Ⅲ.イギリス生活(推察)ー②

文字数 5,617文字

 カフェに着いた麗子と萩原がそれぞれのオーダーしたコーヒーを手に待つこと十五分、山岸賢(やまぎしけん)は実に楽しそうな空気とともに現れた。
 萩原を見つけるなり太陽のように明るい笑顔を浮かべてテーブルに近づいてきた山岸は、麗子を見ると一瞬だけ照れたような表情になり、すぐに爽やかな挨拶をしてきた。
 麗子はそれに応えながら、事前に萩原に聞かされていたプロフィールから想像していたイメージ通りの男だなと思った。小学校一年生から脇目もふらず打ち込んできたバスケットの腕は本場アメリカ仕込みで、即ちスポーツ万能の帰国子女だそうだ。英語が堪能な体育会系、それが彼が入行後二年足らずで商社に派遣された理由らしい。
「──萩原ぁ、おまえったらまさかもう再婚?」
 ホットラテのトールサイズを手に席に着いた山岸は、相変わらず愉しそうな笑顔を浮かべて向かいの二人を見た。
「違うよ。大学の同級生」
「こんな綺麗な人と? ほんとにそれだけ?」
「ああ。それだけや」
 萩原は言うと麗子に視線を向けた。「ちゃんと相手もいるし」 
「へぇ、それは残念」
 山岸は本当にがっかりした表情を浮かべた。「それで? 俺に興和商事時代の何が訊きたいって?」
 ──無駄話は一分以内に切り上げる。入行当時から彼が口癖のように言っていたことを、萩原は思い出した。
「実は、中大路寛隆っていう人物についてちょっと知りたいんや」
「中大路……?」山岸は首を傾げた。
「ロンドンで一緒に仕事してなかったか? おまえより一年早く支社を去ったはずやけど」
「ああ、あの中大路さんね」
 山岸はひとつ頷き、テーブルの上で両手を組んだ。「あの人がどうかしたのか。俺、あんまり知らないけど」
「ロンドンにいる頃、女性の影ってなかったか」
「……なるほど。素行調査か」
 山岸は今度は意味深に頷いて麗子を見た。
「そうなんです」と麗子はわざとバツが悪そうな表情を作って山岸に微笑みかけた。「私の従姉妹が、今度結婚するので」
「中大路さんと?」
「ええ」
「だったら、あんまり迂闊なことは言えないなぁ」
 屈託のない笑顔を浮かべながら、山岸は頭を掻いた。
「いいえ、仰って下さって結構です。多少のことが出てきたくらいでは、破談にはなりませんから。女性関係の一つや二つ、三十歳にもなろうって男の人には無い方がおかしいですし。ちゃんと過去に終わっている話なら、それでいいんです」
「へえ……」
 麗子の言葉に山岸はたちまち笑顔を引っ込めると、今度は腑に落ちないとでも言うように顔をしかめた。
「わざわざ過去の女性関係を掘り返して、それがちゃんと終わってることを確認しておくって? そんなこと、知らなけりゃ知らないでいいんじゃないですか?」
「もちろんそうなんですけどね。従姉妹側からしてみれば、心得ておきたいんでしょう」
「ふうん」
 山岸はまだ納得はしていない表情のまま頷き、それからぎこちなく微笑んで腕を組んだ。
「いずれにせよ、僕の話せることと言ったら少ないですよ。何しろ、中大路さんとは職場だけの付き合いでしたから。もちろん、同僚としてたまに食事や飲みには行きましたけどね」
「それで結構です。あくまで形式上の調査ですから」
「なるほど。じゃあ──」
 山岸はコーヒーを一口飲んだ。そして今度は一切の翳りの無いまっすぐな眼差しで麗子を見て言った。
「女性かどうかは分からないけど、ロンドンで中大路さんが誰かと一緒に暮らしてたのは知ってますよ」
「「一緒に暮らしてた?」」
 麗子と萩原が異口同音に声を上げた。
「そう。当時スタッフから聞いた話では、確か中大路さんがロンドンに赴任してすぐからだって」
「女性かどうか分からないって言うのは?」萩原が訊いた。
「いつだったか、中大路さんが支社に忘れ物をして帰ったことがあってさ。翌日の取引先との会議に使う資料で、当日中大路さんは直接相手の会社に出向くことになってたから、前日のうちに届けた方がいいだろうってことで、同僚が中大路さんのアパートに届けたんだ。同僚は行く前にあらかじめ連絡を入れておいたから、玄関先で応対に出た中大路さんに資料を手渡してさっさと帰ってきたらしいんだけど、部屋の奥で、確かに誰かがいる気配があったって、翌日話してた」
「たまたまその日だけってことはないのか?」
「それがそうでもないんだ。ほら、どこの会社でも従業員向けの社内販売ってあるだろ。総合商社だから、高級貴金属から日常の食料品や生活雑貨まで、やたら何でも取り扱っててさ。中大路さんもよく利用してたらしいんだけど、男の一人住まいにしちゃ、ちょっと注文量が多かったらしいから、やっぱり誰かと一緒に住んでるんじゃないかって」
「こまめに買うのが面倒だから、一度に多く注文したのかも」
「高級生鮮食料もだぜ? 牛肉や七面鳥、オマール海老とかの」
「……何でも売ってるなぁ」
 と別のところで感心している萩原には構わず、麗子が低い声で言った。
「……中大路さんは、料理しないはずよ」
「えっ、ほんまか」
「ええ。美食家なのに腕はからっきしなのって、真澄が言ってた」
 麗子は萩原に振り返った。「勝也とは正反対だって」
「……そうか」萩原は溜め息をついた。
「じゃあやっぱり、同居人は女性かな」山岸が言った。「女性と結婚するんだから、ゲイでもないんだろうし」
「女性──それもごく親密な関係の──可能性は高いな。まさか家族ってことはないんやろ?」
 萩原は麗子に訊いた。
「もちろん。海外赴任にご家族は同行されてないはずよ」
「決まり。恋人だ」と山岸はパチンと指を鳴らした。「だけど、今はもう切れていれば問題ないわけでしょ?」
「ええ」
 麗子は力なく頷いた。それが林淑恵であると思われるからだ。
「あいにく、そこまでは僕には分かりませんね。中大路さんに直接訊けないのなら、当時の同僚を紹介してもいいけど、きっとみんなはっきりとは知らなかったんじゃないかな。去年の春、中大路さんが帰国するときに荷造りを手伝ったスタッフがいて、そのときはもう一人分の荷物しかなかったみたいだし。結局は分からずじまいだったなって、誰かが言ってました」
「ありがとうございます。じゅうぶんです」
 麗子は美しい笑顔で言うと頭を下げた。
「それにしても、こんなことをわざわざ人を使って調べようって言うんだから、中大路さんのお相手はさぞかしご大層なお家柄のお嬢さんなんですね」
 山岸はちょっと呆れ気味に言った。
「いえ、決してそう言うわけでは……」麗子は苦笑した。
「ご両親にとっては、娘さんはその彼女一人なんや。せやから、何しろ心配って言うかさ」
 萩原が助け船を出した。
「……そういうもんかなぁ」
 山岸は頭を掻いた。


 山岸が銀行に帰って行き、二人になったところで麗子が溜め息混じりに言った。
「……そこまでの仲だったんだ……」
「わざわざ呼び寄せたんかな。日本から」
 萩原は眉根を寄せて言った。結婚後一年経たずして新妻と生後九ヶ月の子供を置いて単身赴任をした彼にとっては、いささか思うところがあるのかも知れない。
「林淑恵さんが押しかけたのかも」
「どっちにしたって、三年ほどは一緒に住んでたわけやろ。相当親密な仲には違いないよな」
「どうして別れちゃったんだろ」
「えっ?」
「だって思わない? 学生時代だけの付き合いならまだしも、結婚もしてないのに海外にまでついていって一緒に暮らす仲だったのよ。そこまでの関係なのに、どうして結婚まで至らなかったのかしら。しかも中大路さんは真面目な人よ。女性と簡単にひっついて、気軽に同棲して、やがて環境が変わるから女性も精算するなんて、そんなタイプじゃないわ。だからこそ別れた理由が気にならない?」
 麗子は強い口調で言った。
「確かにそうやな」
「その理由が分かれば、同窓会で二人が再会したときに何があったのかも推測できるような気がする」
「調べるつもりか」
「そうね。私一人じゃ限界があるけど……豊をこれ以上引き留められないし」
「まだ大丈夫やで」
 萩原は腕時計を見た。二時四十分だった。
「ううん、いいのよ」
 麗子はかぶりを振った。「山岸さんに会わせてくれただけでじゅうぶん」
 そのとき、麗子の鞄でスマートフォンが震え出した。麗子はちょっとごめん、と萩原に言うと鞄に手を入れ、電話を取りだした。
「──一条さんからだ」
 親指を右に動かすと電話を耳に当てた。「もしもし」
《──三上さん、今、話してもいい?》
「ええ、大丈夫よ」
《林淑恵のことだけど。ちょっと気になることか分かったの》
「実はこっちもよ」
《そうなの?》と一条は声を弾ませた。《どこかで落ち合える?》
「いいわ。今、どこにいるの?」
《それがさっぱり分からないの。午前中は北浜ってところにいたんだけど、お昼ご飯食べてからちょっとうろうろしてたら、分からなくなっちゃって。スマホで確認しながら歩いてたんだけど、正直、地図は得意じゃないの。たぶん大阪市の北部にいると思うけど》
「……方向音痴なんだ」と麗子は苦笑した。「西天満署とは遠いの?」
《それが分かれば苦労しないんだけど、たぶん違う方向》
「近くに何か目印になるようなものはない? 標識でも建物でも」
《うーん……》
 一条は言葉を切った。ランドマークを探しているようだ。
《──あった! あれって絶対に

よ!》
「……北浜からどこに行ったって?」
 麗子は呆れて電話を見た。



 茜が西天満署を出てきたのは、午後三時を十五分ほど回った頃だった。
 琉斗はあれから、ずっと署の向かいの鳥居脇で茜を待った。腹が減っていたが金がなかったので我慢し、携帯電話で暇を潰しながら辛抱強く待ち続けた。途中で一度だけ、家に電話を掛けてみたが、誰も出なかったし、もちろん掛かってもこなかった。
 別にええねん、と思い直し、河からの冷たい風が身に染みる寒空の下、琉斗はひたすら孤独な時間をやり過ごした。
 だけど、頼まれもしないのに勝手に待っているとは言え、オレって人間はいったい誰に必要とされているのだろうと、今さらながらに惨めな問いかけを自分に投げかけてたりして、それでもやっぱり消えてしまうことは出来ないんだなと思った。だから茜の姿を見つけたとき、琉斗はちょっと涙が出たし、安堵もした。
 茜はそんな彼の気持ちが解っているはずもなく、通りの反対側に彼を見つけると、ちょっと驚いたような表情になり、そしてそれをすぐに引っ込めてそのまま歩き出した。
「茜」
 慌てたように琉斗が通りを渡ってきて、茜の横に並んだ。
「どうしてまだいたの」
 茜は怒ったように言った。
「どうしてって──」
 琉斗は戸惑いを隠さずに茜を見ると、溜め息をついた。
「……心配やったから」
「先に帰ってって、ここへ来るときに言ったじゃん」
「でも──」
「琉斗には関係ないことなんだよ。巻き込まれたくないでしょ」
「そんなことないよ」
「でも、言っちゃ悪いけど、琉斗は何もできないじゃん」
 琉斗は立ち止まった。哀しい顔で茜の背中を眺めると、俯いて唇を噛んだ。
「……そうやな」
 少し歩いたところで、茜は振り返った。「……ごめん」
 琉斗は首を振った。茜は琉斗のそばに戻った。
「……ママ、何も憶えてないんだって。お酒飲んでたから」
「そうなんか」
「情けないったら、嫌になる。あんな人が自分の親だと思うと、死にたくなる」
「茜……」
 琉斗は心配そうに茜の顔を覗き込んだ。曲がった鼻の先が少し赤みを帯びていた。
「警察は、あたしのことだって疑ってるわ」
「……ほんまか?」琉斗は驚いて目を見開いた。
「あたしの昨日の午後のアリバイがはっきりしないから」
「やっぱりそうやったんか……」
「琉斗も何か訊かれたの?」
「茜とすぐに連絡がついたのかって。昨日の午後、茜がどこでどうしてたか知りたいんやな」
「琉斗はどう答えたの?」
「憶えてないって言うといた」
「……そう」
 茜はなぜだが不服そうに言って俯いた。
 しかし、本当のところ刑事と同じように琉斗もまた、ずっとそのことを知りたかったのだ。
「なぁ茜──」
 琉斗が真相を問い質そうとしたとき、茜はワンピースのポケットから何かを取り出して琉斗の右手に握らせた。
「何──」
 琉斗は驚いて手を開いた。
 一万円札が二枚、くしゃくしゃになってそこにあった。
「これ、なんや」琉斗は茜を見た。
「見たら分かるでしょ。お金よ」
「何でオレに?」
「だって琉斗、お金が無くてケータイ代払えないって言ってたじゃない。赤点取って部活休んで補習受けてるんだから、バイトだって出来ないでしょ」
「おまえ、この金どうしたんや」
「……分かってるくせに」
 茜は俯いたまま言うと、顔を上げて琉斗を睨みつけた。
「それを稼ぎに行ってたなんて、警察には言えないじゃない」

 ──ああ、そうか。やっぱりそうやったんか──

 琉斗は悔しそうに唇を噛むと、茜の顔の前に金を突き出した。
「受け取られへんよ」
「エロおやじから巻き上げた汚いお金だから?」
 茜の挑戦的な言い草に、琉斗はかっと顔を赤らめた。
「どんな金だろうと関係ない。オレは人に金をめぐんでもらうほど落ちぶれてないってだけや」
 そう言うと琉斗は茜の手を取って一万円札をねじ込むと、くるりと後ろを向き、来た道を走り出した。
 その場に取り残された茜は、琉斗の背中に向かって叫んだ。
「あたしのこと、もう構わないで──!」
 
 ──今さら何を言うか。もう遅い。もう遅いんや──

 走りながら、琉斗もまた心の中で叫んでいた。

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