Ⅳ.“未体験ゾーン”へー③

文字数 2,800文字

「――お待たせ」
 待ち合わせ場所のコーヒーショップに現れた麗子は、いつになくにこやかな表情を湛えていた。
 濃紺のステンカラーコートに紺と緑のチェックのストールを合わせ、インディゴブルーのデニムに黒のジョッキーブーツといういでたちだった。コートの中はオフホワイトのドレープドネックのニット、一番下に着たシャツの襟をシャープに立てて覗かせていた。大きくウェーブのかかった肩までの髪を軽やかに揺らせて、颯爽と歩いてくる。手に提げた年季の入ったブリーフケースはしかしながらひと目で高級品とわかるもので、高級ブランドにはからっきし縁のない鍋島もそれがエルメスであることは知っていた。
「悪いな。仕事中に呼び出して」
 先に来てコーヒーを飲んでいた鍋島は言った。
「いいのよ。もう講義はないし」
 麗子は手にしたコーヒーをテーブルに置くと、コートを脱いで席に着いた。
「そんな大きな荷物持ってるやんか」
「講義はなくても、仕事はあるわよ。時間の制約がないってだけ」
 麗子は言うと鞄を空いた椅子に起き、ちょっと怪訝そうに鍋島を見た。
「それより、どういう風の吹き回し? 今日はずっとケータイの話ばっかり」
「ああ……この際やし買おうかなって」
「この際? どの際のことよ?」
 麗子は両手で包み込むようにしてコーヒーを持ち、一口飲んだ。「何かあったの?」
「いや、そうやなくて……今からしばらく、芹沢と別行動になるから」
「そんなの今に始まったことじゃないじゃない。って言うか、今日はずっと彼とは別行動なんでしょ」
「まあな」鍋島はこめかみを掻いた。
「……ま、いいけど。どの際だろうと、勝也がケータイ持つことはあたしの積年の願いなんだし」
 麗子は言ってひょいと肩をすくめた。「でもそのあたしじゃなくて、芹沢くんのために買う決心したっていうのがちょっと気に食わないけど」
「怒るなよ」
「怒ってないわよ」麗子はふふん、と笑った。「だったら気が変わらないうちに買わなくちゃ」
「もう変わらへんよ」
「ならいいけど。だけどこんなところでのんびりしてていいの? 状況は厳しいんでしょ?」
「そのことで、ちょっと話があるんや」
「……だからわざわざここで待ち合わせたのね」と麗子は声を低くした。「……真澄と会って、何かあった?」
「いや、真澄のことやない」
 鍋島は俯いて頭を振った。それから思い出したように顔を上げて麗子を見た。
「そうや。おまえ、あいつに食わせたらしいな。


「ちょっと、言い方よくないよ」
「じゃどう言う? 家畜の餌か」鍋島はほくそ笑んだ。
「もういい」麗子は今度は本気で怒っていた。「あたしだって、真澄をなんとか励ましたいと思ったの」
「……そこでぬけぬけと手料理をチョイスするおまえの神経がわからん」
「少しは練習したもの」
「挙式前の大事な身体やぞ。腹壊したらシャレにならへん」鍋島は大真面目だった。「ええか。二度と一人で料理なんか作るなよ。どうしてもやりたけりゃ、俺と一緒のときにしろ」
「わかったわよ。じゃあ話って何よ」
「……今日一日で、だいぶいろんなことが分かった」
 そう言うと鍋島は麗子に、二宮と芹沢が京都で出会した出来事と、萩原から教えられた滋賀の元料亭の件について話した。
「――中大路さんのお母様が……?」
 麗子は驚きを隠さずに言った。「まさか、家族で真澄のこと騙してるって言うの?」
「まだ何とも言えへん」鍋島は言った。「だからそれを探りに行く」
「お母様に会いにいくってこと?」
 鍋島は首を捻った。「それが一番手っ取り早いけど、どうやって会うかが難しいって結論になった」
「真澄に頼むわけにも行かないものね」
「それに、新居マンション前での一件があったから、向こうはきっと今頃だいぶ警戒してるやろ。会えたところで素直にほんまのことを話すとは思えへん。そうなると時間のロスや」
「確かにね」
「芹沢はこの際やし母親の件は保留にして、滋賀の料亭跡に乗り込んだ方が手っ取り早いって言うて滋賀に向かった。俺も合流することになってる。けど、やっぱり俺は一度はあたってみようと思ってる。俺は芹沢とは立場が違うから今後のこともあってどうしても今、無視できひん。中大路さん救出はあの二人だけでも大丈夫や」
 麗子は得心したように頷いた。「じゃあどうやって探るの?」
「津田ってやつなら何か知ってるかも」
「専務の津田さんか――」麗子はコーヒーを見つめながら呟くと顔を上げた。「この前あたしたちが会った時は隠しごとをしてたってこと?」
「初対面の相手にベラベラと喋るようなやつやったか?」
「違うけど」
「やろ。けど挙式二日前にまだ中大路が出て来ぇへんこの事態になったら、さすがに何か喋ってくれるんと違うか。人柄としては信頼できそうなやつやったんやろ?」
「でも勝也が刑事だって知ってるだろうし、その点ではこの前より警戒するかも」 麗子は瞬きをして鍋島に答えた。
「刑事として行くんやない。おまえの婚約者として行く」
「婚約者?」
「つまりこのまま行けば、俺はいずれ彼らとは全く無縁の人間ではなくなる。遠い親戚とでも言うか」鍋島は言った。「そういう相手で、しかも警察の人間となると、現状では隠しごとは無理やと判断するやろ。それでも嘘をつくつもりなら、最初におまえらが訪ねて行った時から何も話さへんかったと思うで」
 麗子は鍋島が話すのをじっと聞いていたが、やがてコーヒーを一口飲んで言った。
「だったら、あたしはやっぱり中大路さんのお母様に会うべきだと思う」
「えっ?」
「勝也が近い将来遠い親戚になる立場の人間として会うって言うのなら、それは中大路さんのお母様の方が適してるわ。津田さんはあくまで他人よ」
「それはそうやけど……」
「あなたがその覚悟で臨むなら、お母様はあなたをただの刑事としては受け容れられないはずよ」
「そう思うか」
「ええ。観念するんじゃないかしら。あなたが腹を括った態度で行くなら」
 麗子は言って鍋島を見た。「その先にある、真澄への報告も含めてよ」
「それは分かってる」
「だったら、中大路さんのお母様に会う手筈はあたしに任せて」
「じゃあ頼む」
「そうと決まれば、まずはケータイね」
 麗子はコーヒーを飲み干し、荷物を持って立ち上がった。鍋島は彼女からカップを受け取り、自分の飲んでいたそれとともに返却コーナーへ持っていった。

 コーヒーショップを出ると、麗子は鍋島の腕に自分の腕を回して言った。
「ねえ、クリスマスは勝也の手料理が食べたい」
「またか?」鍋島は前を向いたまま眉根を上げた。「ええよ。何が食べたい?」

。あたしにも手伝わせてよ」
「……ホンマに負けず嫌いやな」
 鍋島は言って、小さく笑った。

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