Ⅰ.恒例行事ー③

文字数 5,200文字

 取調室を出たところで、芹沢は通話ボタンを押した。
「はい」
《──今、メモとれる?》
 一条は言った。
「五秒待ってくれ」
 芹沢は背にした取調室の扉を開けて半身になってドアを支え、中の鍋島に『筆記具』のジェスチャーをした。鍋島は手元のボールペンと紙を芹沢に渡した。
「オッケー」
淀川(よどがわ)西中島(にしなかじま四丁目……)
 携帯電話を耳と肩の間に挟み、廊下の壁を下敷きにして芹沢は一条の言う住所を書き留めた。
「──名前が……池波リョウコ……『涼しい』に『子供』の子だな」
《電話番号案内で調べたけど、分からなかったの。独り暮らしだそうだから、おそらく家の電話は引いてないんだと思う》
「携帯番号を調べりゃいいんだな」
《うん》
「折り返し連絡するよ──ちょうど今、こっちの用件で同じことやってるから、すぐに分かると思う」
 芹沢は廊下を挟んだ向かいの刑事課で、市原香代が一係の高野茂(たかのしげる)係長と話しているのを眺めながら言った。
《仕事中に悪いんだけど、お願いするわ》
「で──この女は誰なんだ?」
《中大路の同級生Bよ。浅野と同様、披露宴に招待されてる》
「お嬢さんからの情報か」
《ええ。さっき電話もらったの》
「様子はどうだった」
《覚悟を決めたってまではいかないけど……少しは落ち着いた感じね。他への気配りをする余裕も出てきたし》
「そうか」
《……ねえ貴志》
 一条の口調が柔らかくなった。ビジネスモードから、プライベートモードに移ったことの表れだった。今、ここで彼女がそんな風に変わったのを意外に思いながらも、芹沢はそれで昨夜の彼女を思い出し、彼女の裸体を思い出した。思い出しながら、男だったらたいていがそうなのかも知れないが、俺の脳味噌の90%以上はエロ要素で占められているなと思った。
「……どうした?」
《恋人以外の異性から、ずっと想い続けられてる心境って、どんな感じかな》
「えっ?」
 芹沢は顔を上げた。「……な、なんだよ、それ」
 脳味噌の90%以上を占めるジャンルをフル回転していたせいか、唐突な一条の言葉に、芹沢は焦ってしまっていた。
《ついさっきのこと》
「さっき……?」
 その焦りのあまり、このとき芹沢は迂闊にも、自分にとっての“ついさっき”の出来事を思い浮かべてしまったのだ。

 ──なんでみちるは知ってるんだ? さっきのクリスマスプレゼントの一件を……。

《やっぱり、ほっとけないって思う?》
「い、いや、そこまで深く考えちゃいねえって。もっとそう、ごく軽い気持ちで──」
《軽い気持ち?》一条の声が鋭くなった。《軽い気持ちって、そんないい加減なはずないでしょ》
「いい加減ってわけじゃねえけどさ──相手が一方的に押しつけてくるんだから、仕方ねえだろ」
《押しつけですって?》今度はその声が大きくなった。《貴志はそんな風に思ってたの?》
「だってよ、こっちから頼んだことなんて一度もないんだし──」
《……信じられない。なに言ってるの? あんたたち男は、女の子が一途に想う気持ちがどれだけ切なくて胸の痛いものか、考えもつかないんでしょうよ》
「そこまで深刻なはずねえだろ。どうせ本命の男がいるんだし」
《貴志……!》
 電話を介してでも、一条の怒りが伝わってきた。芹沢はだんだんと面倒臭くなってきた。
「なにキレちまってるんだよ。たかがクリスマスプレゼントくらいで」
《……クリスマス?……プレゼント?》
 一条は急にトーンダウンした。《……何のこと言ってるの?》

 ──! ! ! ! ! しまった──! 何だか分かんねえけど、俺は確実にミスを犯した……!

「いやっ、何でもねえ!」
 芹沢はやたらと明るく言いながら、頭の中をフル回転させて最大限の知恵を絞った。
 しかし不幸なことに、電話の向こうの一条もまた、彼に負けないくらいの勢いであらゆる思考を巡らせていたのだ。
 そして──
《……完全に理解したわ》
 と、一条は静かに言った。
 裁判が結審したのだ。
「あぁ……」
 芹沢は思わず声に出して自分の愚かさを恨めしく思った。
《もらったプレゼント、今夜全部持って帰ってきなさい》
「……そんなのいいだろ。人に見せるもんじゃねえし」
 芹沢は諦めと開き直りの溜め息をついた。「言っとくけど、この先もっと増えるんだぜ」
《そうでしょうね》
 一条は落ち着いていた。《でもねえ、あなた、わたしに抵抗するのはもうやめた方がいいと思うわよ》
「……そうだったな」
 芹沢は項垂れた。頭の良い恋人を持つと、こういうことになる。
 そこへ香代が近づいてきた。芹沢が電話中なのを気遣って、調べられましたよ、と小声で言うと、メモ書きした紙切れを渡して取調室のドアノブに手を掛けた。
「──あ、市原さん、悪いけどもう一件、同じように調べてもらいたいんだけど」
 芹沢が言うと、香代はどちらかというと造ったような笑顔で頷き、芹沢が差し出した紙切れを受け取った。
「……悪いね」
 芹沢は何となく後ろめたい気持ちになりながら、左手を顔の前で立て、軽く頭を下げた。
 香代は何も言わずに刑事部屋に戻っていった。
「──ってなわけで今から調べてもらうから、ちょっと待っててくれよ。丸投げしちまって悪りぃけど、こっちの仕事もそこそこ立て込んでるんだ」
《分かったわ。じゃ、電話待ってるから》
「了解」
《プレゼント、持ち帰るの忘れないようにね》
「……分かってるよ」
 芹沢は溜め息混じりで言うと電話を切り、香代に渡されたメモを見ながら深見夫妻の娘の番号を押した。



 二十四時間営業のファミリーレストランで、二人は入口から一番奥の席に着き、氷が溶けて味の薄くなってしまったコーラを前に、黙って俯いていた。
 店に入ったのは昨夜の十二時前だった。二人が未成年なのは一目瞭然だったが、揃って私服で、彼女の方は派手な化粧もしていたので、特に誰に咎められるようなことはなかった。
 二人で一枚のピザを注文して、綺麗に半分ずつ食べた。フリードリンクも一緒に頼んだので、それからいろんな飲み物を試しながら過ごし、かれこれ十時間が経つが、相変わらず彼らに干渉してくる者はいなかった。しょせん、世間のオトナの正義感なんてそんなものだ。
 昨日、マンション前での騒ぎに出会(でくわ)した直後、彼は彼女の携帯に何度も電話を掛けた。しかし彼女は電話に出ることはなかった。彼は仕方なく自宅に戻り、自室の布団の上で不安に押し潰されそうになりながら数時間を過ごした。何度か窓の外を見たけれど、そこから彼女のマンションの様子を確かめるには距離が遠かった。
 やがて九時を回ってようやく、彼が彼女の携帯に残したメッセージ──『オレ。おまえんとこ、オヤジさんがお母さんに刺されて病院行ったって。お母さんは警察や』──を聞いた彼女が連絡してきた。彼女はひどく驚いて、怯えてもいたが、悲しんでいる様子はなかった。
 それから二人は環状線の京橋(きょうばし)駅で落ち合い、行くあてもなく、しかし自然と人目を避けるような方向ばかりを選んで、気がつけば大阪城公園まで来ていた。さすがに夜の大阪城周辺は物騒だと認識していたので、とりあえずは最寄り駅から電車に乗り、大阪駅に着いた。そして今度は北大阪急行に乗って北を目指し、千里中央(せんりちゅうおう)で降りた。そこまで自宅から遠くへ来たら何となく安心したが、逆に心細くもなり、空腹にも見舞われた。そこでファミレスかカラオケボックスなら自分たちのテリトリーだし、勝手も知っているからと、寒空に白い息を解き放ちながら歩き回り、ここを探しあてたのだった。
「──ママ、どうして今になってそんなことしたんだろ」
 彼女は呟いた。さっきから何度も同じことを言っている。
「何かあったんかな、オヤジさんとお母さんの間に」
 彼は言った。この言葉ももう何度目かだった。
「……昨日あたしが最後にママを見たときは、とっくにひどく酔っぱらってた」
 彼女はグラスのストローを回して、少しだけ残ったコーラに小さな泡を起こした。
「そんな状態で、あんな大きな親父さんを抵抗されずに刺すなんて……できるかな」
 彼は呟くように言って彼女を見た。「昨日はあれから、何時まで家に居たんや?」
「あのあと……十五分ほどしてから家を出たよ」
「あのあとって?」
琉斗(りゅうと)とのメールのあとよ……もう、何言ってんの?」
 彼女はちょっといらだったように、色白の愛くるしい顔をしかめて彼を見た。
「ごめん」彼は彼女から視線を外した。「オレ、頭悪いから」
 彼女は溜め息をついた。きっと彼が普段からこの調子で、彼女はそれにうんざりしているのだろう。
 それでも彼女は言った。
「琉斗は頭悪くなんかないよ。ちょっとニブいだけ」
「それをバカって言うんやろ」
「違うよ。周りが琉斗のことをそう言ってきただけでしょ。でも、あたしには分かってるよ。琉斗はいつだって、すごくいろんなこと考えてる」
「そんなこと言うの、おまえだけや」
 彼は照れくさそうに首を傾げて表情を崩した。
 そして、そんな彼の様子を満足そうに微笑んで見つめる彼女に、彼は昨夜会ったときからずっと訊きたかった質問をしてみようと思った。
「なぁ──」
 彼が勇気を出しかけたとき、無情にも彼女のスマートフォンが着信音を鳴らし始めた。彼は勇気を引っ込めた。
「──知らない番号」
 画面を覗いていた彼女は着信を切ろうとした。
「ちょっと待てよ。オヤジさんの病院からかも」
「病院?」
「それとも、警察とか」
「でも……携帯からかけてきてるわ」
 彼女は言うとスマートフォンを彼に差し出した。「ほら。090」
「オレが代わりに出ようか」
「琉斗が? でも、そうしたら切っちゃうかもよ」
「ほな、最初だけおまえが出ろよ。面倒臭いヤツやったら、オレが代わってやるから」
「分かった」
 彼女は通話マークをタップして、電話を耳に当てた。「はい」
《──深見茜さん?》
「……はい」彼女は電話を顔から離して彼に囁いた。「男よ」
 彼は即座に手を差しだし、電話を代わるようにと頷いた。彼女は素直にそれに従った。
「──もしもし。電話、代わったけど」
《あれ、キミ、誰》
「そっちこそ誰。何の用」
《西天満警察。茜さんに大事な用があるんだ。代わってくれる?》
「そんなん、どうやって信用しろって言うの?」彼は笑った。「近頃のワカモノは、そんなにアホじゃないで」
《アホ扱いなんかしてないよ。そっちがどう思おうと、ホントに警察なんだからしょうがないだろ》
「そんなら、信用できる証拠を見せろよ」
《……めんどくせぇな》
 電話の向こうで溜め息が聞こえた。《──じゃあ、いっぺんこの電話切るわ。そしたら悪いけど番号案内で西天満署を調べてかけ直してくれるかな。そこで出た相手に、キミは適当な名前を名乗って刑事課の芹沢って言ってくれたら俺に繋がる。そこで俺は今から聞くキミの本名を言う。それでどう? 信用できるかい》
「……分かった」
《一応、この声もよく覚えといてくれよ》
「ああ」
《じゃあ、キミの名前を聞いとこうか》
 琉斗は彼の出来る最速の早さで思考を回転させ、そして答えた。
「……浪速(なにわ)の狂犬」
 電話の相手が笑うのが聞こえた。《……ふざけやがって》
「ほな、あとで」
 電話を切って自分を見た琉斗に、茜は嬉しそうに微笑んで言った。
「──ね。琉斗はやっぱりバカじゃないよ」


 携帯を閉じた芹沢に、取調室から出てきて様子を伺っていた鍋島が声を掛けた。
「どうやった」
 芹沢はふんと鼻で笑うと、電話をポケットにしまいながら言った。
「ずいぶん大雑把な用心棒がついてたぜ」
「どういうことや」
「今に分かる」
 そう言うと芹沢は刑事部屋に戻った。折しも、一係の電話に内線からの呼び出しを告げるコール音が鳴った。デスクにいた刑事の一人が取ろうとするのを芹沢が制し、受話器を取った。
「はい」
《芹沢巡査部長にお電話です。ヤマダという男性から》
「分かりました」
 芹沢は電話機で点滅中のボタンを押した。
「芹沢です」
《──あ、もしもし》
 戸惑いがちの男に、芹沢は言った。「よう、浪速の狂犬クン」
《……ほんまに警察やったんや》
「ガキ相手に嘘ついて遊ぶほど暇じゃねえんでな」
《茜に用って?》
「その前に。そっちは俺が警察だってこと、納得したんだな」
《うん。一応》
「そうか。良かった」
 芹沢は廊下に振り返り、様子を伺っていた鍋島に頷いてから電話の相手に言った。
「だったらおまえはすっ込んでな」

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