Ⅴ.究極の成り行きー②
文字数 2,901文字
山科区は京都市の東南部に位置し、昔から京都と東国を結ぶ交通の要衝であった。
北は同じ京都市の左京区、西は東山区、南は伏見 区と接しているが、東側は滋賀県大津 市と隣接しているため、大津との結びつきも強い。江戸時代には山科と大津市の追分 までが東海道の街道筋として一つの町を作り、多くの行き交う人々で賑わったという。忠臣蔵で知られる大石内蔵助 が山科の西部にある西野 山に居を構え、毎夜のように東山を越えて祇園通いをし、世間の目を欺いたという話は有名である。
芹沢と二宮は、二宮が二日前に一条から調査を依頼された暴力団事務所の住所に向かった。JR山科駅から京都外環状線を南へ数百メートルほどの場所にあるその事務所は、細長い七階建てビルの一階に堂々と看板を掲げていた。と言ってももちろん「○○組」などという一昔前のヤクザ映画に出てくる馬鹿げたものではなく、ちゃんとした会社名の、ちゃんとした表札である。
通りの向かい側に車を停めた二宮は、ポケットからスマートフォンを取り出し、運転席の窓越しに遠慮がちにシャッターボタンを押した。
「何やってんだよ」芹沢が訊いた。
「事務所の画像を撮ってます」
「なんで」
「特に理由はありません。癖です」そう言うと二宮は芹沢に振り返った。「あなたが女子に『可愛いね』って言うのと同じですよ」
「…………」芹沢は舌打ちした。
「で、どうやって乗り込みますか」
「そりゃ正面突破しかねえだろ」
「え?」と二宮は目を剥いた。「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけねえだろ」と言い、芹沢はその言葉とは逆ににんまりと笑った。「丸腰で管轄 の外だぜ。この期に及んで、どんな小細工が通用するよ」
二宮はぽかんと口を開けて芹沢を見つめていたが、やがて独り言のように呟いた。「……思い出した。迂闊だった」
「何を」
「令状もなしに暴力団事務所に乗り込んで、派手に暴れまくった挙句に発砲、組長を現逮して連行したんだった。あんたたち」
二宮はごくっと唾を飲んだ。「それで危うく懲戒くらうところだったって」
「……そんなこともあったっけな」芹沢はふんと鼻を鳴らした。「それも調べたのか」
「昨日警部に聞いたんです。中華街でちゃんぽん食べながら」
「ありがとよ。メシどきの話題にしてくれて」
芹沢は肩をすくめた。そしてわざとらしく腕まくりをして、言った。「じゃ、そげな俺やけん、今回もいくばい」
「突然ですね」二宮は笑ったが、すぐに真顔になった。「怖くないんですか」
「何が」
「決まってるじゃないですか。仕事でもないのに丸腰でヤクザの事務所に乗り込んで、結果どうなるかってことがです」
「そーだなーちょっとコワいかもなーマジで」
芹沢はわざとおどけて言ったが、すぐに穏やかな口調で言った。「でも、それで尻込みするくらいなら、そもそもこんな話に乗ってねえよ。いくらあのお嬢さんの頼みでも」
「つまりは鍋島さんの頼みだからですか」
「それもちょっと違うな」
芹沢は首を傾げると、二宮を見た。「なんでそんなこと訊くんだよ。ここまで来て」
「昨日からずっと不思議に思ってたんですよ。あなたみたいな人が――」
「俺みたいな人って、どんな」
「クールで情に流されにくそうな人です」二宮は即答した。
「なるほど」芹沢は目線を落とし、小さくため息をついた。「俺はただ、自分なら出来ると思うことをやろうとしてるだけさ。バッジがあろうがなかろうが、最初 からそういう線引きはしてねえ」
「警察官になったときから?」
「そのずっと前からだ」芹沢は顔を上げた。「俺は自分を使い切って死にたいんだ」
芹沢の言葉に二宮はちょっと驚いた。しかしすぐに得心したように頷いた。「分かりました。お供します」
芹沢はにたっと笑った。「腕の鳴るちゃ」
「確か極真 空手の三段でしたよね」
「さすがだな……って言うか、同業者なら誰だってそれくらいの情報収集は朝飯前か」
「まあね」
「だったらこの際その情報をアップデートしてやるよ」
「というと?」
「空手だけじゃ飽きたらなくなって、最近総合格闘技も始めたんだ。週二でジムに通ってる」
そう言うと芹沢はややオーバーアクション気味にファイティングポーズをとった。
「マジですか?」
「嘘に決まってんだろ。そんな暇があったら迷うことなくナンパに費やすね」
「でしょうねぇ」二宮は呆れたように笑った。
「そっちは? ちょっと痩せてるけどまぁガタイはいいよな」
「ボクは剣道です。初段ですけど」
「上等だよ」
「杉並 にある北辰一刀流 の道場にも通ってます」
「そりゃすげえな。確か坂本龍馬 も――」
「嘘に決まってるじゃないですか。そんな暇があったらアキバのAKB劇場に通いますよ」
「確かにそっちのほうがしっくりくる」
そのとき、芹沢の携帯電話に着信があった。
「――誰だろ」
芹沢は訝しげに画面を見た。アドレス登録してある名前ではなく、見覚えのない番号だったからだ。
「調べましょうか」二宮がスマートフォンを持ち直した。
「いいよ、出る」
芹沢は電話を耳に当てた。「――はい」
《――あ、俺》鍋島だった。
「おまえかよ」芹沢はため息をついた。「どの電話からかけてんだ」
《スマホ買うたんや》
「はぁ?」芹沢は声を上げた。「いつ?」
《今》
「イマ? 今っつったかてめえ」芹沢は電話を持ち替えた。「その今は、NOWってことですか?」
《他に意味あらへんやろ》
「言ってくれるぜぬけぬけと」芹沢は押し込むように言った。「人があちこち走り回ってんのに、何やってんだよ」
《買えって言うてたやないか》
「言ったよ言ってましたよ、おまえと組まされたときからずっと」芹沢は今度は吐き出すように言った。「だけどこのタイミングですかね?」
《そこは成り行きや》
「カッコつけてんじゃねえよ」
二宮は黙ってこの様子を見ていた。彼にも全てが分かっていて、芹沢の怒りが伝わっていた。しかし、そのうち我慢できなくなって小刻みに震え、声を殺して笑いだした。
「……一人で買いに行ったのか」
間違いなく一つの答えを予測して、芹沢は訊いた。
《いや、れい――》
「わかったもういい。番号、登録しといてやるよ」
《……頼む》鍋島の声は遠慮がちだった。
「じゃあな。俺は忙しいんだ」
そう言うと芹沢は通話を切ろうとしたが、思い直して再び電話を耳に当て、言った。「それ、何の機種だ」
《……iPhone》
「……お揃いってことか」
芹沢はふん笑うと通話を切った。そして電話をポケットにしまうと、不敵な笑みを浮かべて二宮に言った。
「俺が仕事でもねえのに無謀な正面突破を選んだ理由だけど」
「はい」
「こんなめんどくせえこととっとと終わらせて、中大路って御曹司と鍋島の野郎を思い切りぶん殴ってやりてえからだよ」
二宮は大きく頷いた。「加勢しますよ」
北は同じ京都市の左京区、西は東山区、南は
芹沢と二宮は、二宮が二日前に一条から調査を依頼された暴力団事務所の住所に向かった。JR山科駅から京都外環状線を南へ数百メートルほどの場所にあるその事務所は、細長い七階建てビルの一階に堂々と看板を掲げていた。と言ってももちろん「○○組」などという一昔前のヤクザ映画に出てくる馬鹿げたものではなく、ちゃんとした会社名の、ちゃんとした表札である。
通りの向かい側に車を停めた二宮は、ポケットからスマートフォンを取り出し、運転席の窓越しに遠慮がちにシャッターボタンを押した。
「何やってんだよ」芹沢が訊いた。
「事務所の画像を撮ってます」
「なんで」
「特に理由はありません。癖です」そう言うと二宮は芹沢に振り返った。「あなたが女子に『可愛いね』って言うのと同じですよ」
「…………」芹沢は舌打ちした。
「で、どうやって乗り込みますか」
「そりゃ正面突破しかねえだろ」
「え?」と二宮は目を剥いた。「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけねえだろ」と言い、芹沢はその言葉とは逆ににんまりと笑った。「丸腰で
二宮はぽかんと口を開けて芹沢を見つめていたが、やがて独り言のように呟いた。「……思い出した。迂闊だった」
「何を」
「令状もなしに暴力団事務所に乗り込んで、派手に暴れまくった挙句に発砲、組長を現逮して連行したんだった。あんたたち」
二宮はごくっと唾を飲んだ。「それで危うく懲戒くらうところだったって」
「……そんなこともあったっけな」芹沢はふんと鼻を鳴らした。「それも調べたのか」
「昨日警部に聞いたんです。中華街でちゃんぽん食べながら」
「ありがとよ。メシどきの話題にしてくれて」
芹沢は肩をすくめた。そしてわざとらしく腕まくりをして、言った。「じゃ、そげな俺やけん、今回もいくばい」
「突然ですね」二宮は笑ったが、すぐに真顔になった。「怖くないんですか」
「何が」
「決まってるじゃないですか。仕事でもないのに丸腰でヤクザの事務所に乗り込んで、結果どうなるかってことがです」
「そーだなーちょっとコワいかもなーマジで」
芹沢はわざとおどけて言ったが、すぐに穏やかな口調で言った。「でも、それで尻込みするくらいなら、そもそもこんな話に乗ってねえよ。いくらあのお嬢さんの頼みでも」
「つまりは鍋島さんの頼みだからですか」
「それもちょっと違うな」
芹沢は首を傾げると、二宮を見た。「なんでそんなこと訊くんだよ。ここまで来て」
「昨日からずっと不思議に思ってたんですよ。あなたみたいな人が――」
「俺みたいな人って、どんな」
「クールで情に流されにくそうな人です」二宮は即答した。
「なるほど」芹沢は目線を落とし、小さくため息をついた。「俺はただ、自分なら出来ると思うことをやろうとしてるだけさ。バッジがあろうがなかろうが、
「警察官になったときから?」
「そのずっと前からだ」芹沢は顔を上げた。「俺は自分を使い切って死にたいんだ」
芹沢の言葉に二宮はちょっと驚いた。しかしすぐに得心したように頷いた。「分かりました。お供します」
芹沢はにたっと笑った。「腕の鳴るちゃ」
「確か
「さすがだな……って言うか、同業者なら誰だってそれくらいの情報収集は朝飯前か」
「まあね」
「だったらこの際その情報をアップデートしてやるよ」
「というと?」
「空手だけじゃ飽きたらなくなって、最近総合格闘技も始めたんだ。週二でジムに通ってる」
そう言うと芹沢はややオーバーアクション気味にファイティングポーズをとった。
「マジですか?」
「嘘に決まってんだろ。そんな暇があったら迷うことなくナンパに費やすね」
「でしょうねぇ」二宮は呆れたように笑った。
「そっちは? ちょっと痩せてるけどまぁガタイはいいよな」
「ボクは剣道です。初段ですけど」
「上等だよ」
「
「そりゃすげえな。確か
「嘘に決まってるじゃないですか。そんな暇があったらアキバのAKB劇場に通いますよ」
「確かにそっちのほうがしっくりくる」
そのとき、芹沢の携帯電話に着信があった。
「――誰だろ」
芹沢は訝しげに画面を見た。アドレス登録してある名前ではなく、見覚えのない番号だったからだ。
「調べましょうか」二宮がスマートフォンを持ち直した。
「いいよ、出る」
芹沢は電話を耳に当てた。「――はい」
《――あ、俺》鍋島だった。
「おまえかよ」芹沢はため息をついた。「どの電話からかけてんだ」
《スマホ買うたんや》
「はぁ?」芹沢は声を上げた。「いつ?」
《今》
「イマ? 今っつったかてめえ」芹沢は電話を持ち替えた。「その今は、NOWってことですか?」
《他に意味あらへんやろ》
「言ってくれるぜぬけぬけと」芹沢は押し込むように言った。「人があちこち走り回ってんのに、何やってんだよ」
《買えって言うてたやないか》
「言ったよ言ってましたよ、おまえと組まされたときからずっと」芹沢は今度は吐き出すように言った。「だけどこのタイミングですかね?」
《そこは成り行きや》
「カッコつけてんじゃねえよ」
二宮は黙ってこの様子を見ていた。彼にも全てが分かっていて、芹沢の怒りが伝わっていた。しかし、そのうち我慢できなくなって小刻みに震え、声を殺して笑いだした。
「……一人で買いに行ったのか」
間違いなく一つの答えを予測して、芹沢は訊いた。
《いや、れい――》
「わかったもういい。番号、登録しといてやるよ」
《……頼む》鍋島の声は遠慮がちだった。
「じゃあな。俺は忙しいんだ」
そう言うと芹沢は通話を切ろうとしたが、思い直して再び電話を耳に当て、言った。「それ、何の機種だ」
《……iPhone》
「……お揃いってことか」
芹沢はふん笑うと通話を切った。そして電話をポケットにしまうと、不敵な笑みを浮かべて二宮に言った。
「俺が仕事でもねえのに無謀な正面突破を選んだ理由だけど」
「はい」
「こんなめんどくせえこととっとと終わらせて、中大路って御曹司と鍋島の野郎を思い切りぶん殴ってやりてえからだよ」
二宮は大きく頷いた。「加勢しますよ」