Ⅰ.父の客ー②

文字数 4,172文字

 深見家が入居するマンションの管理会社から提出された防犯カメラの映像は、エントランスホールとエレベーターホール、二基のエレベーター内部、そして地下駐車場を撮影したものが中心だった。
 十二月十八日の午後一時頃から五時頃までにマンションを出入りしたのは、映像に残っている限りではのべ二十一人。そのうちマンションを出て行ったのは九人で、入ってきたのは十二人だった。しかしその十二人のうち半分の六名に関しては、出て行った方にもカウントされており、それぞれが鍵を使ってセキュリティシステムのロックを解除していることから、つまりはマンションの住人であると思われた。残りの六名は全員がインターホンを通して住人と連絡を取り、ロックの解除をしてもらっていた。その中の一名は宅配ピザの店員、一名は郵便配達員で、つまりあとの四名についてがとりあえず第一段階での調査対象ということになる。
 鍋島と芹沢は次に、その四名のエレベーター使用状況を調べた。男女二人ずつで、全員がエレベーターを使っていた。女性の一名は二十代前半、学生風。エレベーターの中でもずっとスマートフォンを触っており、五階で降りていた。もう一人の女性は四十代後半。着物姿で、大きなデパートの紙袋を提げ、十階に上がっていた。さらに映像を調べると、二人とも深見家の事件が起きた後の午後七時前後にそれぞれの階からエレベーターに乗り、マンションを後にしたことが確認された。
 残る男性二人のうち、一人は二十代後半の営業マン風。スーツ姿で、片手にコートとカバンを持ち、エレベーターに乗っている間はしきりに後ろ髪の寝癖を気にしていた。八階で降り、午後六時頃に訪問相手らしき人物と一緒にエレベーターに乗り込み、外出しているのが確認された。

 そして、最後の男が、どうやら疑惑の人物と思われた。

 男は四十代後半から五十代前半中背でやせ形、黒のレザーブルゾンにジーンズ姿で、手荷物は持っていなかった。薄い色が入ったサングラスを掛けていた。午後一時五分前にエントランスホールに現れ、インターホンでどこかの部屋の住人を呼び出すと、すぐに解錠してもらって中に入っていった。そしてエレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。ドアが閉まって上昇していくあいだ、男はチラチラと腕時計を見ていた。三階に着いてドアが開くと、男は周囲の様子を伺うようにして降りていった。
 しかし、この男がそれ以降、エレベーターに乗り込んできた映像は撮れていなかった。
「どこ行っちまったんだ、このヤロ」
 モニターに映った映像を繰り返し見ながら、芹沢は言った。
「……怪しいな」と鍋島は口元を歪めた。「帰るときだけ透明人間ってか」
 芹沢はふんと鼻を鳴らした。「そんな特技があるんなら、来るときからやってる」
「まさかまだあのマンションの中にいるとか」
「絶対にないとは言い切れねえけど、考えにくいな」
 芹沢は腕を組んだ。「別の出口っていうと──住人の車に乗って駐車場から直接出る方法か」
「そっちの映像もあったな」
 二人は目の前のテーブルに置いたディスクに視線をやった。芹沢が手に取り、今見ているものと入れ替えた。
「それにしても、何となく挙動不審やな」
「ああ。このマンションに来るのはおそらく初めてなんだろ」
「モンタージュ作って、三階の住人一人一人に確認取るか」
 鍋島はモニターに振り返った。「深見が喋ってくれるのが一番手っ取り早いんやけど」
「どっちにしても今すぐには無理だろうし、まずは深見春子と夫婦の周辺──それで駄目なら茜にも」
「現時点での聞き取りは無理やって言うてたんと違うんか」
「だけど写真を見たときの反応くらいは探れるだろ」
「そうやな」
 そして二人は駐車場の映像をすべて確かめた。しかし三階で降りた例の男は映っていなかった。
 男はどこからマンションを出て、どこへ消えたのか。
 そして、この男はいったい誰なのか。
「──何となく嫌な予感がする」
 鍋島はどこか哀しい溜め息をついた。芹沢はそんな相棒をじっと見つめ、そして呟くように言った。 
「……けどもう逃げらんねえよ」
 その表情もまた、微かに苦痛に歪んでいた。

 映像を元に男の写真を作成すると、二人は署を出た。
 まずは深見春子に確認を取ろうと連絡したが、自宅にはいないらしく、携帯電話も繋がらなかった。おそらくは夫の収容先の病院にいるものと思われた。
「直接行くか」
「ああ。のんびりしてる時間はないしな」
 二人は地下鉄の駅に向かってだらだらと歩き出した。
「──ところで、一条は大丈夫やったんか」
 鍋島が言った。
「何が」
 芹沢は無表情で相棒に一瞥をくれた。
「一日余分に休んだんやろ」
「大丈夫じゃなかったら、予定通りに帰ってるさ」
「そらまあそうやろけど……」
 鍋島は困ったように頭を掻いた。
「心配してくれんのか」
「……おまえにそんな余裕があるんか、って言うんやろ」
 別に、と芹沢は鼻白んだ。「お気遣いありがとよ」
「同業だけに、そのへんの煩わしさが分かるから」
「何だかんだ言って無理が利くんだろ。要は未だにお客さん扱いなんだと思うぜ。あいつが聞いたら怒るだろうけど」
「キャリアの宿命ってやつか」
「っていうか、現場にこだわるあいつ自身の宿命だろうな」
「休んだことがその宿命に拍車を掛けたんやないか」
「そこまで大袈裟な話じゃねえよ」
「だとええけど」
「あいつのことは心配要らねえ」
 芹沢は少し素っ気なく言い、それからどこか決心を固めたような表情で続けた。「俺がちゃんと見とく」
 そうか、と鍋島は頷いた。「分かった」
「それよか、おまえの方こそちゃんとフォローしてんのか」
「何の」
「三上サンのだよ」
「………………」鍋島は俯いた。
「痛いとこ突いたみてえだな」と芹沢は苦笑した。
「……逆にびっしりフォローされてる」
「やっぱそうか」芹沢は溜め息をついた。「ま、それもアリか」
「大きなお世話や」
「だろ。お互いさまだ」

 

 一晩を一緒に過ごした琉斗を朝早く送り出したあと、茜は風呂を入れて疲れ切った身体を癒すことにした。
 熱い湯に顎まで浸りながら、茜は昨夜の琉斗との時間を思い返し、それから一昨日の出来事を思い出した。
 
 

、支度を終えた茜が自分の部屋を出て階段を降りかけたところで、階下の話し声が聞こえてきた。
 声の主の一人は父親だった。もう帰ってきたのか、と茜は自分でも驚くくらい下品な舌打ちをした。
 ところが父親の相手は母親ではなかった。男の声だった。
 誰か客が来ているのだろうか、そうなると母親はいったいどうしているのだろうと気になった茜は、忍び足で階段を下り、踊り場の手前からリビングを覗き込んだ。
 父親が、一人の男と言い合いをしていた。
 誰なんだろうと茜は訝った。父親の店では見ない顔だ。年齢は父親と同じくらい。仕事の相手ではないのだろうか。もしかすると、例の愛人と関係のある人物かも知れない。いつまでも日陰の身に置いていることを抗議しに来たのか。 
 それから茜は隣のキッチンのテーブルに突っ伏している母親を確認した。こんな時でもまだ眠っている。いっそのこと病院かアル中更正施設に送り込んでやればいいのにと、茜はつくづくその酔っぱらい女に嫌気がさした。
 父親と男の口論は、やがて激しくなっていった。茜は少し心配になって、階段をさらに数段降りた。階下から見えないように壁にぴったりと身体をくっつけ、じっと息を殺し、耳を澄ませた。
「──だから、それでは最初の条件とは合わないでしょうって言ってるんです」
 父親の苛立った声がはっきりと聞こえた。
「だけど、他の条件はすべてのむと言ってるんですし──」
「それも含めてすべて承諾して頂かないと、契約できません」
 どうやら仕事の相手らしかった。だけど、アル中の女房がどうせまた飲んだくれていると分かっていて、それでもあえて自宅に呼ぶなんて、いったいどういうつもりなんだろうと茜は不思議に思った。見栄っ張りの父親にしてはずいぶんと勇気の要ることだろうに、なぜわざわざここを商談の場に選んだのだろうか。
「──深見さん、どうか考え直して頂けませんか」男が言った。
「駄目ですね」
「しかし、その件は直接仕事ととは関係が──」
「承知して頂けないのなら、残念ですが今回の話はなかったことにしましょう」 
 父親は強い口調で言うと、嫌気がさしたような溜め息をつき、それから小声で何か呟いた。
「……まったく、あんたらは……」
 茜の位置からは遠くて全部を聞き取れなかった。もう少し近づいた方がいいのかなと、壁づたいにゆっくりと身体を斜め前方ににずらせようとした、そのときだった。

 ガチャン、と何かが倒れたような音がした。 

 茜は思わず身をすくめた。そして恐る恐る、慎重に首を伸ばした。
 ソファに父親が横たわっていた。厳密に言うと倒れ込んでいた。両手で顔を覆い、足を曲げてごろごろと転がるように身もだえ、呻き声を出していた。テーブルのコーヒーカップがひっくり返って、茶色い液体が広がっていた。
 そして、相手の男がその脇に立ち、右手にテーブルに置いてあったステンレス製の灰皿を握っていた。 
 パパが殴られたんだ、と茜は理解した。あの男、なんて野蛮なヤツ。そう思いながらも、茜の身体は強張っていた。まるで麻痺呪文をかけられて、たちまち動けなくなってしまったゲームのキャラクターのように。
 ううう、と父親は唸りながらも覆っていた手を顔から離し、苦痛に歪んだ表情で男を見上げた。
 男は興奮した様子で肩を上下させ、怒りに満ちた声で言った。
「撤回しろ。今の言葉、撤回しやがれ」 
 ただごとじゃなくなってきた。茜はゆっくりと踊り場まで戻り、置いていたショルダーバッグの中からスマホを取り出した。
 アプリを開いて父親のレストランの番号を呼び出し、発信ボタンを押したところで、父親が相手の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「……さん、こんな、こと……して、あんた……」
 茜はそれを聞いて、発信を中断したのだった。


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