Ⅳ.目覚めた想いー④

文字数 4,853文字

 林淑恵はその翌日の夜、最終の新幹線で神戸に着いた。その足で実家に行き、父親に借金の申し出をしたが、理由をまともに言えなかったのと、そもそも藤村との仲も歓迎されていなかったので、いい返事はもらえなかったらしい。しかし淑恵は諦めず、自分が何とかするので久保たちが中大路を人質に会社や家族と交渉することはないようにと藤村に言って、翌日も父親との交渉に当たることにした。久保たちは一日だけの猶予を与え、淑恵たちの動向を見守った。したがって中大路は相変らず料亭跡に監禁されていたままだったが、ことが動いたのは猶予期間が終わった四日目、つまり芹沢と二宮が彼らと新居マンションの前でひと悶着を起こしたその日だった。

「あの日の朝、藤村と久保が林淑恵の実家に行って、彼女を連れ出した」
 芹沢が言った。「二宮が確認してる」
「ええ。タイムリミットが来ても諦めていない林さんが朝からお父上の仕事場を訪ねて行ってたらしいんですが、そこに久保に連れられた藤村氏が現れた。林さんを連れ出し、料亭跡に連れて来て今度は自分たちの計画に協力させるためです」
「ところが、どういうわけかその前に京都のマンションに立ち寄って、あんたのお母さんと合流しかけてる」芹沢は中大路を見た。「それがいまだに謎なんだよな。他のことはだいたい想像つくんだけど」
「……その件ですね。僕にもまったくの予想外でした」中大路はため息をついた。「まるっきり母の早合点なんですが、それもまた僕の言動が誤解を生む結果となったんです」
「ただの出張だなんて、思ってらっしゃらなかったのね」麗子が言った。
 ええ、と中大路は頷いた。「挙式の五日前になって、突然何日も家を空けるというのが納得できないようでした。専務の津田に訊いても、行き先も用件もはっきりとしない。僕が口止めしていましたからね。そんなことは今までなかったですから、何かあったんじゃないかと疑うのは自然です。楽天家の父はそんなこともあるだろうと、母をなだめていたそうですが、母親の勘と言うんでしょうか。僕に何かあったのだと見抜いた。ただそれが、結婚に絡むトラブルだと勘違いしてしまった」
「挙式を目前にしてるから、当然といえば当然ね」
「ええ。それで母は、津田が何か知っているという確信はあったようですから、彼にしつこく問い質した。最近の僕に何か特別なこと、変わったことはなかったかって。津田は仕方なく、同窓会のことを話したそうです。そのくらいなら大丈夫だろうと」
「なるほど、それで淑恵さんのことを思い出したのね」
「その通りです。林さんが僕の結婚を知って、何かよからぬことを考えているのではないかと早合点したようです」
「けど、すぐにそういう結論を出すって、何て言うか――ちょっと」芹沢がめずらしく言い淀んだ。「俺には考えにくい」
「……それって、昔のことがあったからじゃないの」麗子が言った。「ロンドンでのこと」
「そうです」と中大路は頷いた。「母は全部知ってますから」
「林さんが結婚を邪魔するようなことを言ってきたとか?」
「そんな風に誤解したようです。それで母は、彼女に連絡を取った。どうやって彼女の連絡先を調べたのか、昨日母に問い質したんですが、教えてはくれなかった。まあ、あの人もいろんな方面に顔の広い人ですからね。どうとでもなるんでしょう」中大路は苦笑いを浮かべた。「林さんはちょうどお父上の説得にあたっているときで、母からのアプローチにかなり驚いたそうですが、母の『何か困っていることはないか』という言葉に、彼女は彼女で誤解をした。僕が久保たちの目を盗んで母と連絡を取り、彼女を助けてやってくれと頼んだのだと」
「それであの日、会うことになったのか」芹沢が言った。
「母によると、当初は京都駅前のホテルで二人で会うことになっていたそうです。ところがその日の朝、林さんのところに藤村と久保が現れたことによって予定が崩れた。彼女は二人に同行することを余儀なくされ、仕方なく母と会うことになっていることを打ち明けた。すると久保は、呑気に時間まで待って母に警察にでも行かれるとまずいと思ったんでしょう。すぐに母のところへ行けと言ったようで、その日は母がマンションに居ると聞いていた林さんは、約束の時間よりもずっと早く京都に着き、マンションの前から母を呼び出した」
「……そうするしかなかったんでしょうね」麗子は沈んだ声で言った。「無茶はできないわ。お腹に赤ちゃんがいるんだから」
「ええ。そこが一番だったと思います。本当なら、こんな騒動にすら関わりたくなかったはずだ」
「お母様は、林さんにどんな話をしようと――」
 中大路は俯いた。「……母という生き物の、愚かさをそのまま形にしたような話です」
 麗子は小さく頷いて目を閉じた。余計なことを訊いて悪かった、というような表情だった。
「時間があればじっくりと話を聞いて、林さんの納得するような対処も出来たのだろうけれど、とにかく時間がなかった、と母は言っていました」中大路は顔を上げた。「だから金を用意したと」
「……一概に責めらんねえな」芹沢がため息をついた。

 互いに誤解を抱いたままの林淑恵と中大路の母との“交渉”は、芹沢と二宮の登場によって実現することなく終わる。淑恵と久保は車でその場を去り、走って逃げた藤村とのちに合流して琵琶湖畔へ向かった。そして中大路を連れて山科の事務所へ移動するのだが、その際、中大路が抵抗をして久保の手下に痛めつけられ、頭に怪我を負う。料亭跡の裏庭に落ちていた血痕は中大路のものだった。
 山科に移動したのち、久保は再度、淑恵の父親と取引するように淑恵に要求した。借金が望めないなら、当初中大路に依頼した、中国からの荷物の運搬だ。淑恵は無理だと言って拒否したが、そのとき怪我を負って動けなかった中大路を盾に、こいつがどうなってもいいのかと言って脅した。淑恵は仕方なく承知し、神戸に帰った。久保の手下と藤村がそれに同行した。中大路は薄い意識の中、歯痒い思いでその様子を見ていたという。

「――やがて突然、あなた方が現れた」
 中大路は芹沢を見た。「ただただ驚きました。だけどその直後に、ものすごく安心しました」
「そんな顔してたな」と芹沢は笑った。
「あの方の具合はどうですか。神奈川県警の――」
「ああ、心配ねえ。無事に横浜へ帰った。もう着いてる頃だ」
「でも、骨折と言ったら大変な怪我ですし」
「そりゃまるで平気って訳にはいかねえけど、特に問題ないと思うよ」芹沢は言って片目を閉じた。「気にすることねえって。昨日言ってた、治療費ってのも必要ないから」
「……本当に申し訳ありません」
 中大路は深く頭を下げた。
「――そのあと、林さんたちはどうなったのかしら」麗子がぽつりと言った。
「分かりません。逃げた僕には連絡はないですし、もちろん僕からもしてませんし」中大路は首をひねった。「本当なら、僕が警察に被害届を出せば、久保たちを摘発できて、きっと彼女たちも助かるのでしょうけど……あいにく今の僕にはそんな――」
「当然よ。そんなことに関わってる余裕ないわよね」麗子は言って強く頷いた。「ごめんなさい。余計なこと言ったわね」
「……いえ」
 中大路は言って、神妙な顔つきのまま周囲を見渡した。
「今回のことでは、本当にみなさんに――」
「ええよ、そういうの」
 鍋島が手元を見つめたまま言った。
「え――」
「俺らに謝罪は必要ない。謝罪とか、釈明とか、あるいは反省の弁とか――そういうのは不要や。仮に今回のことで何か考えたことや心境の変化があったんなら、それは真澄にだけ伝えとけば、俺はそれでええと思う」
 そう言うと鍋島は顔を上げて芹沢を見た。「なあ?」
「ああ」と芹沢は頷いた。
「麗子もやろ」
「あたしは何もしてないもの」麗子は肩をすくめた。「それにね、中大路さん、今ここには勝也と芹沢くんの二人しかいないのよ。一条さんや二宮刑事はいないわ」
「……そうでした」
「真澄にはちゃんと、気持ちを全部話したんでしょう?」
「ええ」中大路は頷いて、真澄を見た。
「だったらもういいんじゃない。知りたいことはちゃんと話してくれたし、十分だと思う」
「……お気遣いありがとうございます」
 中大路は深々と頭を下げ、真澄も彼に倣った。
「――とにかく、これで良かったってことで」
 麗子はその場の空気を変えるように明るく言った。「そろそろお開きにする? 明日早いし」
「そうやな。そろそろ出んと」と鍋島が腕組みを解いて腰を浮かせた。「ここの後片付けは俺がやっとくよ」
「あの、そのことなんですが」と中大路が言った。
「え?」
「鍋島さん、やっぱり明日、ご出席願えませんか」
「あ……」
「勝ちゃん、お願い」真澄が両手を合わせた。
 鍋島はゆっくりと座り直した。麗子と芹沢は黙って鍋島を見守っていた。
「――やっぱり、遠慮しとくよ」
 やがて鍋島は言って、中大路を見た。「ごめんなさい。わがまま言うて」
「……分かりました」
 中大路は落胆したが、すぐに笑顔を見せた。「こちらこそ、無理を言ってすいません」
 真澄は明らかにがっかりして、べそをかいたような表情になり、俯いた。泣かれると困ると思った麗子は彼女の手を取り、優しく握った。真澄は顔を上げ、なんとか笑みを見せた。
 芹沢は何も言わず、ただ黙ってその様子を眺めていた。


 麗子が中大路と真澄の二人とともに京都に向かって家を出たあとの三上宅で、鍋島は残って後片付けをし、芹沢はそれに付き合っていた。
「――明日は何時の新幹線や」
 鍋に残ったカレーをフードコンテナに移し替えながら、鍋島はダイニングでスマートフォンを操作している芹沢に訊いた。
「ん? 俺?」芹沢は顔を上げた。「決めてねえ」
「ええのかそんなんで。指定席取っとかんと、時期的に満席やろ」
「しょうがねえだろ。取ったもののその時間に行けねえってことになれば無駄なだけだ」
 芹沢は言うとまた視線を落とした。「理想は六時台ってとこかな。一緒にメシが食いたいって言ってるし」
「そらそうやろ。クリスマスやで」鍋島はコンテナの蓋を閉めた。「よろしく言うといてくれ。世話になったって」
「自分で言えば?」芹沢はにやっと笑った。
 鍋島はチッ、と舌打ちして容器を冷凍庫にしまった。
「――人の心配なんかいいから、おまえの方こそ、明日は京都に行けよ。休暇取れ」芹沢が言った。
「……もういいよ」鍋島は俯いた。
「よくねえよ。さっきだってあれだけ頼まれてたんだし、もうあんま頑なになんなって」
 芹沢はスマートフォンをテーブルに置き、腕組みして鍋島を見た。「行っとけ。おまえ自身のためにも」
「俺の?」鍋島は上目遣いで芹沢を見た。
「ああ」芹沢は真顔で頷いた。「けじめだよ」
「……けじめな」鍋島は溜め息をついた。
「頭ん中でとか、気持ちの上ではちゃんとつけてるつもりだろうけど、だったらそれをあえて形で示すのさ。いわば儀式だ。あえて儀式にすることで、頭ん中と気持ちの上でのけじめが間違いのないものになる。それで今度こそ終われるんじゃねえか」
 鍋島は小さく頷いて、食洗機の扉を開け、下洗いした食器を入れ始めた。
「いいか。行っとけよ」芹沢は念押しした。「行って、ちゃんと野々村さんを祝福してこい。三上サンと一緒に」
「……そうやな」
「何だか頼りねえな」芹沢は口元を歪めた。「ま、俺もこれ以上は巻き込まれたくねえから」
「悪かったな」
「ったく、いまさらだぜ」
 時刻は十一時近くになっていた。


 何はともあれ、長かった五日間が終わった。
 五日前の夜も、今夜と同じくらい静かだった。けれども今日の方が少し暖かいような気がするのは、ちょっと感傷的な思い込みなのだろうかと鍋島は思った。


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