Ⅳ.目覚めた想いー②

文字数 3,001文字

 九時を回り、部屋には少しずつ冷気が染みてきていた。麗子はオイルヒーターの設定温度を上げ、さりげなく真澄のそばに移動させた。
「――同窓会のあと、いろいろと悩みました。ビジネスとしてはどう考えても受け入れられない要求だと分かっていても、彼女に対するその――贖罪の気持ちが拭えず、また力になってあげたいという自惚れもあって、どうにかできないものかと。それで、本業の仕事を津田さんに任せて、慶福堂のことを自分なりに調べることにしたんです」
「中大路さんが一人で?」麗子が言った。
 中大路は頷いた。「同業者ですからね。完璧な精度とまではいかなくても、だいたいのところは分かると思ったんです。京都は狭いから」
 業界のつながりだけでなく、地域や世代のつながりも京都の場合は強い方だ。老舗の暖簾を守るため、様々なコネを大切にする。他所からの新規参入者に閉鎖的だと思わせる一因かも知れない。
「思ったとおり、事情は簡単に分かりました。というのも、慶福堂の業績があまり良くなかったからですが。とかくマイナスの評判というのは、具体的かつ広範囲に広がり、こまめに上書きされる。同時に藤村という男の評判も、いろいろと聞くことができました」
「そっちも良くなかったんだ」芹沢が言った。
「良くないというか――そうですね。印象は悪くないのだけど、実際の仕事ぶりはどうも頼りないという評判でしたね。慶福堂と取引をした際に彼と交渉をしたことのある知人に聞いたんですが、考えが甘いのか詰めが甘いのか、ちょくちょくミスがあったそうです。過去にも会社に迷惑をかけたことがあったとかで、結構崖っぷちだったんでしょう。案の定、少し前に何やら仕入れのミスで客と会社に大きな損害を抱えてしまったということでした。おまけにその客には……反社会的勢力の仲間がいた」
「それがあいつらか。山科の」
「そうです。久保(くぼ)と言って、あの事務所にいたスーツの男です。藤村氏が損害を与えた相手の、親戚筋にあたる人物だそうです。その久保が当事者そっちのけで出しゃばってきて、損害を補填できないなら、代わりに自分たちの言うことを聞けと言いだし、それができないなら会社と直接交渉だと脅され、藤村氏はいよいよ追い込まれた」
「それで恋人の林さんに泣きついたってこと?」麗子が言った。
「泣きついたかどうかはわかりませんが、彼女は助けようとしたんでしょうね」
「……素朴な疑問だけど、どうして林さんはそんな頼りない男を好きになったのかしら」麗子は素直に疑問を口にした。
「好みなんて人それぞれや」鍋島は苦笑して言った。
「それはそうだけど……なんだか林さんの聡明そうなイメージと合わないわ。勝手なイメージだけど」
 そう言って首を傾げる麗子を見て、芹沢がにやにやしながら言った。「おたくもなかなかの物好きだと思うけど」
「言うと思た……!」鍋島が舌打ちした。
 麗子はバツが悪そうに口元を歪めた。「……ごめんなさい、話の腰を折ったわ」
「――思いやりがあるらしいですよ」
 中大路がおもむろに言った。麗子たちは彼を見た。
「気配りが細やかで、何でも素直に話してくれて、その上聞き上手で。京都と横浜に離れていても、少しも不安にならないって、彼女は言ってました。愛されている実感があるんだと」
 そう言って自嘲気味に笑った中大路を見て、芹沢と鍋島も何とも言えない表情になり、小さく笑った。自分たちにも耳の痛い話だと思ったのだろう。
「ヤクザに脅された話は、同業者からの情報?」芹沢が言った。
「いえ、それは彼女からです。調査の結果、慶福堂と藤村氏の評判が良くないことが気になった僕は、単純に彼女のことが心配になり、連絡を取ったんです。そうしたらやっと具体的な事情を教えてくれて」
 中大路は顔をしかめてかぶりを振った。「案の定、潜り込ませて欲しい荷物というのはその連中から依頼された品だったんです。それが違法ではないなんて、とんでもない。そんな話は信じられるはずがない。引き受けるわけには行かなくなりました」
「当然そうなるよな。なのに、どうして自分たちでやろうとせずに、無関係の中大路さんを巻き込むっていうリスクをあえて犯したんだろ」
「藤村氏は慶福堂の一社員です。しかも会社に損害を与えて、社内での立場はなくなってる。だから勝手なことができなかったんでしょう。それでも脅しは止まない以上、何とかしなくてはいけない。そこで藁をもすがる思いで、僕に――ということだと思います。僕は一応経営者ですから、何とかなるのではと考えたんではないでしょうか」
 中大路は溜め息をついた。「――甘いっていうか、危ういっていうか。僕はちょっと、信じられませんでしたね。彼女がそんな風に短絡的な考え方をするのが」
 人を好きになってしまうと、そういうことになる。中大路と付き合っていたときもそうだったではないか。日本での生活を捨てて、突然中大路のいるロンドンまでやってきた。聡明でバイタリティのある女性、それだけが彼女ではない。愛した相手のためにはひたすら一途な女性。それもまたきっと彼女なのだ。麗子はそう思った。
「――そこで僕は、荷物の運搬を断る代わりに慶福堂が抱えている別の在庫を買い取ることを提案しようとしました。とりあえずそれでいくらかは損失の穴埋めになるだろうと思ったんです。けどその一方で、代金が損失の補填に使われずにヤクザに流れるのではないかという懸念もあって、なかなか決心がつきませんでした。警察に相談するよう進言しようとも思いましたが、それができるくらいならとっくにしているのだろうなと、変に気を回してしまい、結局はそれもできずに時間だけが過ぎていって……」

――過去を懐かしむようになったのは、歳をとった証拠かな――

 中大路が津田に漏らしたという言葉を麗子は思い出した。この言葉に込められたのはただの感傷ではなかったのではないか。迂闊だった、という中大路の後悔が聞こえてくるようだった。
「――やがて僕の存在が、その連中の知るところとなったんです。それでマンションの周りをうろつき始めて」そこで真澄に振り返った。「僕はゾッとしました。真澄さんに何かあったら、と」
 真澄は表情を曇らせ、小さく首を振って俯いた。そうなったときのことを想像して暗い気持ちになったというより、中大路が自分の心配をして不安になったことに心を痛めているようだった。
「遅い」
 鍋島が吐き捨てるように言った。中大路と真澄、麗子が彼を見た。
「まためんどくせえこと言うんじゃねえぞ」芹沢が頬杖をついたまま言った。「そんなことは、ここにいるみんなが思ってる」
 鍋島はバツが悪そうに俯いた。「……まぁ、そういうことや」
 芹沢はふん、と笑うと中大路に訊いた。「連中から直接の接触はあった? マンションの周りをただうろついてただけ?」
 中大路はかぶりを振った。「ありませんでした。実際、試みようとはしていたようですが」
「結局はいきなり拉致ったってことか」
「いえ、拉致というのは違います。僕が彼らをマンションに招き入れたんです。林さんを助け、真澄さんを守るには、僕が直接交渉するしかない、と思って」
「……なるほど」
 芹沢は口元だけで微笑み、鍋島に言った。「ヒーローの誕生だ」


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