Ⅰ.明け方の来訪者ー③

文字数 2,046文字

 真澄は震えていた。
 部屋がすっかり暖まり、熱いコーヒーが身体の冷えを取り去ったあとでも、彼女の震えは止まらなかった。
 麗子は真澄の隣に寄り添い、ずっとその肩を抱いてさすり続けた。しかし、コーヒーカップを持つ真っ白な手が徐々に紅みを帯び、開いた唇が少し張りを取り戻したときになっても、彼女は全身を小刻みに揺らすのを止めなかった。
 そしておそらく、心が一番震えていたに違いない。

「──少しは落ち着いた?」
 リビングのソファに腰掛け、真澄の背中を撫でながら、麗子が優しく言った。
「ええ……ありがとう」
 真澄は力なく答え、カップの中に溜め息を落とした。
「話せる?」
「……うん、たぶん」
「無理しなくてもいいのよ」
「ううん、大丈夫。話さないとあかんもの」
 真澄が言って、麗子は頷いた。
「……中大路さんと何かあった?」
「………………」
「結婚式、大丈夫よね?」
「……たぶん」
 そう言うと真澄はカップをテーブルに置き、麗子の胸にもたれかかってきた。
「……あたし、もう、何がなんだか」
「何があったのか、言いにくいことなのかも知れないけど、できれば詳しく話してくれる?」

 リビングの前の廊下は、玄関から進むと突き当たりの左側が階段になっていて、二階へ向かって伸びていた。
 鍋島はその階段の下から三段目に腰を下ろし、リビングの二人の話に耳をそばだてていた。

 ──真澄の結婚が、間違った選択であって欲しくない──

 この一年間、彼はずっとこのことを考えていた。
 真澄は両親の勧める見合いで婚約者の中大路と出会った。
 鍋島は、自分が彼女の気持ちに応えなかったことが、少なからず彼女をその見合いに向かわせたきっかけになったと思っていた。
 当時から真澄はそれを否定していたが、鍋島は鵜呑みにはしていなかった。それでも、相手の中大路が思った以上の好人物で、自分なんかよりもはるかに真澄に似合いの男だと分かったからこそ、自分の心配などただの自惚れだと追いやることにしたのだ。
 だから、これで自分を救いたいのだろうと言われようとそれを嘘だと言い切れない彼は、真澄には中大路と幸せになってもらいたかった。

 ──この期に及んで、その考えか。俺は相変わらず、しょうもない男や。

 鍋島は両手で寝不足の顔を拭った。そのとき、
「寛隆さんがね」
 と、真澄が言ったのが聞こえた。鍋島は顔を上げた。

「いなくなったの。突然」
 麗子の肩にもたれながら、真澄はぼんやりと言った。
「いなくなった……?」
 麗子は信じられないといった声を出した。
「そう。今夜」
「どういうこと?」
「分からない。あたしがコンビニで買い物して部屋に戻ったら、さっきまで一緒にごはんの支度してた彼が、いなくなってたの」
「それは……自分の意志で、ってこと……?」
「違うと思う。ううん、やっぱり、それも分からない」
 真澄は首を振った。「だってね、あたしがコンビニに買い物に行ったのは……寛隆さんに頼まれたからなの」
 麗子は溜め息をついた。そしてきつい眼差しで宙を見た。
「最近の彼に、何か変わったことは?」
「特に何もなかったと思うんやけど……こんなことになったから、あれこれ思い出して……そしたら、すべてがおかしいような気がしてきて」
 真澄はまた震え始めた。「……何もかも、信じられへん」
「大丈夫? 何か羽織るもの取ってこようか?」
 麗子は彼女の腕をさすった。
 するとそこで隣のダイニングのドアが開いて、鍋島が入ってきた。麗子が振り向いた。
「勝也」
「勝ちゃん……?」
 真澄は麗子に預けていた身体を起こした。後ろを振り返って鍋島を確認すると、嬉しそうな哀しそうな、何とも複雑な表情になった。
「シチューでも作るよ」
 鍋島は麗子に言った。それから真澄を見つめると、微かに笑って、言った。
「何も食べてないんやろ」
「……うん」
 真澄は頷いた。
「そうだ真澄、だったらシチューを待つあいだに、お風呂に入ったら?」
「え、でも」
「そうせぇよ。そしたらもっと暖まるし」と鍋島。
「話はそれからゆっくりと聞くわ」
「……うん、分かった。じゃあ、そうさせてもらうね」
「用意してくるわ」
 麗子はにっこりと笑って立ち上がった。
 真澄は麗子に向かって頷いた。そしてテーブルに向き直り、カップを取って口元に運びながら独り言のように呟いた。
「……やっぱり、勝ちゃんやったんや」
 麗子が振り返った。「知ってたの?」
 ううん、と真澄は首を振り、それからほんの少しだけ笑顔になって言った。
「玄関に靴があったから」
「そう、だった……」
 麗子は感心したように溜め息をついた。慌てていたから、さっき玄関に出たときに片づけようと思っていたのを忘れていた。

 ──鍵と言い、靴と言い。

 冷蔵庫の中の食材を選びながら、鍋島はやっぱり麗子にはマリッジブルーは訪れへんなと確信していた。

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