Ⅳ.届かぬ気持ちー③
文字数 3,242文字
深見哲の愛人と言われる女性を訪ねて、鍋島は中央区の上本町 に来ていた。
目指すマンションは近鉄 上本町駅から北へ徒歩で十分ほどのところにあった。大小様々なビルが林立し、その合間にいくつもの古い寺がバランスよく配置されているという、一風変わった地区の一角の五階建てだ。
本田 佐津紀 は三十二歳、阿倍野 区の帝塚山 にある人気のフレンチレストランのソムリエールだった。
兵庫県神戸市の出身で、地元の短大を卒業後、大阪市内の食品輸入会社でOLとして働いていたが、四年ほどで退職し、ワインと語学の勉強のために二年間のフランス留学に出た。帰国後、ソムリエとホテルビジネス検定の資格を取り、神戸のホテルで働いていたところを、今勤めているレストランを開こうとしていたオーナーシェフに誘われ、開店当初から店のプロデュースにも参加しながら、ソムリエールとして働いている。
つまり、茜の父親とは広い意味での同業者というわけだ。
その深見との関係は、妻の春子によると二年以上だということだったが、馴れ初めについては春子もはっきりとは知らないようだった。
ただ、
「──同業者だから、どこにでもきっかけはあったはずです」
と言い放った彼女の言葉に、刑事たちにも異論はなかった。
実際、深見の店の従業員に話を聞いたところ、佐津紀は三年ほど前に初めて店に姿を現して以来、一時期は頻繁に顔を出していたという。最初はお互いの持つ職務上の情報交換が目的だったようだが、そのうち、佐津紀はただ深見に逢いたいがために店に来ているのだと、誰もが考えるようになったらしい。
その様子は、愛人と言うより、恋人と言った方が相応しかった、とのことだった。
片方が別の相手と結婚しているのに、恋人も何もあるもんかと鍋島は思った。恋人と不倫相手は違う。どうせ本人たちにはそれらしい言い分とやらがあるのだろうが、俺に言わせればそんなものはただの言い訳だ。少なくともこの国の道徳では認められていないし、そう教えられて育ってきたはずだ。
それでも別の相手に気持ちが移ってしまったというのなら、ちゃんと始末を付けるべきだ。
結婚するということは、そういうことではないのか。
だからと言って、結婚前なら何をやってもいいということにもならないが──
──中大路は、何を考えているのか。
あの男には覚悟があったはずだ。真澄とどういう経緯で見合いをするに至ったのかは知らないが、彼女を気に入り、結婚を決めたのは自分の意志だったのではないのか。実際、彼女の心の奥底を知りたくて、俺に会いに来たことだってあったではないか。そうやって一年近くも彼女と向き合ってきて、彼女をその人生ごと引き受ける約束をしておきながら、それで今頃、昔の女に迷うなんて。
あんなやつに真澄を幸せにできるのか──?
でも、じゃあ、俺のこの気持ちは、何なんだろう。
──あなたには三上さんへの大きな愛情がある。そしてそれと同じくらい、野々村さんに強く同情もしてるわ──
鍋島は昨日一条に言われた言葉をまた思い出した。
同情か。俺は真澄を憐れんでいるのか。
でもきっと、それだけやないんやろうな。
──結局あなたは、野々村さんに今のままでいて欲しいのよね。あなたにとってもそれが一番安心ってわけ──
そうかも知れん。昨日は認めようとしなかったけど、俺は真澄に他の男と結婚して欲しくないのかも知れん。だからと言って自分が彼女を受け止めることができるかって言うと、俺には麗子がいて、あいつを愛してるから、それはできない。だから、すぐに目が届く、それでいて少し離れたところで、今のままで、俺のことを好きな真澄のままで、ずっと俺を見守ってて欲しいのかも──。
鍋島は苦笑した。
中大路や深見よりも、俺が一番諦めの悪い男なんやろな。
なあ一条。おまえにはきっとそれが分かってたんやな。
無意識のうちに、右手で今朝、芹沢に殴られた顎を触っていた。まだ治まりが悪い。さすが、空手三段は伊達じゃない。
俺は相変わらず、あいつに自分の駄目なところを全部曝 け出してしまっている。そんな青臭い馴れ馴れしさを望むようなやつじゃないのに。哀しい独りよがりとはいえ、あんなに絶望的な生き甲斐を背負っているあいつに、俺はどこまで甘えれば気が済むというのか。
おまけに今朝は、お互いに尻の穴が痒くなるようなことまであいつに言わせて──
──みんな、おまえを放っとけねえんだ。──何でかってぇと、おまえって野郎の駄目さだけじゃなくて、誰にも真似できねえ暑苦しい優しさが分かってるからさ──
そんなんじゃない。きっとそんなんじゃなくて──
鍋島は顎に添えていた手をそのまま顔に滑らせて頭まで回し、髪をくしゃくしゃにかき回して目を閉じた。
いい加減、自分という人間を投げ出したくなっていた。
だけど、それはもう芹沢が許さない。
だったら、せめて麗子には解っていて欲しい。
──身勝手やろ? 俺は──?
挙式の五日前にバックレた男と、なんにも変わらんよ──
マンションのエントランスに入ると、鍋島は正面の自動ドア脇に設置されているセキュリティシステムのところへ行って佐津紀の部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押した。
しばらく待って応答がなかったので、もう一度同じ操作を繰り返した。しかし返事はなかった。
困ったな。鍋島は腕組みをした。刑事部屋から勤め先のレストランに問い合わせたとき、彼女は今日から三日間の予定で休暇を取っていると知らされたのだが、実は深見も自分の店の従業員に二、三日店を空けるようなことを言っていたので、てっきり二人で旅行にでも行くつもりだったのだろうと鍋島たちは考えた。
その深見がああいうことになったので、佐津紀はおとなしく家にこもっているのではないかと思っていたのだ。
やはり、連絡を入れてから来れば良かったか。だがもしも佐津紀が昨日の傷害の一件に直接関わっていた場合、彼女に逃亡の恐れがないとは言い切れないと考えて、こうしてアポ無しの訪問をしたのだ。
鍋島はセキュリティシステムを見つめた。すると左下の隅に管理人を呼び出すボタンがあった。
そこで鍋島は、自動ドアのガラスに顔を近付けて奥を見た。正面のやや右寄りに管理人室があった。ドアのすぐ隣にある小窓にはカーテンが引かれ、「外出中」と書いた白いプレートがかけてあった。あいにく今は留守のようだ。
やっぱり、公衆電話を探して佐津紀の部屋に電話をかけるしかないなと、鍋島はドアから離れた。その前にもう一度だけ彼女の部屋番号を押して呼び出してみたが、同じだった。
完全に諦めた。
いい気なもんや。そりゃ、もともとがうまく行ってなかったのかも知れんけど、自分の存在が原因でその家庭を壊した相手が死にそうになってんのに、どこをほっつき歩いてるんや。愛人か恋人か知らんけど、要するにアカの他人ということやな。
マンションの玄関を出て階段を下り始めたところで、鍋島はさっき自分が来たのと反対の方向から、一台のワゴン車が滑り込むようにやってきて、急ブレーキをかけながら目の前の路肩に駐まるのに出会 した。白いボディーのドアの真ん中に、テレビコマーシャルでもよく目にする不動産会社の名前が書かれていた。
すぐに助手席側のドアが開き、初老の男が転げるようにして出てくると、ほぼ同時に運転席から一人のスーツ姿の男が姿を見せた。二十代半ばと思われるその男の顔は言いようのない不安に襲われ、そして焦っていた。
鍋島の、刑事としての本能が動いた。
「あの、ちょっとすいません」
「──は、はい?」
振り返った男の顔色を見て、死体が出たなと思った。
目指すマンションは
兵庫県神戸市の出身で、地元の短大を卒業後、大阪市内の食品輸入会社でOLとして働いていたが、四年ほどで退職し、ワインと語学の勉強のために二年間のフランス留学に出た。帰国後、ソムリエとホテルビジネス検定の資格を取り、神戸のホテルで働いていたところを、今勤めているレストランを開こうとしていたオーナーシェフに誘われ、開店当初から店のプロデュースにも参加しながら、ソムリエールとして働いている。
つまり、茜の父親とは広い意味での同業者というわけだ。
その深見との関係は、妻の春子によると二年以上だということだったが、馴れ初めについては春子もはっきりとは知らないようだった。
ただ、
「──同業者だから、どこにでもきっかけはあったはずです」
と言い放った彼女の言葉に、刑事たちにも異論はなかった。
実際、深見の店の従業員に話を聞いたところ、佐津紀は三年ほど前に初めて店に姿を現して以来、一時期は頻繁に顔を出していたという。最初はお互いの持つ職務上の情報交換が目的だったようだが、そのうち、佐津紀はただ深見に逢いたいがために店に来ているのだと、誰もが考えるようになったらしい。
その様子は、愛人と言うより、恋人と言った方が相応しかった、とのことだった。
片方が別の相手と結婚しているのに、恋人も何もあるもんかと鍋島は思った。恋人と不倫相手は違う。どうせ本人たちにはそれらしい言い分とやらがあるのだろうが、俺に言わせればそんなものはただの言い訳だ。少なくともこの国の道徳では認められていないし、そう教えられて育ってきたはずだ。
それでも別の相手に気持ちが移ってしまったというのなら、ちゃんと始末を付けるべきだ。
結婚するということは、そういうことではないのか。
だからと言って、結婚前なら何をやってもいいということにもならないが──
──中大路は、何を考えているのか。
あの男には覚悟があったはずだ。真澄とどういう経緯で見合いをするに至ったのかは知らないが、彼女を気に入り、結婚を決めたのは自分の意志だったのではないのか。実際、彼女の心の奥底を知りたくて、俺に会いに来たことだってあったではないか。そうやって一年近くも彼女と向き合ってきて、彼女をその人生ごと引き受ける約束をしておきながら、それで今頃、昔の女に迷うなんて。
あんなやつに真澄を幸せにできるのか──?
でも、じゃあ、俺のこの気持ちは、何なんだろう。
──あなたには三上さんへの大きな愛情がある。そしてそれと同じくらい、野々村さんに強く同情もしてるわ──
鍋島は昨日一条に言われた言葉をまた思い出した。
同情か。俺は真澄を憐れんでいるのか。
でもきっと、それだけやないんやろうな。
──結局あなたは、野々村さんに今のままでいて欲しいのよね。あなたにとってもそれが一番安心ってわけ──
そうかも知れん。昨日は認めようとしなかったけど、俺は真澄に他の男と結婚して欲しくないのかも知れん。だからと言って自分が彼女を受け止めることができるかって言うと、俺には麗子がいて、あいつを愛してるから、それはできない。だから、すぐに目が届く、それでいて少し離れたところで、今のままで、俺のことを好きな真澄のままで、ずっと俺を見守ってて欲しいのかも──。
鍋島は苦笑した。
中大路や深見よりも、俺が一番諦めの悪い男なんやろな。
なあ一条。おまえにはきっとそれが分かってたんやな。
無意識のうちに、右手で今朝、芹沢に殴られた顎を触っていた。まだ治まりが悪い。さすが、空手三段は伊達じゃない。
俺は相変わらず、あいつに自分の駄目なところを全部
おまけに今朝は、お互いに尻の穴が痒くなるようなことまであいつに言わせて──
──みんな、おまえを放っとけねえんだ。──何でかってぇと、おまえって野郎の駄目さだけじゃなくて、誰にも真似できねえ暑苦しい優しさが分かってるからさ──
そんなんじゃない。きっとそんなんじゃなくて──
鍋島は顎に添えていた手をそのまま顔に滑らせて頭まで回し、髪をくしゃくしゃにかき回して目を閉じた。
いい加減、自分という人間を投げ出したくなっていた。
だけど、それはもう芹沢が許さない。
だったら、せめて麗子には解っていて欲しい。
──身勝手やろ? 俺は──?
挙式の五日前にバックレた男と、なんにも変わらんよ──
マンションのエントランスに入ると、鍋島は正面の自動ドア脇に設置されているセキュリティシステムのところへ行って佐津紀の部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押した。
しばらく待って応答がなかったので、もう一度同じ操作を繰り返した。しかし返事はなかった。
困ったな。鍋島は腕組みをした。刑事部屋から勤め先のレストランに問い合わせたとき、彼女は今日から三日間の予定で休暇を取っていると知らされたのだが、実は深見も自分の店の従業員に二、三日店を空けるようなことを言っていたので、てっきり二人で旅行にでも行くつもりだったのだろうと鍋島たちは考えた。
その深見がああいうことになったので、佐津紀はおとなしく家にこもっているのではないかと思っていたのだ。
やはり、連絡を入れてから来れば良かったか。だがもしも佐津紀が昨日の傷害の一件に直接関わっていた場合、彼女に逃亡の恐れがないとは言い切れないと考えて、こうしてアポ無しの訪問をしたのだ。
鍋島はセキュリティシステムを見つめた。すると左下の隅に管理人を呼び出すボタンがあった。
そこで鍋島は、自動ドアのガラスに顔を近付けて奥を見た。正面のやや右寄りに管理人室があった。ドアのすぐ隣にある小窓にはカーテンが引かれ、「外出中」と書いた白いプレートがかけてあった。あいにく今は留守のようだ。
やっぱり、公衆電話を探して佐津紀の部屋に電話をかけるしかないなと、鍋島はドアから離れた。その前にもう一度だけ彼女の部屋番号を押して呼び出してみたが、同じだった。
完全に諦めた。
いい気なもんや。そりゃ、もともとがうまく行ってなかったのかも知れんけど、自分の存在が原因でその家庭を壊した相手が死にそうになってんのに、どこをほっつき歩いてるんや。愛人か恋人か知らんけど、要するにアカの他人ということやな。
マンションの玄関を出て階段を下り始めたところで、鍋島はさっき自分が来たのと反対の方向から、一台のワゴン車が滑り込むようにやってきて、急ブレーキをかけながら目の前の路肩に駐まるのに
すぐに助手席側のドアが開き、初老の男が転げるようにして出てくると、ほぼ同時に運転席から一人のスーツ姿の男が姿を見せた。二十代半ばと思われるその男の顔は言いようのない不安に襲われ、そして焦っていた。
鍋島の、刑事としての本能が動いた。
「あの、ちょっとすいません」
「──は、はい?」
振り返った男の顔色を見て、死体が出たなと思った。