが、なんとなく活気があるように思われた。
 二人が向かいのホテルの玄関に立ってしばらく様子を伺っていると、建物から一人の男が出てきて敷地内の駐車場に向かい、リアウィンドウにアルファベットで屋号を書いた車に乗り込んだ。男は慶福堂の従業員だった。
 三十代半ばくらいで、細めのシルエットのスーツに薄紫の洒落たシャツをノーネクタイで合わせた、小柄な優男だった。
「……ちょっと尾けてみるか。ずっと眺めててもしょうがないし」
 一条はホテルのタクシー乗り場に振り返り、停まっていた一台に駆け寄った。
 二人の乗ったタクシーは男の車を尾けた。すると驚くことに、男の乗った車は『ナカオオジ・インポート・ファニチャー』に到着し、男は慣れた足取りで店の中に入っていったのだ。
 五分ほどで男は中大路の会社から出てきた。車に戻り、次に男の向かった先は、京都市内でも東南の端に位置する、山科(やましな)区のとあるビルの一階にある会社だった。
 男がそこを訪れていたのもだいたい十分程度だった。彼が建物の前に停めた車に戻ってきたとき、連れが二人いた。一条はその二人をひと目見て堅気でないと見破った。
 彼らは短い会話を交わした後、二人が男を見送り、彼の車が走り去るとすぐに会社に戻っていった。

「──何なんだろ」
 引き続き男を尾行するタクシーの座席で麗子が首を傾げた。
「さあ。だけど、少なくとも今さっきの用件はまともな相談じゃないってことだけは分かるわね」
「どういうこと?」
「見送りに出て来てた連中。間違いなくヤクザ」一条は小声で言った。
「ウソ──」麗子は絶句した。
「住所と会社の名前控えてきたから、調べるわ」
 一条はカバンからスマートフォンを取り出し、再度二宮に電話を掛けた。
 二宮は僅か十分で当該ビルに事務所を構える指定暴力団の名前と簡単な構成メンバーを調べ上げ、一条に報告してきた。
《──警部。また暴走してるんじゃないでしょうね》
「大丈夫よ」と一条は笑った。「『また』って、どういうことよ」
《笑いことじゃありませんよ》二宮は真面目に心配していた。《そこは横浜じゃないんですから、無茶はしないでくださいよ。ボク、警部が後で追い込まれるようなことに手を貸すの、嫌ですよ》
「分かってるわ。ありがとう」
 電話を切った一条は隣の麗子に振り返った。そして麗子の表情から今の状況が彼女にとってただならぬ方向に向かっていることを察すると、タクシーの進行方向を見つめながら神妙な口調で訊いた。
「……なに? あの男、どこへ向かってるの?」
 生唾を飲むようにこくりと小さく頷いてから、麗子は答えた。「……真澄の新居だと思う」
「……なるほどね」と一条は男の乗った車を見て呟いた。「偵察ってわけか」
「何の偵察?」
「たぶん、こちら側の様子を探りに来たのよ。中大路さんがああいうことになって、彼の身内がどうしてるかってことを知りたいんでしょうね。さっき中大路さんの会社に行ったのもそういうことよ」
「待って、それってつまり、あの男が中大路さんを──」
「言うまでもないわ」と一条は頷いた。「実行犯はおそらくさっきの男たち」
「……やっぱり、林淑恵が関わってたってこと?」
「まだまだ乱暴な推理だけど、当たらずとも遠からず、ってところかしら」
「それで、林淑恵は、中大路さんのご家族や真澄が苦しんでるのを確かめたいってことなの?」
「そういう感情もなきにしもあらずかも知れないけど、それより、メディアの報道をチェックしても警察に届けられた気配がないから、こちらの動きが分からないんだと思う。もちろん彼らにとっては騒がれない方が都合が良いんだろうけど」
「新居に行って、何かするつもりかしら」
「それはこれからじっくり見届けさせてもらうわ」
 やがて男の運転する車はやはり、真澄と中大路の新居のマンションに到着した。男は車を降り、しばらくのあいだマンションを見上げていたが、特に何をするということもなかった。
 やがて車に戻った男は、何やら携帯電話で誰かと話していた様子だったが、それも五分ほどで終えると再びエンジンをかけ、自分の勤め先に戻っていったのだった。
 一条と麗子はこの事実を受け、こうなるといよいよ真澄に何もかも黙っているわけにはいかないのではないかと思うようになった。二人で相談し、真澄には厳しい話だが、今日までに判った事情を知らせておいた方が良いという考えに至った。そして麗子が真澄に連絡し、新居に呼び出したのだ。
「──鍋島くんや貴志にも意見を聞いた方が良かったかしら」
 スマートフォンをバッグに戻す麗子に、一条は訊いた。
「別にいいんじゃない」
 麗子はあっさりと言った。「女の気持ちは女にしか分からないわ」

 そして、今──
 新居の広いリビングで、一条と麗子は真澄にこれまでの経過を話した。真澄は黙って聞いていた。すべての事情を教えられ、真澄が初めて口にした言葉が、さっきの言葉だ。

 ──彼、帰ってくる──?

 まったく。とんでもないことに巻き込まれてしまったものだと一条は思った。
 挙式まであと数日というときになって、何でこんな心配をしなくてはならないのだ。昔の恋人が何を企んでいるのか知らないが、彼女がこんな目に遭わなければならない理由は何だというのか?

 現在(いま)の人間が、過去(むかし)に苦しめられるなんて──

 そんなことが、あってたまるものか。
 一条は時計を見た。そして何かを決意したような厳しい表情になると、二人に向かって言った。
「弱気になってちゃ駄目。信じると決めたのなら、生憎そんな時間はないわ」

 ──そうだ。思考と行動が感情にコントロールされてはいけない。
 あたしは、前に進むんだ。



 今日もまた慌ただしい一日がほぼ終わり、そろそろ夜の静寂を迎える準備をしているかのような穏やかな空気の漂う刑事部屋のデスクで、鍋島と芹沢はともに難しい顔をして考え込んでいた。
「──茜は、誰を庇ってるんやろ」
 腕組みをしていた鍋島は、ゆっくりと解くと頭を掻いた。
「母親でもなけりゃ、琉斗でもなかったってわけだ」
 芹沢は首を捻った。「深見が昨日の午後に会ってたって人物か?」
「琉斗の言うことが嘘やなかったら、やけど」
「嘘は言ってねえだろうけど、本田佐津紀が死んじまった以上、裏は取れねえな」
「一応、深見の店の従業員に訊いてみたんやけど、当日深見は休みで店に出てくる予定はなかったそうやから、休日の予定までは把握してないって。仕事関係の相手と休日に会うようなことはあったんかとも訊いたけど、そういうこともよくあるらしい」
「誰なんだろ」
「仕事の相手なんて、ぎょうさんいてるやろ」
 鍋島は溜め息をついた。「ただ、そうなるとますます理解に苦しむな」
「茜がわざわざ庇うような相手じゃねえってか」
「ああ。考えにくいやろ」
「確かにな」
 椅子の前後を反対にして座っていた芹沢は、背もたれに頬杖を突いた。「とにかく、会ってた相手ってのを探し出すしかねえな」
「やっぱり、茜に全部吐かせるのは無理か」
「……それが出来りゃ、一番いいさ」と芹沢は溜め息をついた。「あっさり見切りつけずにやってみるべきだとは思うけど、何とも言えねえな。気が乗らねえことだけは確かだ」
「同級生は? 茜の代わりにエロオヤジの相手してやったくらいやし、ほんまは全部知ってて、隠してるんと違うか」
「おそらくそれはねえ。あの子は全部喋ったよ」
 芹沢は言うと、そのときを思い出しているかのように眉をひそめた。 「──結局、茜が自分がやったって言い出しちまったもんだから、面食らってたぜ」
 鍋島は肩をすくめた。「防犯カメラの映像、明日提出させるわ」
「そうだな。その相手ってのが深見と二人で映っててくれりゃ、手っ取り早え」
「深見春子は知らんかな」
「もう一回訊いてみるか。包丁握らされても気付かなかったんだから、期待薄だけど」
「……情けないにもほどがあるな」と鍋島は吐き捨てた。「娘がギリギリのとこまで自分を追い込んでるのに、なんちゅう醜態や」
「あの夫婦は終わってる」と芹沢も冷たく言い放った。
「そんな相手に絶望したんか、それとも自分の病気に絶望したんか──本田の自殺も、茜と同じで自分を追い込んでのことやろ」
「病気のことも、間違いなかったんだな」
「琉斗から訊いて通ってた病院に確認した。本人の言う通り、春まで持つかどうかっていう状態やったらしい。真面目に治療を受けてたらしいけど、思わしくなかったそうや。入院も時間の問題やったって」
「そんな病状と、自分のおかれてる現状を考えると、自殺の理由には十分ってわけか」
「……たぶん」鍋島は俯いた。
「……琉斗がその慰めになってやってたとはな」
 芹沢は右手で顔を拭った。「……何やってんだ、あいつ」
「そう言うてやるな」
「分かってるよ」と芹沢は顔を上げて鍋島を見た。「今日一日でつくづく思い知らされたよ。あいつらは簡単じゃねえ」
「さとり世代のジレンマや」
「……そうだったな」
 芹沢は溜め息混じりで頷いた。

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