Ⅲ.京都へー③

文字数 4,118文字

「──っに、二百平方メートル??」
 助手席の一条は、思わず声を上げると身体全体をひねって後部座席の真澄に振り返った。
「それで4LDKって……いったい、一つ一つの部屋はどれだけの広さなの?」
「聞いたらびっくりするわよ」
 運転している麗子が面白そうに言った。
 三人は今、麗子の運転で京都を目指していた。
 真澄が目覚めたのは午前十時を少し回った頃だった。すぐに支度をして、先に出かける用意のできていた麗子と一条とともに麗子のBMWに乗り込んだ。国道43号線を東へ走り、西宮(にしのみや)ICから名神(めいしん)高速に乗って、中大路が社長を務める会社のある京都市の中京(なかぎょう)区へ向かっているところだった。
「メゾネットタイプになってるの。せやから、ちょっと広めなだけ」
 真澄は顔の前で手を振った。「たいしたことないの」
「……今の言葉、まったく謙遜になってないような気がするのは、わたしの思考システムがひねくれてるから?」
 一条は言って麗子に振り返った。麗子はあはは、と笑った。
「一条さん、あなた面白いわね」
「あ、ごめんなさい。わたしちょっと、舞い上がっちゃって」
 一条は肩で息を吐くと、もう一度真澄を見た。「それで? どんな間取り? ただの興味本意で訊いてるんだけど」
「えーと、どうやったかなぁ……」
 真澄は顎に拳を当てて考え込んだ。「洋室が多いから、あんまりはっきりとは分からへんのやけど」
「とにかくね、一番小さな洋室が10帖なのよ。あとは全部それより広くて、リビングに至っては三十帖くらいあるの」
 麗子がフォローした。彼女も一度訪れており、そのときは今の一条以上にびっくりしたから覚えているのだ。
「トイレは一つなんてこと、ないわよね」
「……二つ」と真澄は答えた。
「お風呂も二つよ」麗子が付け加える。
「……億ションだ。間違いないわ」一条はひとりごちた。
「それでも、いずれは中大路さんのご実家に戻るそうよ。長男だから」
「ずっと先のことよ」と真澄は言った。
 終の棲家ではないところにそれだけの豪華さなのだから、実家は推して知るべしだと、一条は心の中で感心した。
「何だろ、そこまですごいこと聞かされると、ただ単純に羨ましい、って思っちゃった。ごめんなさいね、あれこれと下品なこと訊いて」
「ううん、ええの」
 そう言ってかぶりを振ると真澄は少し表情を緩ませた。
「一条さんだって、しょっちゅう羨ましがられてるでしょ」
 一条は困ったように微笑んだ。「羨ましがられるなんて(まれ)よ、嫌味を言われることはしょっちゅうだけど。どうしてみんな、東大出身者がごく自然な流れの一つとして官僚の道を進むことにそれほど突っかかりたがるのかしら」
「違う違う」
「そっちじゃない」
 真澄と麗子がほぼ同時に言った。一条はきょとんとした顔で二人を交互に見た。
「あ、いや、確かにそれもすごいとは思うけど」麗子が言った。
「じゃあ何。わたし、三上さんほど綺麗でもないけど」
「……何だか言いづらいなぁ」と麗子は眉を寄せた。
「一条さんも可愛いから、きっと気にならへんのよ」
「何のこと? まるで読めないんだけど」
 振り返った一条に、真澄はしたり顔で答えた。
「彼氏があんなにイケメンだってこと」
「それかぁ……」
 一条は顔をしかめて腕組みした。それからすぐにハッと気付いたような表情になると、今度は恥ずかしそうに言った。
「……やだ! わたし、自意識過剰だった?」
「ううん。もちろん、一条さん自身が羨望の的だってことはよく分かるんだけど、芹沢くんのことは間違いなくそこにトドメを刺したわよね」麗子が言った。
「正直、ちっとも羨ましがられる話じゃないと思ってるわ。何かとヤキモキさせられて、結構疲れるし」
「モテないはずがないもんね。あのルックスだもの」
 と麗子は冷やかしたような横目で一条を見たが、すぐに少しだけ深刻な表情になって訊いた。
「……あんまり女癖が良くないとか?」
「あんまりどころの話じゃないわ」と一条は溜め息をついた。
「付き合ってもうすぐ半年になるけど、毎月のようにかなり怪しい疑惑が発覚するの。わたしがこっちへ来たときは、絶対に一人や二人、いわくのありそうな女と遭遇するし。携帯だって、会ったときにチェックしようと思えばできるんだろうけど、どうせカッカするだけだからやめてるの。おまけに、朝に言ってたような隣の女子高生みたいなのに至っては、もう日常茶飯事よ」
「……一条さんも大変だ」真澄がぽつりと言った。
「離れてるのもあるし、おっしゃるとおり、彼みたいなのがずっと清廉潔白でいろって言う方が無理だとは思うんだけど──」
「それは違うわよ、一条さん」麗子が言った。
「えっ?」
「本人や周りがそう思っても、あなたまで同じように考えちゃダメよ。いくら離れていようと、どんなにモテようとも、浮気は絶対に許さない、って態度でいないと」
「……そうよね」
 俯いていた一条は大きく頷くと顔を上げた。「そう心がけるわ」
「心がける、じゃまだまだ甘い。固く心に誓っておかないと。遠距離恋愛を続けるには、よほど強い心が必要だと思うわよ。経験のないあたしが言うのはおこがましいけど」
「ううん、そんなことないわ。どうもありがとう」
 一条はにっこりと笑った。思いがけず、心強い味方を得た気分だった。
「でも……」
 と、ここで真澄がおもむろに言った。一条と麗子はルームミラー越しに彼女を見ると、続く言葉を待った。
「あたし、芹沢さんとなら一度くらいデートしてみたいかも」
「え?」と一条は片眉を寄せた。
「あら、正直あたしだってそうよ」と麗子も言った。
「え? ええ?」
「今日、久しぶりに会うたけど、ほんまにカッコいいもんね。隣に並んだだけで、きっと舞い上がるわ」
「女の扱いに慣れてそうだから、一緒にいる間はずっと気分よくさせてもくれるだろうだし」
「なーに? 二人とも。三上さんなんか、つい今しがた言ってたことと、まるで正反対じゃん」
 一条は口元を歪めて二人を交互に見た。「二人ともいい女だから、あいつに近づけちゃ危険だわ。ダメダメ、デートなんかさせてあげない」
「あら、ちょっとした願望よ」
「そうよ。あんな男前をいつも独り占めしてる一条さんを、少し(ねた)んでみただけ」
 真澄は悪戯っぽい表情でそう言うと、ふふっ、と楽しそうに笑った。
 その笑顔を見て、一条と麗子はさり気なく顔を見合わせ、自分たちも微笑んだ。実は、真澄が眠っている間に二人で打ち合わせをしておいたのだ。京都に向かう車の中では、できるだけ明るく振る舞い、他愛のない、女の子らしい話題で彼女の気持ちを和ませようと。
 一方の真澄も、自分に背中を向けている二人が安堵する様子がその肩越しからも分かって、彼女なりにほっとしていた。二人が自分を気遣ってくれていることに気付いていたからだ。極めて軽い調子で話すことで、どうしても沈みがちな気持ちを少しでも晴らすようにしてくれているのだろう。それが分かっていたから、自分も、彼女たちの軽妙な会話にすすんで調子を合わせていたのだった。
 だが本当は、ゆうべ中大路が自分の前から消えたと分かったあの時から、少しも心境は変わっていなかった。
 怖くてしかたがなかったのだ。
 その上、明け方のある時点から、彼女はまた新たな不安を抱えてしまった。
 やがてその不安は、他の何よりも彼女に重くのしかかり、今まで以上に苦しめ始めていたのだ。
「──気分が悪いの?」
 一条に声をかけられ、真澄ははっとして顔を上げた。
 つい、考えてしまっていた。
「ううん、違うの」
「……そう」
 一条はぽつりと言って、少し疲れたような溜め息をついた。精一杯真澄を元気づけたつもりが、結局は効果がなかったことに気付いたからだった。
 一条のそんな様子を見て、真澄は彼女を落胆させてしまったと後悔した。ごめんね。あなたたちのせいじゃないのに。だけど、どうしても頭から離れないの。どうせならいっそのこと、この不安を口にして、二人に分かってもらおうか。
 そうすれば、少しはこの苦しみが軽くなるかも……。
「あたし──」
「なに? 真澄」
 麗子が訊いた。一条も真澄を見た。
「あたし……」
 真澄は繰り返し言って、その口元に手を添えた。その手は少しだけ震えていた。
「……裏切ったのかな」
「え?」
 と一条が聞き返した。真澄の声があまりにも小さかったからだ。 
「寛隆さんを、裏切ったのかな」
「どうして?」
「だって……彼、メールで、麗子には言わないで、って」
「だってそのメールは、真澄がうちに来てから送られてきたんだもの。裏切ったことにはならないわよ」麗子が反論した。
「でも、メールを受け取ってからも、そのままこうやってみんなに協力を仰いでるし、結局は……」
 真澄はぼそぼそと言って、揃えた膝に両肘を置き、その手で顔を覆った。
「……裏切った、ってことにならへん……?」
「野々村さん、しっかりして」
 一条は身体を後ろにひねり、真澄の肩に手を置いた。
「これは裏切りじゃないわ。何にも代え難い、彼への愛情の表れよ。裏切るって言うのはね、まさに何もしないこと。何もしないで、せいぜい彼の帰りをじっと待つようなことよ」
「そうよ。万が一中大路さんがこれを裏切りだって言うのなら、残念ながら彼は真澄にはふさわしくない人間なんだわ」
 麗子が言って、ハンドルを持つ手に力を込めた。
「その通り。そのときは、男どもが何と言おうとわたしがその中大路って人をぶっ飛ばしてあげる」
 一条は右手で作った拳を左手に打ち付け、さらに続けた。
「ストレス溜まってるんだから。わざわざ休暇をとって男に会いに来たのに、何だか良くわかんないうちに、まるで会ったこともない別の男を追っかけるハメになっちゃってるんだもの。ねぇ野々村さん、わたしだって結構悲惨でしょ?」
 真澄は両手で顔を覆ったまま、思わず吹き出した。


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