Ⅱ.不本意な協力ー③

文字数 3,823文字

 
 四十分後に三上邸を訪れた一条(いちじょう)みちるは、彼女を呼び出した彼氏の憤慨ぶりとは正反対の、極めて冷静かつ堂々たる態度で、出迎えた麗子の前に姿を現した。
「初めまして。神奈川県警の一条です」
 ロングブーツの両足を綺麗に揃えて麗子と向き合った一条は、はっきりとした口調で名乗ると、手袋を脱いだ右手を差し出して握手し、同時に模範的なお辞儀をした。
「三上です。このたびは本当にごめんなさい」
 麗子も深々と頭を下げた。
「仕方ないわ、結局はこういう(さが)だから。彼もわたしも」
 一条は焦げ茶色のツイルコートを脱ぎながら言ってにっこりと微笑んだ。中には赤のニットに白黒のシェパードチェックのワンピースを合わせている。全身から溢れる気品と風格が、良家の生い立ちを雄弁に物語っていた。
「従妹の(かた)の様子はどうですか? 少しは落ち着いてらっしゃるの?」
「ええ、だいぶ。だけどずいぶん疲れてるから、本当はそろそろ休ませたいの」
「それがいいわ」
 一条は表情を引き締めて言い、麗子のあとに廊下を進んだ。

 ところが、部屋に入った一条はまず、厄介なもめ事にまんまと引きずり込まれたお節介の恋人には目もくれず、キッチンで自分の為に飲み物を用意していた鍋島を見つけると、つかつかと歩み寄り、カウンター越しに彼の正面に立って言った。
「鍋島くん、おはよう」
「おはよう。いろいろ迷惑かけて──」
「あなた、わたしがキャリアだってこと承知よね」
「え、ああ、もちろん」
「つまり赴任先の対象は全国ってわけ」
 一条はそう言うと鍋島をじっと睨みつけた。「いいこと。もしも将来わたしがあなたの上司になるようなことがあったら、少なくともわたしの在任中は絶対にあなたを出世させないからね」
「あ……そう……うん」
 鍋島は面食らって思わず頷いた。
「ずーっとヒラの刑事でいなさい。そこのバカと一緒に」
 そう言うと一条は右手の親指を勢いよく後ろに向け、肩越しに芹沢を指さした。
 左手を頭の後ろに回し、ソファに身体を預けてゆったりと食後のコーヒーを飲んでいた芹沢は、即座にカップをテーブルに置くと居ずまいを正した。
「聞こえてるようね」
 一条は芹沢の様子を気配で把握し、ふんと鼻で笑うと後ろを振り返った。
「あなたも覚悟しておくように」
「……分かったよ」
 芹沢は目を閉じて溜め息をついた。
 麗子と真澄は、ただ圧倒されながらこの様子を眺めていた。
 麗子は、芹沢が遠距離恋愛で交際している相手が彼らと同じ刑事で、しかも東大出のキャリア組だということ、その人物とは今年の夏、彼らが担当した事件を通して知り合ったということを、前に鍋島から聞いて知っていた。その際、
「かなりの鼻っ柱の強さや。あれに較べたらおまえなんておとなしいもんや」
 と恋人に太鼓判を押させるその彼女に、ある種の親近感を抱いていた。
 なのに、さっき玄関で彼女を出迎えたとき、その前評判からはまるで想像もつかない清楚で可憐な女性が現れたので、結局は男の観察力なんてたいしてあてにならないと思い、少し失望したところだった。
 ところがこの、想像をはるかに超える高飛車な姿勢。
 麗子は自分たちより明らかに年下の女性が自分の恋人を「くん」付けで呼んでいることはおろか、まるっきり部下に対するような命令口調で、ほとんど叱っているようにしか見えない彼女の様子を見て──実際、彼女は彼に腹を立てているのだろう──どういうわけか面白くなってきた。

 ──お見それしました。
 麗子は心の中で一条に頭を下げた。

 一条は次に、真澄のそばまでくるとさっき麗子にしたのと同じ挨拶をした。それからすぐに心配そうな表情を浮かべて真澄の顔を覗き込んだ。
「お疲れなんじゃないですか? そろそろお休みになった方が」
「いえ、大丈夫です」
「話なら、こちらの三人から聞きますので、遠慮なさらないで下さいね」
「ありがとう」真澄は微笑んだ。
 一条もにっこり笑って頷いた。ところが次の瞬間、
「さてと。

はこのくらいにして」
 と真顔に戻って呟くと、姿勢を戻して周囲を見回し、ちょうどコーヒーを運んできた鍋島に向かって訊いた。
「わたしは何をすればいいのかしら?」
 鍋島は席に着いた一条の前にコーヒーを差し出した。
「まず、今までの経緯やけど──」
「それは貴志に聞いたわ。さっきの電話で」
「完全に把握した?」
「一度聞いたらじゅうぶんよ。そういう訓練はできているわ」
「メールの内容も?」
「もちろんよ。でも“現物”があるなら一度見ておこうかしら」
 話を聞いていた真澄が、すでにメールが表示されているスマートフォンを一条に渡した。
「すみません。拝見します」
 一条は両手でスマートフォンを受け取り、それからメールを読んだ。


「マァミちゃん
 こんなことになって、ごめん。
 うちあけるべきかどうしようか、まよっているうちにこうなってしまった。
 でもこれはけっして、結婚のこととはかんけいないことです。
 結婚式までには、ぜったいに戻るから。きみはぜんぜんわるくはないから。
 わるいのはぼくで、きみにはもうしわけない。
 だから、しんじて待っててください。
 会社には、専務の津田がわかってくれています。
 ほかのみんなには、急な出張といってください。
 それから、これは無理なおねがいだとわかってるんだけど、
 ぜったいに、ぜったいに麗子さんにはしらせないで。きみには酷なことだけど、
 どうかおねがいします。
 かならず5日でもどります。
 愛しています。

                   寛隆」 


「──ひどい話ね」
 メールを読み終わった一条は顔を上げると、真澄をじっと見つめながらスマートフォンを返してきた。
「結婚式の五日前に。こんなメール一つで納得しろって、どういう了見? 失礼だけど、こういう男は──」
「やめとけ」と芹沢が言った。
 一条は少し顔をしかめて斜め後ろに振り返った。逆に芹沢はまったくの無表情で彼女を見据えた。
「非常事態でのメッセージだ。おまえがどうこう言う話じゃねえ」
「だけど──」
「そこは立ち入る意味がねえんだ。俺もさっき確認した」
「……そう」
 一条は一つだけ頷いた。そして真澄に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい。余計なことでした」
 真澄は強く(かぶり)を振った。無理を言って協力してもらっているのに、少しくらい生意気を言われたところで、文句など言えようか。
 やがて一条はしなやかな手つきでコーヒーを一口飲むと、麗子を見ながら自分の隣の席に腰を下ろした鍋島に言った。
「『絶対に麗子さんには知らせないで』。これが決め手なのね」
「ああ」と鍋島が頷いた。「麗子に知らせることはつまり、俺に伝わるってことやから」
「警察には知られたくないんだ」
「だからこそ、知った以上は放っとけへん」
「そうなるわね」
 一条は言って鍋島を見た。「考えられることは二つ……いえ三つよ。一、自分には何の落ち度もないのに、誰かから何かをダシに脅されている。二、自分が違法行為をしていて、昨夜のことがきっかけで警察に知られるのを恐れている」
「彼はそんな人じゃ──」真澄が顔を上げた。
「分かってるよ。あくまで可能性の話やから」
 鍋島は優しく言った。真澄は頷いた。
「三番目は?」と麗子が鍋島に訊いた。
「……つまり……この失踪は実のところ、最初の二つのどちらかが原因あるいは引き金となって行われた何者かによる拉致で、彼はその相手から警察には知らせるなと言われてる」
「拉致?」と麗子は眉をひそめた。「ということはつまり──」
「知らせたら、命の保証はないと」
 芹沢が答えて、自分の言葉で目を見開いた真澄に言った。
「これも仮説だよ」
「でも、そんな状況でメールが打てるかしら」麗子が首を捻った。
「文章を見て、お気づきになりませんでしたか。ほとんどの文字が漢字変換されず、そのまま入力されていました。それに僅かですが、文法上不自然な箇所もある。これはメールを打つ動作そのものか、もしくは時間にかなりの制約があったことを物語っています」一条が説明した。
「メールに返信はしてないよな」芹沢が鍋島に言った。
「ああ。もしも誰かの監視下にあって、その目を盗んでメールを送ってきたんやとしたら、こっちが返信することは彼の命取りになるからな。まさかとは思うけど、マナーモードにしてなかったらその時点で終わりや」
「おそらく、メールを打ってきたとき以外は電源は落としてるでしょうけどね」
 と一条は言った。
「真澄がマンションから中大路さんの携帯にかけたときも、もう既に出なかったんだものね」
 麗子が言って、真澄は頷いた。
「五日間か」と一条は呟くと鍋島を見た。「できそう?」
「やらなしゃあない」
「京都府警に任せるのも、一つの英断だと思うけど」
「分かってる。たった三人なんて、危険な賭けや」
「それでもやるのね。鍋島くんらしいわ」
「褒めてくれたと受け取っとくよ」
 一条は呆れ顔で微笑むと、芹沢に振り返った。
「貴志はどう思うの?」
「残念ながら、メールを見た時点で俺には選択権ってのがなくなっちまったみたいでよ」芹沢は自嘲気味に笑った。「だから、どうするべきかって迷うのもやめることにした」
 一条は不満げに芹沢を見つめていたが、やがて小さく頷くとゆっくりとテーブルに向き直った。
「……せっかくの休暇が台無し」
 そう呟くと頬杖をつき、鍋島に一瞥をくれて溜め息をついた。
「ありえない。またあなたたちと犯人捜し?」

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